銅版画制作の日々

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チェ★28歳の革命レビューその1

2009-02-17 | 映画:シネコン

 原題:CHE PARTIE 1

またもや、鑑賞中爆睡となってしまった「チェ★28歳の革命」・・・・・・(-_-;)何とほとんど寝てしまいました(汗)

結局リベンジしてまた鑑賞することになりました。非常に重たい作品でした。だから、もうこの映画に関しては歴史のお勉強だと思い、頑張って観ることを目標にしましたよ。そしてこの作品で、チェ・ゲバラという凄い革命家の存在を知ることになりました。

監督はあのステーヴン・ソダーバーグ。最新作では、「アイム・ノット・ゼア」(07)、「フィクサー」(07)など。ジョージ・クルーニーとのタッグも多い方ですよね。

この作品レビューはかなり長くなりましたので、2回に分けて書くことにしました。その後、引き続き、「チェ★39歳の別れの手紙」も鑑賞したので、その後そのレビューを書きたいと思います。少々長くなりますが、皆さんお付き合い下さいm(__)m

ゲバラといえば、あのTシャツのベレーをかぶった髭もじゃのおじさんだというのも、最近知りました。どういう人物なのか?も知らなかったです。

左端が本当のチェ・ゲバラです。右の髭の方はフィデル・カストロ氏ですね。

実はゲバラは、1959年に日本を訪問しています。先日報道番組で、紹介されてました。そして広島記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花をしています。原爆資料館や病院にも訪れています。当時、中国新聞社の林立雄さんが単独取材をしたということで、その方が登場されて彼の印象を話しておられました。

チェ・ゲバラが広島へ訪問したときの記事がありましたのご覧下さい。またゲバラの娘さんも広島に訪れたそうです。詳細はこちら

「何故、日本人は、アメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか?」と言ったそうだ。彼はキューバに“ヒロシマ”のことを伝えた。以来現在も、初等教育で“ヒロシマ・ナガサキ”を取り上げている。

さて、チェ・ゲバラと呼ばれたこの人物像について少し紹介。

“チェ・ゲバラ”ことエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナErnesto Rafael "Che" Guevara de la Serna1928年6月14日 - 1967年10月9日)は、アルゼンチン生まれの医師革命家で、キューバゲリラ指導者。

「チェ」は本来、アルゼンチンのスペイン語リオプラテンセ・スペイン語をはじめとする諸方言)で「やぁ」という砕けた挨拶。ゲバラが初対面の相手にしばしば「やぁ。エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していた事から、キューバ人達が「チェ」の発音を面白がり付けたあだ名である。ラテンアメリカでは通常「チェ」もしくは「エル・チェ」(El Cheel は英語の the に相当する定冠詞。英語に訳すなら“the Hi”となる)と呼び、「チェ・ゲバラ」と呼ぶことは少ない。

今回チェ・ゲバラを演じるのはベニチオ・デル・トロ だ。彼の作品で観たのは、ブレッジ21グラムシン・シティに悲しみが乾くまで等。私、結構観ていたんだ!彼の出演作品。

物語

1964年のハバナで行われたジャーナリスト、リサ・ハワード(ジュリア・オーモンド )のゲバラへのインタビューはゲバラの将来を予感させるような質問から始まった。

 リサ・ハワード

ジュリア・オーモンドは“ベンジャミン・バトン●数奇な人生”にも出演。デイジーの娘でした。

「アメリカの中南米へのへの支援はキューバ革命の意識を失わせるのではないか?」アメリカは中南米の独裁政権を支援し、その収奪構造こそが中南米の民衆を貧困に陥れている元凶であると、ゲバラは痛いほど知っていた。キューバのバティスタ政権も、アメリカの利益に多大な貢献をなし、その存続の代償として民衆は貧困と無知に喘いでいた。

1955年7月、メキシコシティーでバティスタ打倒を呼号するフィデル・カストロと出会うゲバラは、“7月26日運動”に参加。56年11月、82名の革命戦士中ただ1人の外国人として、グランマ号に乗り組み、革命戦争を戦うためキューバを目指す。

64年12月、ゲバラはニューヨーク、ケネディ空港に降り立った。革命キューバの主席代表として国連総会で演説するためだった。だが彼を迎えたのは多くの抗議のプラカードと怒号だった。その主体は革命を恐れてキューバを逃げ出した亡命キューバ人たち。その後ろでアメリカ政府が糸を引いていた。

7日間の航海後、革命軍はキューバ東南の地ビノクに上陸。いきなり政府軍に発見され、アレグリア・デ・ピオで襲撃される。ゲバラも負傷し、革命軍はわずか十数名しか生き残れず・・・・。そんな状況でもカストロは、キューバ人たちの中に必ず同じ志を持つ者がいると信じ、勝利を疑わなかった!

ラ・プラタ川河口の小兵舎の攻撃で最初の勝利を収めた革命軍は、3月ホルへ・ソトゥス大尉率いる約50名の増授部隊と合流。ゲバラはカストロから、その部隊の指揮をするように言われていたが、外国人という遠慮から、ソトゥスに指揮を任せる。そんなゲバラにキューバの革命戦士としての自覚を持つように指摘されることに。

5月28日、さらにエル・ウベロ兵営を攻略、重要な勝利を収めることに。一方革命軍も甚大な被害を受ける。ゲバラは負傷者の運搬に従事。その過程でゲバラは、戦士が必要とする資質に対する認識を強固にし、厳しく部隊を統率することになる。

アメリカはキューバを諦めていなかった。61年にはCIAの画策で軍事訓練を施した亡命キューバ人を尖兵として、空軍・海軍も動員し、キューバ侵攻を目論んだピラヤ・ヒロン湾上陸作戦を決行。ゲバラ率いるキューバ軍は散々な目に遭わされている。62年のキューバ危機以降は、表向きキューバへの侵攻断念したことになっていたが・・・・?その後もキューバ上空を飛び回って監視の目を緩めてはいなかった。

後にロバート・ケネディと大統領候補指名争いした反戦派のユージン・マッカーシ上院議員に返した皮肉には、キューバに託した未来が込められていたという。砂糖以外の産業の育成、キューバの工業化を視野にいれていた。危機以降、ソ連の影響力が重くのしかかってきたが、彼にとって重要なことは政治体制ではなく、正義の問題だった。中南米の圧政下におかれた民衆側につくこと。それがゲバラの正義だった。

 

※チェ★28歳の革命、レビューが全てかき終えられない状態となりました。引き続き、続編を書きたいと思います。と言うことで続きをお楽しみにm(__)m

追記:もう少し簡潔に記事をまとめたいところですが・・・・。またもやこのような長ったらしい文章になってしまいました。あぁ~肩こりが治りませんわ。ぶつぶつ(>_<)

 

 

 

 

 

 

Comments (2)
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