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福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

音楽談義2022(11)歌謡曲が好き(6) 戦後の窮乏時代を支えた歌謡曲

2022年08月04日 05時15分24秒 | 音楽談義
 1945年(昭和20)、東京大空襲、沖縄戦、2発の原爆という国際法違反の無差別殺戮などの悲劇的出来事を経て、8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し戦闘を停止した。この日が終戦ということになっているがそれは正しくない。
 8月28日、米軍の第一次進駐部隊が神奈川県の厚木飛行場に着陸し、2日後には占領地である日本の最高権力者となったD・マッカーサーが厚木飛行場に降り立った。

 9月2日に米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われ、マッカーサーが終戦を宣言した。降伏文書が調印され、足かけ5年にわたる太平洋戦争は公式に終了した。だから、この日が終戦日ということになる。

 並木路子が歌った「リンゴのうた」は日本の戦後のヒット曲第1号となった。可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、終戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合っていたのと、敗戦の暗い世相に打ちひしがれた人々に明るくさわやかな歌声がしみわたり、空前の大ヒットとなった。

 私は昭和27年頃鉱石ラジオを作ってもらい、以降ラジオの虫となった。その中で最も楽しめたのは落語と歌謡曲であった。
 当時、ヒットした歌謡曲の寿命は今より遥かに長かった。「リンゴのうた」は終戦間も無く発表になったが、その頃も頻回に放送されていた。

 私は2008年以来、NHKで放送された歌謡曲は録音し、ライブラリーとして蓄積してある。多分、1.5000曲は溜め込んでいると思う。

 その中から、昭和20年代にヒットした曲、私の記憶にある曲を抜き出し分類してみると以下の如くである。
――――――――――――――――――――――――――――
(1)昭和20年代 焼け跡・復興の街に頻回に流れた歌
●リンゴの歌 ●長崎の鐘 ●長崎のザボン売り ●帰り船 ●君待てども ●東京花売り娘 ●東京ブギブギ●星の流れに ●異国の丘 ●モンテンルパの夜はふけて ●東京キッド ●東京シュウシャインボーイ ●テネシーワルツ ●お富さん ●東京の屋根の下・・・・・

(2)昭和20年代 男性歌手のヒット作
●夢淡き東京 ●憧れのハワイ航路 ●上海帰りのリル ●ハバロスフク小唄 ●ダンスパーティの夜 ●伊豆の佐太郎 ●町のサンドイッチマン ●若者よ恋をしろ

(3)昭和20年代 女性歌手のヒット作
●愛のスイング ●港の見える公園 ●かりそめの恋 ●東京の門 ●赤い靴のタンゴ ●連絡船の歌 ●ドミノ ●愛のスイング  ●三味線ブギウギ ●お祭りマンボ ●君忘れじのブルース ●情熱のルンバ ●星屑のタンゴ ●静かな夜のビギン ●水色のワルツ ●東京ワルツ

(4)昭和20年代 デュエット作
●しらとりの歌 ●トンコ節 ●黒いパイプ ●誰か夢なり ●サムサンデイモーニング ●夢で逢いましょう ●火の鳥 ●頬寄せて ●モダン金色夜叉 ●さいざんすマンボ ●花の命は ●貴方と共に

(5)昭和20年代モダン歌謡集
●愛のスイング ●待ちましょう ●巴里の夜 ●銀座カンカン娘 ●ユトリロのうた ●午前2時のブルース ●東京の門 ●夜の囁き ●陽気なバイヨン娘 ●そよかぜのビギン
――――――――――――――――――――――――――――
 昭和20年代といえば私は小学校3年であった。もちろん、童謡や唱歌にも親しんでいたが、よくまあこんな大人の曲を聴いていたものだ、と思う。
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音楽談義2022(10)歌謡曲が好き(5) 戦時下の芸術家、その作品を批判出来ない

2022年08月03日 08時20分16秒 | 音楽談義
 日本人は軍歌を介して文化的に、感情的に洗脳された。それほど音楽の持つ力は大きい。歌は直接聞き手の情緒に訴えるのでその影響力は計り知れない。戦時音楽には影響力があったが、罪があるとまでは言えない。

 軍歌の多くは名曲である。
 名曲だから名曲なのか、聴くものの心を深く打つ厳しい時代だったから、国民の心の深くまで浸透したから名曲になったのか、私は判断できない。当時の若者は人は勇躍、戦地へと赴いたが、その際、身近に勇壮な音楽があった。

 軍歌は人を煽り、洗脳する効果があった。軍歌は、いい歌であればあるほど、名曲であればあるほど影響力は大きい。

 戦後、音楽界で「戦犯論争」が起こった、とされるが関係者が処罰されたりすることはなかった。

 同じことは絵画の世界でもあった。
 画界の中で「戦争協力者」として突出して非難を浴びたのは藤田嗣治画伯である。氏は「秋田の行事」で秋田県民には広く親しまれている画家であり、私も好きな画家の一人である。
 氏は太平洋戦争に突入した時点で陸軍美術協会理事長に就任し、軍部の依頼で戦争画の製作を手掛けた。戦地を訪問し『ノモンハン事件』や『アッツ島玉砕』などの作品を描いた。戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、数多い戦争画の中でも傑出していると思う。
 戦後、氏は画界で「戦争協力者」批判された。最も強く批判したのは同業者たちであった。彼はその状況に嫌気が差し、日本を去った。

 著名な作品を残した音楽家、画家が戦後批判にさられたのはその時代を顧みるにあたって通るべき道の一つである。しかし、彼ら芸術家はその時代に住み、優れた才能、技術を国家に提供し、そこで最良と思われる作品を作り上げた。これは芸術家としてあるべき最良の姿で自然の姿である。戦闘の現場にいて戦った戦闘員と立場に大きな差はない。
 結果的に聴くもの、歌うもの、鑑賞するものに大きな感銘を与え、戦意を高揚したとしても振り返って罪に問うべきものではない。

 異なった時代、異なった年代の者が戦時下での判断を軽々に批判してはならない。批判するなら自らをその時代に同化できるほど、その時代を十分に学び、掘り下げた後でなくてはならない。私はそう思う。

 ただ、日本を戦争に導いた軍部、政治家、識者達の責任はもとより、世界の同様の立場にあった人々の足跡は検証し尽くさねばならない。


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音楽談義2022(9)歌謡曲が好き(4) 歌には洗脳作用もある

2022年08月02日 05時18分42秒 | 音楽談義
 明治維新は見事な無血革命であった。その背景には列強からの脅威があった。
 そのため明治政府の政策は最初から富国強兵にあった。あらゆることがこの方針のもとに進められた。
 結果として日清、日露戦争では、・・・本当は綱渡りではあったが、目覚ましい成果を挙げ、国際的にも日本の存在が認められることとなった。実際にはこれ以降、日本の行き方に暗雲が覆う様になる。

 迎えた昭和中期は戦争の時代である。
 満州事変は、中国軍が相手とはいえ、実質的には張学良の中国東北軍との限定戦争で、短期間で満州全土を制圧した。 しかし、日中戦争 (昭和12年7月) は中国国民党に加えて、精強な中国共産党軍も相手にしなければならない。

 そんな事態に、国民の戦意高揚が必要と見てとった政府は、開戦1月後の8月に、「歌の統制」に乗り出し、退廃的な歌を事実上禁止した。翌9月には、政府の肝いりで 「威厳と力のある国民歌」を公募した。 入選歌が 「愛国行進曲」(昭和12年12月)で、レコードは100万枚売れた、と言う。 当時それほど蓄音機が普及していたのか??信じ難いことである。

 一方、日中戦争開始早々の昭和12年9月に出たのが、「勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは・・・」の「露営の歌」で、この曲は日中・太平洋戦争期を通じて最も歌われたという。 他に「出征兵士を送る歌」、「暁に祈る」もある。

 他の国にも軍歌はあるが、それは兵士が歌うものであった。
 しかし、日本の軍歌は、戦闘をうたって士気を高めるだけのものではない。むしろ、天皇のために挙国一致で戦っているということを強調した国民歌の様相である。 「御稜威」、「皇国」などの表現から、天皇が確固たる中心となっていることがわかる。
 当時の日本人にとって、天皇はすべての価値の源泉であり、日本人としての美意識であり、心の拠り所だった。

 天皇のために進んで死地に赴くことをうたい、靖国神社で会おうという形が軍歌の一つのパターンとして美しく完結する。明治以来の天皇制国家日本がつくり出した美意識であった。

 おりしも、昭和15年(1940)は、神武天皇即位から2600年目にあたるとされ、さまざまな奉祝式典が開催された。音楽界でも、新作の楽曲を発表する奉祝芸能祭や、ドイツのR・シュトラウスら一流作曲家に委嘱した曲の演奏会などが開催された。 その天皇と国家のあり方を象徴する歌が 「紀元二千六百年」であった。

 歴代の為政者は日本を強大にしてゆくために、天皇を崇め、軍国主義を進めることが最もふさわしい、と判断してきた。

 日本人は軍歌を介して文化的に、洗脳されてしまった。それほど音楽の持つ力は大きい、と認めざるを得ない。
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音楽談義2022(8)歌謡曲が好き(3) 初の歌謡曲は「カチューシャの唄」

2022年08月01日 23時12分07秒 | 音楽談義
 歌謡曲とは、「歌詩・曲・歌い手」の三つを一セットとし、ヒットをねらって売り出される商業的歌曲のこと、と定義される。当初は流行歌と言われていたが昭和7年にNHKによって歌謡曲と命名されたという。
 その第一号は1914年(大正3年)松井須磨子が歌った「カチューシャの唄」とされている。詩は島村抱月・相馬御風、作曲は中山晋平。

 この歌が生まれる前、1897年(明治30年)頃、滝廉太郎は「花」、 「箱根八里」 、「荒城の月」などの素晴らしい歌曲を発表した。愛唱歌というべきほど親しみやすい作品であるが、これらはもちろん「歌謡曲」とは言えない。歌う人を限定していないからである。

  「カチューシャの唄」は公演を見た人からの口コミに端を発し、次いで新聞各紙が各地での「流行」を伝え、レコードが発売され、当時としては大ヒット、松井は大スターのはしりでもあった。

 昭和初期は自由を求める革新思想の時代にはいるが、庶民の楽しみは「浅草オペラ」の流行に象徴される「エロ・グロ・ナンセンス」隆盛の時代を迎える。当時、風俗店は全国で3万店もあったとされる。爆発的隆盛であった。

 しかし、南京事件勃発、5.15事件もあって政局は不安定となって当局の取り締まりが厳しくなった。
 この時代、私は生まれていないが、「出船の港」、「波浮の港」、「東京行進曲」、「東京音頭」、「影を慕いて」、「酒は涙か溜息か」 、「丘を越えて」、「二人は若い」、「東京ラプソディー」などがあり、SPレコードの復刻版、再録音盤で楽しむことが出来る。ラジオ深夜便でも時折取り上げられる。

 昭和の中期は戦争の時代である。
 ここでは何でもあり、多彩であった歌謡曲は発売禁止などとなり、軍歌調の歌で占められるようになる。国民精神を高揚させる目的があった。「国境の町」、「人生の並木道」、「九段の母」、「満洲行進曲、「肉弾三勇士の歌」などであるが、私は軍歌は勇壮すぎて好きになれないので自分で口ずさむことはない。

 例外的に、私が身近に感じるのは行進曲「軍艦」、いわゆる「軍艦マーチ」である。明治の終わり頃に作られていたが、戦前盛んに演奏され、1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦時にも繰り返しラジオから流された。海軍省の制定行進曲であった。
 私が卒業した岩手県立盛岡第一高等学校の校歌は、行進曲「軍艦」の旋律に別の歌詞をつけたものである。1968年(昭和43年)の第50回全国高校野球選手権大会では甲子園球場で校歌が流れたが、一瞬球場がフリーズしたが如くに静まり返った。半信半疑、何かの間違い??と全国の誰しも思ったに違いない。その時私は23歳、その時の様子は新潟大学の学生寮のTVで見たが、その後は残念ながら勝利校の校歌として流される機会はまだない。
 この項を記載するにあたって盛岡一高の応援風景をYouTubeで見た。バンカラスタイルの応援団はかつてとは変わっていない。ちょっと涙腺が緩んだ。

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音楽談義2022(7)歌謡曲が好き(2) 歌謡曲は時代をうつす

2022年07月31日 18時29分55秒 | 音楽談義
 私が歌謡曲を再認識し集中的に聴き始めた背景の一つは、近代日本の歴史を再勉強していることにも関連している。

 昭和の政治、経済、社会等の歴史から学んでいると芸術面ではどうだったのかと言う興味もわく。文学、絵画、演劇、映画等、どの分野も政治、社会、国際情勢等の影響を大きく受けている。これらの分野の変遷を近代日本が辿った足跡に重ねて見る事で一層興味がわく。

 その中でも、歌謡曲は特に世相を濃厚に反映している。
 戦前は、まず、口コミで広がり、新聞に取り上げられることでさらに流行、更に、レコードと楽譜も発売され大ヒットとなっていった。 この当時は新聞の果たした役割は大きい。

 昭和の時代を概観すると、以下のように分けられる
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●大正から昭和にかけては、大正デモクラシーの時代
●昭和初期は自由を求める革新思想の時代、
●中期は戦争の時代、
●戦後の窮乏時代
●復興繁栄の時代
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 昭和初期から歌謡曲と呼ばれることとなった流行歌は戦後ラジオの普及と共に日本の津々浦々で聴かれるようになり、次々と国民的ヒット曲が生まれるようになる。

 歌謡曲は昭和時代と並走し、戦後の窮乏時代を支え、その後の復興繁栄の時代の喜びを享受するなど、時代を濃厚に映してきた。この時代、TV、ステレオ装置の普及が音楽文化の育成に、歌謡曲の発展に大きな役割を果たしてきた。
 
 歌謡曲は日本人の心を表現している。だから、そのまま末永く続くかに思えていたが、昭和から平成に移る頃から若者を中心としたライフスタイルの変化と共に歌謡曲は急速に衰退していった。従来は家族がみんなで楽しむ娯楽から、個人個人がそれぞれ別の部屋で個別の娯楽に変化したことは大きい。

 歌謡曲の領域はジャンルが分散化し、楽曲も分散化していった。この流れの中で、ニューミュージックが台頭し、シンガーソングライターが多数誕生した。結果的に古き良き時代の歌謡曲作家、歌手達、特に日本的歌謡の、いわゆる演歌と言われる分野は大きく衰退した。

 この変遷にソニーのウオークマンが果たした役割は大きい。その後、大量の曲を持ち運ぶことができるアップルの音楽再生装置、iPodシリーズは若者達を中心に普及した。私も飛びつき、頻用した。

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