ねむたいむ

演劇・朗読 ゆるやかで懐かしい時間 

花のもとにて

2011-04-16 | Weblog
毎年、桜の季節になると、出不精な私を花見に誘ってくれる友人がいて、今年は、京都の西山にある勝持寺というお寺に行った。近くには、大原野神社もある。
一時間に一本のバス。バス停から歩いて約一キロ。
その日、花の寺の100本の桜は満開だった。
花びらは風にはらはらと舞い、髪や肩に降りかかる。人出は少ない。

「花のもとにて、春死なん」と、西行。
「桜の樹の下には、屍体が埋まっている」と、梶井基次郎。
儚く美しいものには、憧れと不安と恐れと祈りが、入り混じっている。

お寺や神社に行くと、信仰心のない私は、いつも参拝する友人を後ろのほうで見ているだけなのだが、今年は初めて掌を合わせた。
福島・双葉町の中野さん、劇団の方たち、どうかどうか、ご無事で。

昔読んだ「ひろしのしょうばい」という童話。
ひろしという小さな男の子が、桜の季節に亡くなり、ひろしは、天国で商売をすることになる。ひろしが選んだ仕事は、大きな扇風機のようなものを一生懸命回して、桜を散らせること。ひろしは、自分が死んだことを悲しんでいるお父さんやお母さんお姉さんに、自分が散らせている桜吹雪をみせて、「きれいねえ!」と言ってもらいたいのだ。
今、手元に本がないからはっきりと思い出せないのだが、たしか、そんな話だった。読み終わった時、号泣してしまった記憶がある。

家の近くの公園の桜も大半は散って、今はもう葉桜だ。
桜が散った後には、薄緑色のつやつやとした葉っぱが勢いよくでてきている。
葉は茂り、硬く緑を濃くし、次に色を変え、あたりを赤く美しく染めて、やがて枯れて散っていく。
次の年の花は、前の年の花と決して同じものではないのに、また、当たり前のように春が巡ってくると、思ってしまう。

今年の桜は、今年だけ。
大病から回復した友人は、どんな思いで100本の桜をみていたのだろうか?




















コメント
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