ブルックナー(1824年- 1896年)は、オーストリアの作曲家、オルガニスト。
幼少期から音楽的才能を示し、10歳頃には父に代わって教会でオルガンを弾くほどになった。1855年、リンツ大聖堂の専属オルガニストとして成功した。
1868年にはウィーン国立音楽院の教授に就任した。それ以降、大部分のエネルギーを交響曲を書くことに集中した。
作品の特徴として
◉ブルックナー開始:第1楽章が弦楽器のトレモロで始まる手法であり、交響曲第2、4、7、8、9番に見られる。
◉ブルックナー休止 :楽想が変化するときに、管弦楽全体を休止(ゲネラル・パウゼ)させる手法。
・・・・など。
1876年にバイロイト音楽祭でニーベルングの指環の初演を聴く。このときに今までの自らの作品を大幅に改訂することを決意し、第1番から第5番を大幅に改訂し、後に更に第1、2、3、4、8番が再度改訂された。
ブルックナーは生涯を通じてローマ・カトリック教徒であった。
恋愛には純朴であり、若くて綺麗な娘を見かけるたびに夢中になった。晩年に至るまで多くの女性に求婚したが、そのすべてが破局に終わり生涯独身で過ごした。何らかの性的嗜好の偏りがあったのではないか?と思われる。
大酒飲みで、毎晩ビールを10杯は平らげていたという。この酒好きが晩年の病気の遠因にもなったともされるが、本人にとっては良い人生だったのでは?と思われる。
ブルックナーは72歳で死去し、幼少から過ごしたリンツのザンクト・フローリアン修道院の聖堂にあるオルガンの真下の地下墓所に棺が安置されている。私は2000年、医療視察でドイツ、オーストリアを訪れた。修道院に入ることはできなかったが、外観を眺め、ブルックナーを思い敬虔な気持ちになった。
ブルックナーは人物像と作品の偉大さが、あまりに乖離しているところが特異なところ。 40歳を過ぎて突如として書き始めた巨大な交響曲が、後期ロマン派の中でも最も重要な作品群になった。 その一方で、 弟子や演奏家の批判に左右されて、作品を頻繁に改訂したことも知られている。自己肯定感が乏しかった??
ブルックナーの肖像画を見ても、素朴で質素な表情をしている。大作曲家としてありえないような面をいくつも持ちながらも、強固で不変な音楽性を備えていたと思われる。
音楽史の中では、ブラームスと対立する存在として、また、長大な作品を作り続けた点でマーラーと比較されるが、私はブルックナーの音楽性により親しみを感じている。