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福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

音楽談議2022(8) チェリビダケ指揮ブルックナー交響曲(6) ブルックナーについて

2022年09月17日 02時44分23秒 | 音楽談義
 ブルックナー(1824年- 1896年)は、オーストリアの作曲家、オルガニスト。
 幼少期から音楽的才能を示し、10歳頃には父に代わって教会でオルガンを弾くほどになった。1855年、リンツ大聖堂の専属オルガニストとして成功した。
 1868年にはウィーン国立音楽院の教授に就任した。それ以降、大部分のエネルギーを交響曲を書くことに集中した。

 作品の特徴として
◉ブルックナー開始:第1楽章が弦楽器のトレモロで始まる手法であり、交響曲第2、4、7、8、9番に見られる。
◉ブルックナー休止 :楽想が変化するときに、管弦楽全体を休止(ゲネラル・パウゼ)させる手法。
・・・・など。

 1876年にバイロイト音楽祭でニーベルングの指環の初演を聴く。このときに今までの自らの作品を大幅に改訂することを決意し、第1番から第5番を大幅に改訂し、後に更に第1、2、3、4、8番が再度改訂された。

 ブルックナーは生涯を通じてローマ・カトリック教徒であった。
 恋愛には純朴であり、若くて綺麗な娘を見かけるたびに夢中になった。晩年に至るまで多くの女性に求婚したが、そのすべてが破局に終わり生涯独身で過ごした。何らかの性的嗜好の偏りがあったのではないか?と思われる。
 大酒飲みで、毎晩ビールを10杯は平らげていたという。この酒好きが晩年の病気の遠因にもなったともされるが、本人にとっては良い人生だったのでは?と思われる。

 ブルックナーは72歳で死去し、幼少から過ごしたリンツのザンクト・フローリアン修道院の聖堂にあるオルガンの真下の地下墓所に棺が安置されている。私は2000年、医療視察でドイツ、オーストリアを訪れた。修道院に入ることはできなかったが、外観を眺め、ブルックナーを思い敬虔な気持ちになった。

 ブルックナーは人物像と作品の偉大さが、あまりに乖離しているところが特異なところ。 40歳を過ぎて突如として書き始めた巨大な交響曲が、後期ロマン派の中でも最も重要な作品群になった。 その一方で、 弟子や演奏家の批判に左右されて、作品を頻繁に改訂したことも知られている。自己肯定感が乏しかった??
 ブルックナーの肖像画を見ても、素朴で質素な表情をしている。大作曲家としてありえないような面をいくつも持ちながらも、強固で不変な音楽性を備えていたと思われる。

 音楽史の中では、ブラームスと対立する存在として、また、長大な作品を作り続けた点でマーラーと比較されるが、私はブルックナーの音楽性により親しみを感じている。

 
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音楽談議2022(7) チェリビダケ指揮ブルックナー交響曲(5) チェリビダケの意に反して

2022年09月16日 03時38分43秒 | 音楽談義
 チェリビダケはレコードで聴かれることを嫌悪した。ホールとは似ても似つかぬ部屋で、軽く聴かれることに我慢ならなかったらしい。氏にとって、「自分の真価は実演でしか耳にできないのだ」という信念があった。

 氏の持論の真意は本当のことわからない。
 私はかつてはタンノイGRF memoryを中心にオーディオ装置を組んでいたが今はない。就活として全部廃棄した。チェリビダケのブルックナーの交響曲CDがどんな音で鳴ったのか、ちょっと未練が残るが、時間は元には戻せない。
(ブルックナー交響曲3-6番のCD)

 私が今使用しているのはソニー製ポータブルCDプレイヤー、録音機としてローランド社「Edirol R-09HR」、再生にはオリンパス社「Radio Server Pocket PJ-20」とソニーのノイズキャンセリングヘッドフォンWH1000XM2である。
 まあ、良い音質なのだろうと、ほぼ満足している。

 これこそ、チェリビダケが嫌った「演奏されたホールとは似ても似つかぬ部屋(環境・状態・道具)で、軽く聴かれる(聞き流される)ことに我慢ならない。自分の真価は実演でしか耳にできないのだ」という信念に完全に反している。
 こんなチャチな道具で、氏が人生をかけて、丹精に、重厚に表現したブルックナーの交響曲、第3から第9までが、勝手に、頻回に聴かれていることを知ったら天国でがっくりしているであろう。

 この道具は睡眠時、入浴時を除けば、いつでもどこでも楽しむことができる。この点では大型装置にはない機能がある。私は、診療時以外の、歩行時、園芸作業時間、通勤時、読書時などには大概ヘッドフォンを装着している。外部のノイズをカットして、その上で各種の音楽などを流している。

 再生道具を記録しておく。
(左からR-09HR、ポータブルCDプレイヤー、WH1000XM2、PJ-20)
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 ◉CD再生機:デジタル出力ができるソニーのポータブルCDプレイヤーD-E707、1998年発売。約25年完動している。
 ◉録音機:Roland R-09HR。24bit/96kHzのリニアPCM録音ができ、録音機としては満足出来る。2007年発売の15年もの。今も十分機能している。
 ◉再生機:Olympas Radio Server Pocket  。2011年発売の12年もの。先に用いていたPJ-10が故障、グレードアップした。ラジオも聞ける、マイクでMP3で録音も可。私はR-09HRの録音データを転送し再生機として使っている。再生スピード変更可、区間リピート可、イコライザー付きなど十分な機能も備わっている。
 ◉ヘッドフォン:ソニー製2018年発売のWH1000XM2。特に不満はない。
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 なお私にはブルックナー交響曲各曲に対するコメントを語るほどの判断力、筆力はない。ただ、ひたすらチェリビダケ・ミュンヘンフィルの奏でるた音響の世界に没入し楽しんでいるだけ。
 私は、各種の音楽を楽しめる感受性が身についたことに満足している。
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音楽談議2022(6) チェリビダケ指揮ブルックナー交響曲(4) チェリビダケについて(2)

2022年09月15日 02時29分54秒 | 音楽談義
 チェリビダケが初めてベルリン・フィルの指揮台に立ったのは1945年8月。翌年2月には首席指揮者に任命されたことから見てよほど高く評価されていたのであろう。

 彼の鋭敏な耳は首席指揮者のフルトヴェングラーが満足していたベルリン・フィルに満足できなかった。氏はそのことを言いふらしたため、楽団の不満を買い、カラヤンと首席の座を争った際に破れたのも仕方がないことだった。口の悪さが災いした。

 出世街道から外れた氏は、オーケストラに異常なまでに長いリハーサルを要求、鋭敏な耳によって緻密なアンサンブルを築き上げることに執念を燃やした。 テンポは驚くほど遅くなり、表現は雄大になり、きわめて主観的な指揮ぶりになった。

 一方、彼はレコードを嫌悪した。
 レコードは演奏されたホールとは似ても似つかぬ部屋で、軽く聴かれることに我慢ならなかったらしい。氏にとって、「自分の真価は実演でしか耳にできないのだ」という信念。このことが、独特の演奏スタイルと相まって、氏を幻の(?)巨匠につくり変えた。

 人間、そんなに鮮やかに変身し得るものではないが、氏はカラヤンに敗れたことによって、本当の自分を発見した。 しかも、主観的ロマンティシズムという点では見事に昇華させた。 
 金管の強さや色が千変万化する手練手管の面白さ、うねりの如く厚みのある表現は、並みの練習量ではとうてい実現不可能であろう。ミュンヘンフィルは氏の表現に共感したのであろう、長い時間をかけて氏と共に作り出す音楽は独特の境地に達した。氏が残したブルックナーの交響曲の録音は教会の大伽藍に鳴りひびくような壮麗な名演となっている。
 とりわけサントリーホールで収録された第7番、第8番は素晴らしい、と思う。

 (私が愛聴している第7番、第8番、第9番のCD 9番には練習風景、氏の謝辞も収録されている)

 氏の録音を聴いていると、氏の主張に矛盾がある様に見える。
 氏はスウェーデン放送交響楽団、シュトゥットガルト放送交響楽団を母体にして活動を展開した。放送交響楽団は通常の演奏会のほかに放送用の録音も必要となる。そのために就任を嫌う指揮者も少なくない、という。指揮者はオーケストラがなければ無力である。氏はこれを引き受け、放送された楽曲がラジオ等で聴かれることには立場上理解を示していた、と考えられる。

 しかし、何度も聴かれるレコードには距離を置いた。そうは言えども双方の放送交響楽団、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団には膨大な録音が残されていた。

 さらに来日時の演奏会は録音のほかに映像まで収録している。多分、氏は録音技術の発展を目の当たりにし、自己の年齢も相待って考え方が若干変わった、と推定される。また、ご遺族の方が録音の正規の発売に理解を示し始めているともいう。

 私は氏の遺産の一部をじっくり味わっている。実に幸運である。
 



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音楽談議2022(5) チェリビダケ指揮ブルックナー交響曲(3) チェリビダケについて(1)

2022年09月14日 16時46分22秒 | 音楽談義
 チェリビダケ指揮のブルックナーを4月以降集中的に聴いている。
 きっかけは何もない。たまたまゆったりとしたブルックナーの交響曲を聴いてみたかったからである。氏の指揮した演奏を聴いていると他の指揮者の演奏も聴きたくなる。もちろん歌謡曲も聞く。だから私の耳は超多忙である。

 私は1970年から2000年にかけて集中的にクラシック音楽を聴いていた。音源は主としてレコード、FMエアチェックしたテープ、一部はCDであった。同時に音楽、演奏家に関する文献も収集し、耳と目から音楽を楽しんでいた。これらの音源・資料のほとんどは2010年以降終活の一環として廃棄した。

 チェリビダケに関する情報は元々あまり豊かではない。名指揮者の紹介本などにも取り上げられることは少なかった。氏が干されていたからであろう。ただ、CDなどはむしろ入手しやすくなっているようである。

 4月に交響曲第8番から聴き始めた。
 その後に第7、第9、第6、第4、第5、第3番と入手できた。各曲が60-90分もかかるので大変である。ここまで来れば中途半端は落ち着きがない。現在、第0、第1、第2番の音源を探しているところである。

 氏についてもさらに知りたくなった。
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 氏は1912年ルーマニアで生まれ、1996年84歳で没した指揮者、作曲家。
 ピアノと作曲を学んだ後、 24歳頃にベルリンへ移り、ベルリン音大、 ベルリン大で音楽、哲学、 数学、心理学などを学んだ。 1945年ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビュー、同年から1954年にかけて活動禁止措置を受けていた首席指揮者フルトヴェングラーが復帰するまで集中的に指揮した。 その回数は公式記録によれば、414回にも及んだ。 戦争直後の混乱期を支えた指揮者だった。 

 1954年カラヤンが首席指揮者に決定したのに伴い、氏はベルリンを去る。その後、ヨーロッパの中堅クラスのオーケストラやブエノスアイレス、リオデジャネイロほかで活躍した。

 1962年、スウェーデン放送交響楽団の首席指揮者に就任、60年代はここを拠点に北欧各地のオーケストラを指揮している。 
 1971年頃から、シュトゥットガルト放送交響楽団に首席客演指揮者として招聘され多数の公演を指揮した。
 1974年、フランス国立管弦楽団の首席指揮者に就任するが、 オーケストラの機構や音楽上の意見の相違を巡って意見が合わずシーズン中に辞任している。
 1979年、 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者、次いで音楽総監督に就任、この楽団をヨーロッパ有数のアンサンブルに仕上げ、ヨーロッパ各国で多大な支持を獲得した。 殊にブルックナーの演奏は毎回多くの話題を集めた。

 来日は9回果たしている。
 ◉1977年10月初来日、読売日本交響楽団を指揮した。 ラベル/マメール・ロワ、 バルトーク/オーケストラのための協奏曲、ベルク/ヴァイオリン協奏曲 (ソロ:ロゴフ)、ブラームス/交響曲第1番で絶賛を博した。 
 ◉1978年3月も同響を指揮、モーツアルト/ジュピター、ワーグナー/トリスタンとイゾルデより前奏曲と愛の死、 レスピーギ/ ローマの松ほかを指揮した。
 ◉1980年4月にはロンドン交響楽団の来日公演にも同行、ブラームス/交響曲第1番 、ムソルグスキー・ラヴェル/ 展覧会の絵ほかを指揮した。
 ◉1986年以降 ミュンヘン・フィルと6回来日、ブルックナーの交響曲を頻回に取り上げ評判を呼んだ。
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 私はミュンヘン・フィルとの来日の際、2回エントリーを試みたがチケットを入手できなかった。返す返す残念であった。

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美術館探報2022(2) 冨田伊織:透明標本展

2022年08月23日 16時11分07秒 | 音楽談義
 (1)透明標本作家 冨田伊織氏の標本展が秋田県立博物館で開催されている。


 冨田伊織氏は1983年生まれ。北里大学水産学部水産生物科学科卒業、在学中に研究用の透明骨格標本に魅せられ独自に制作を開始。岩手県で漁師見習いをしながら透明標本制作を続けた。
 2008年5月、新世界『透明標本』として活動開始。その独特の世界観で一躍脚光を集め、透明標本作家として現在に至る。
 透明標本は実際の標本とはかけ離れた存在で、生物でありながら目に写る造形は、まるで微細な筆によって描かれたかのような美しさを持つ。
 「肉質を酵素により分解し、透明にし、硬骨を赤紫、軟骨を青色に染色をする」という骨格研究の手法をベースとし、「いのち」をより身近に感じる造形作品としている。
元々の学術標本として、サイエンスの入り口標本として、芸術やアート作品として、今までにない新しい世界が投影されている。

 「透明標本」とは、魚などの生物の骨だけに色をつけて、筋肉などそれ以外の部分は透明にし、瓶などに入れたもの。「透明標本」は小さな生物の骨格観察をするために作られるもの。

 作成方法は、・・・
1 ホルマリンにつけて固定する。「固定」は防腐処理にあたる。
2 ピンセットなどを用いて生物の皮や内臓を取り除く。筋肉は骨の支持体として残す。
3 染色液などで染色する。硬骨が赤色、軟骨が青色に染まる。
4 他の薬品に浸し生物の筋肉の色素を抜く。
5 グリセリンを浸透させ、標本瓶にセットする

 見た印象
 赤と青系統に染色された小動物の骨格の標本で、美しい造形美を見ることができた。通常知ることのできない繊細な骨と骨、骨と軟骨の連結とかがよくわかって興味深かった。ただ、これほど数多くの標本が一堂に会すと興味を通り越してグロテスクなイメージになってしまう。ある限られた生き物の詳細な姿を多方面から解析して提示する目的の一つとしてならその価値は大きいと思う。

 その感覚は私の職業上の感覚かもしれない。私どもはモノクロの世界であるが日常的にレントゲン写真で類似の構造を観察している。また解剖関係の研究所などには人間の全身の骨格復元標本を見ることができる。また、文献的ではあるが、小動物のレントゲン像を見ることも不可能ではない。

 やはり動物は、魚類は動物園とか水族館で自然の姿を観察しながら、内部の構造に思いを馳せるのがベストである。

 人間の姿、特に女性の姿はどんな年代の方であってもそれなりの美を見出すことができる。若い女性の姿だけが美しいわけではないと思う。高齢者のシワ、体の線の弛みにも、美しさを感じることがある。
 でも、レントゲン写真は虚しい。裸体はどうか?それもTPOによる。いつも良いとは限らない。それが、衣服を着けることによって個性的になり美しさが醸し出される。服飾デザイナーの技能は素晴らしい。上手に着こなす技術も必要である。そういえば森英恵氏がお亡くなりになった。
 透明標本展を見てのもう一つの感想である。衣服の意義は大きい。馬子にも衣装とは(2)そもそも人は何で衣服をまとうのか
 
 (2)秋田県内の代表的美術館の本年の予定
 秋田市立千秋美術館は、令和4年6月から約2年間大規模改修工事にて休館中。
 以下は県立美術館の開催予定、ちょっと寂しい。
 ●藤田嗣治 パリへの郷愁展
 ●藤田嗣治 子どもへのまなざし展
 ●岸田劉生の軌跡

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