福田の雑記帖

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医療の時代と死生観(13) 不安・恐怖の解消のために

2015年09月13日 05時13分22秒 | 医療、医学
 人間は発達を遂げ、知能を有し、経験は記憶され口述によって次世代に伝達され、遅々としながらも文明を形成する。また、情動・不安などの幅広い精神活動も身に付いた。
 子育ての困難さから、人は家族を作り、一族で共同生活してきたが、その頃の最も大きな関心事は「家族の死」であったことは容易に類推できる。

 縄紋人の平均寿命は20歳前後か、と推定される。多くが生後間もなく消化器疾患や感染症で死亡したであろう。あるいは無事に育ったとしても若くして病気や事故で次々に死亡した、と考えられる。
 この時代の死は魂が肉体から離れることであった。古代人にとって人間より強く、人を殺すことができる強いもの、あるいは人間よりも長く安定しているものは全て神であって、神にも魂が宿っている、と考えた。太陽、雷、山々、巨石、巨木をはじめとして狼、マムシなどの毒蛇も神であり、畏怖の念を抱き、それら神々の怒りを常に恐れていた。そしてなんらかの不幸が訪れた時、神々の怒りをかったためと考え、自ら反省し、許しの祈りを捧げた。カミナリは「神なり」、狼は「大神」と記載されることもあるが、神に由来した呼び名とされる。祈りを捧げるにあたって超能力を有している、と思われる人間はいわゆる祈祷師となり、祈りを捧げる行為は神事となり、のちには社を作り、神への感謝の行為は祭りとして現代まで伝わってきている。

 ここでも強調しなければならないのは、人間に不幸をもたらす病気などに際して救いを求める対象は身体的健康でなく、魂・いのちの救済であった。
 私は、近代医療は科学的知見を背景に進歩して来たが、一方で、魂・いのちへの対応をお座なりにしてきた、と思っている。

 知能の発達が情動活動の元となり、抱える不安はより大きくなり、悠久のものに神の姿を見て、神事に発展、社を建立、地域の祭りのもとになった。このプロセスを考えながら祭りの意義を考えると味わい深い。古代人と現代人は精神活動において共通なものは多いと思う。伊勢神宮も、出雲大社も人々の不安の蓄積の賜物である。

 このような営みを単に観光名所として捉えるならば日本人のこころは救われない。古代人の方が精神活動が豊かで、それなりに恵まれていたのではないか、と思うこともしばしばである。

 加えて言うならば、いわゆる生活習慣病の大部分はやはり生活習慣の乱れ、安易な習慣に由来する。だから、何らかの異常が見つかった時、ついに神々の怒りをかってしまったと考え、許しの祈りを捧げるとともに、自ら神に誓って反省し生活習慣の是正を計ることが肝要である。安易に医者にかかるのは間違いであり、愚の骨頂と言っていい。これで国民医療費は半減する。この時、特別の宗教なんて意識する必要がない。「お天道様」に謝り、祈りを捧げればいいのである。
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