goo blog サービス終了のお知らせ 

わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

焼き物の着物(色彩)51 中世の美濃窯 5(瀬戸黒)

2014-04-07 22:23:55 | 陶磁器と色彩
1) 瀬戸黒とは。

 室町時代以降美濃では、瀬戸と同様に天目茶碗が多く焼かれていました。

 瀬戸黒は主に抹茶々碗の釉として使われる事が多いです。

 瀬戸黒とは、瀬戸で焼かれた黒茶碗の事ですが、実際には美濃の窯で焼かれた物です。

 ① 引出黒(ひきだしくろ)。

  ) 窯の中の釉の熔け具合を確認する方法に、色見用の茶碗や陶片を鋏(はさみ)などで

   挟み出すやり方があります。熱い窯から急に冷たい外気に晒されると、釉の中の鉄分が光沢の

   ある黒色に変化します。この事を利用したのが、瀬戸黒の始まりです。

   尚、窯の中で冷やす「置き冷まし」の方法でも、黒く発色しますが、引出す方がより鮮やかな

   黒に成ります。それ故「引出黒」と呼ばれる事もあります。この方法は黒楽焼の技法にも

   使われています。

  ) 色見で不要になった陶片や焼き損じた作品などは、窯の側(そば)にある「もの原」

   と呼ばれる捨て場に捨てられます。桃山期に美濃で焼かれた無傷の完品は極く少なく、多くは

   「もの原」で拾った物が多い様で、ここから「掘り出し物」の言葉が生まれたそうですが、

   現在ではその「もの原」も掘り尽されてしまっています。 

 ② 本格的に引出黒で、茶碗を焼き出すのは、室町時代後期から永禄年間頃と言われています。

   天正(1573~1592年)の頃に盛んに焼かれた為、「引出黒」と同様に「天正黒」とも呼ば

   れる事もあります。

  )瀬戸黒の釉について。

    鉄釉である天目釉より、鉄分を大目に調合しますが、大切な成分は「マグネシア」です。

    「マグネシア」が少ないと、茶色に発色します。

   ・ 注:「マグネシア」は、タルク(滑石)から取ります。滑石を使う場合には焼滑石を

     使います。   

  ) 瀬戸黒の特徴。

   a) 初期の頃は、「すっぽん口」の特徴のある天目茶碗が作られます。

   b) 一般に瀬戸黒茶碗は、筒型の茶碗が多いです。高台は低く竹(又は木)箆(へら)を

     使って、手で小さ目に仕上げています。

   c) 「引出黒」の場合、鋏(はさみ)で挟んだ痕が付いています。これも見所(景色)の

     一つになっています。

   d) 土はややざんぐりした鉄分を含み、焼き上がりもくすんだ焦げ茶色をしています。

  ) 瀬戸黒の名品。

   瀬戸黒茶碗は、美濃の小名田で焼かれ始まり、浅間(せんげん)、大萱の窯へと移ってい

   きます。最も優れた作品は大萱で焼かれた物です。

  a) 瀬戸黒茶碗 銘 小原木: 大萱、桃山時代、瀬戸黒を代表する、筒型の茶碗です。

   高さ 8.8cm、口径 10.2cm、高台径 5.0cm

   千利休の所持していた物と、伝えられています。

  b) 瀬戸黒半筒茶碗 銘 小原女: 牟田洞窯又は窯下窯、桃山時代、

   作為の少ない、大振りな作品です。

   高さ 8.7cm、口径 13.3cm、高台径 5.8cm

  c) 瀬戸黒筒茶碗 銘 冬の夜: 17世紀始め。

   高さ 10.0cm、口径 10.0cm、高台径 5.0cm

   裾(すそ)がやや張った筒茶碗です。素直に轆轤挽きされ、箆目はほとんどありません。

 瀬戸黒と同じ様に引出黒の茶碗に、織部黒があります。但し、器の形に大きな違いがあります。

 制作年代は瀬戸黒よりも後世の、慶長、元和の時代で、久尻の元屋敷で作られています。

 以下次回(織部)に続きます。  
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

焼き物の着物(色彩)50 中世の美濃窯 5(黄瀬戸2)

2014-04-06 20:39:45 | 陶磁器と色彩
3) 黄瀬戸の釉に付いて。

 黄瀬戸の良い物は、テカテカ光沢のあるものではなく、油揚手と呼ばれる焼き物と言われています

 桃山期の良品は、志野と同様に大萱の窯下窯で焼かれた物に多いとされています。

 ① 黄瀬戸の釉は、鉄分を多く含む木灰を使った灰釉(かいゆ)です。

  )木の種類は、栗、椿、樫(かし)、楢(なら)、欅(けやき)、松、柞(いす)などが多く

   使われています。又雑木を焼いた灰を、土灰(どばい)と言い、良く使われる灰です。

  )木灰に含まれる主の成分。

    石灰(炭酸カルシウム)、珪酸、アルミナ、鉄分、マグネシア、燐(りん)などです。

    樹木の産地、種類、根、幹、葉などの部位により、その成分に違いがあります。

  ) 樹木を焼いた灰は水と伴に細かく粉砕し、何度も水に晒して灰汁(あく)を取り除きます

    更に、乾燥した灰と石粉(長石の半分解物)を調合して釉にします。

    尚、天然の樹木は都市化の影響で、採取しずらくなります。それ故現在では、桃山時代と

    同じ様な黄瀬戸の作品(釉薬)を作る事は、困難になったと言われています。

   ・ 天然灰を理想としますが、高価である事と品質にバラツキが有りますので、現在では、

    各種の合成の灰を使う事も多くなりました。  

  ) 施釉した作品は、酸化焼成で鉄分が黄色や茶色に発色しますし、還元炎では黄緑色に成り

    ます。 当然樹木の種類によって発色に差が出ます。

    尚、黄瀬戸の第一人者と言われた加藤唐九郎氏は、良い油揚げ手の釉として、備長炭の灰を

    使っています。

   ・ 注:備長炭とは、「うばめ樫」又は、樫(かし)全般の木で作る木炭です。

     1千度程度で焼く「白炭」で、非常に堅く、燃焼時間が長いのが特徴です。

② 黄瀬戸釉の調合例。

  ) 土灰 50、長石 25、赤土 25

  ) 土灰 50、長石 40、藁灰 10、 酸化鉄 1(外割り)

    酸化鉄を入れるのは、後世に行われる様になり、桃山期には入れていません。

  ) 土灰 40、赤土 40 SK8透明釉 20

  施釉は「ズブ掛」(浸し掛)の方法を採っています。

4) 桃山期の優れた黄瀬戸の焼き物。

  ) 重要文化財 黄瀬戸立鼓花入 銘 旅枕 : 桃山時代 和泉市久保惣記念美術館蔵。

    高さ 21.4cm、 口径 10.5cm、 底径 11.9cm

    千利休の所持の花入で、利休自記筆の「セト 里うこ 花入」の文字が箱書きされています。

  ) 黄瀬戸茶碗 銘 難破: 桃山時代 大萱の窯下窯

    高さ 7.2cm、 口径 11.7cm、 底径 8.0cm 

    背が低く高台が大きい事から、本来向付けとして作られた物と思われています。

    油揚手の黄瀬戸茶碗の中で、第一の名碗と言われています。

    かって益田鈍翁の愛憎品です。

  ) 重要文化財 黄瀬戸大根文輪花鉢 : 桃山時代、 萬野美術館蔵

    高さ 7.4cm、 口径 24.8cm、 底径 13.8cm

    形はいわゆる鉦鉢(どらばち)です。見込みいっぱいに大根一株が箆(へら)で線彫り

    されています。大根の葉と周囲の輪花部には、胆礬(たんばん)が薄く点じられています。

    この鉢も、かって益田鈍翁の愛憎品です。

  ) 前述した様に、黄瀬戸の胆礬を打った良品は、主に鉢や向付けなどの食器類として、

    作られ、茶会後に行われる食事会、即ち懐石料理を盛る器でした。

    又、茶碗の制作例は少なく、向付けを茶碗に転用する場合が多かった様です。

    黄瀬戸の食器類が懐石料理での主役であったのは、短い期間で次に現れる織部に取って

    変わられる運命にありました。   

以下次回(瀬戸黒)に続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

焼き物の着物(色彩)49 中世の美濃窯 4(黄瀬戸1)

2014-04-05 22:13:35 | 陶磁器と色彩
黄瀬戸は室町時代から安土桃山時代に、優れた黄色(黄金色をイメージ)の焼き物として出現します

永禄から天正に掛け、戦国の世の中が治まりつつあった当時、焼き物が「侘び茶」の世界に

「茶陶」として取り込まれ、需要が増大するに従い、伝統の上に新感覚の作品が次々に作られる様に

なります。特に桃山期の天正から文禄(1573~1595年)の短い期間に秀作が作られます。

この期間の黄瀬戸には、油揚手(あぶらげて)と菖蒲手(あやめて)と言う黄瀬戸の代表的な焼き物

が作られます。

黄瀬戸と古瀬戸の釉は非常に似ています。それ故、古瀬戸の釉が発展したのが、黄瀬戸ではないかと

思われています。但し、古瀬戸の釉が「くすんだ色合」に焼き上がっているのに対し、釉を改良する

事で、黄瀬戸はより黄色味が強く成っています。

更に、朝鮮系の焼き物に「伊羅保(いらぼ)」釉があります。これも、古瀬戸や黄瀬戸と同様に

草木灰に黄土や鉄分を調合して施釉したものです。

1) 黄瀬戸の発生。

  黄瀬戸は、鎌倉時代以降の古瀬戸の灰釉(かいゆ)の流れを汲む釉です。

  ① 先駆的作品として、室町後期に作られと思われる作品に、茶人の北向道陳(きたむき

   どうちん、1504~1562年)の好みの伝承のある茶碗が有名です。

   丸碗と半筒茶碗を合わせた様な形で、素地に鬼板を施し灰釉を掛けた黄瀬戸です。

   ・ 黄瀬戸茶碗: 高さ 8.5cm、口径 12.5cm、高台径 4.5cm

     かって大阪の鴻池家に伝来した物で、箱書きに「北向道陳 好」の書があり、千利休に

     伝来したとされています。

  ② 黄瀬戸の主な作品は、純然たる茶碗などの茶道具ではなく、向付や鉢など懐石料理の高級

    食器として作られた物が多いです。

    室町以降中国の元や明などからもたらされた、青磁や白磁を模倣した皿や鉢を作っていた

    美濃では、「侘び茶」の普及と伴に、桃山風の高級食器を作る様になります。

2) 黄瀬戸の分類: 一般に四種類に分けられます。

 ① 「ぐい呑手」: 細かい貫入の入った、淡い黄色の光沢のある釉です。

   利休好みと言われ、素直な形状の物が多いです。天正年間に多く焼かれます。

 ② 「菊皿手」: 菊形の小皿に多く、雑器として作られた物です。

   口縁部に銅緑色の釉が掛けられている物が多い様です。

 ③ 「油揚手」: 光沢が無く柚子肌で、しっとりとした油揚げを思わせる色の釉肌が特徴です。

   代表的な作品に、黄瀬戸茶碗 銘 朝比奈があります。

  ) 高さ 8.9cm、口径 13.1cm、 高台径 6.0cm 桃山時代(大萱窯)北陸大学蔵

  ) 轆轤挽き後に箆取した力強い作行で、胴には真横に一本胴筋が廻らされ、腰の一部に

    面取り風の箆目があります。

  ) 千宗旦(千家三代目、利休の孫)が高台脇に「アサイナ」の銘を朱漆で直書きしています

    箱蓋表に「アサイナ 茶碗 宗旦」の書付があり、宗旦の所持として、千家に伝来し、
 
    後に三井八郎衛門家に伝わり、近年まで同家に有った茶碗です。

 ④ 「菖蒲手(しょうぶて)」: 鉢や向付(むこうつけ)などの食器類に多いです。

   名前の由来ともなる、代表的なのが「黄瀬戸菖蒲文輪花鉢」です。

  ) 高さ 6.0cm、口径 25.3cm、底径 14.8cm 桃山時代

  ) 俗に鉦鉢(どらばち)と呼ばれる形状です。

  ) 深い見込み部に、一株の菖蒲がいっぱいに線彫りされ、葉には胆礬(たんばん)が濃く

     塗られています。縁は花唐草の線彫りと鉄と胆礬で彩られています。

    ・ 注:胆礬とは、硫酸塩鉱物の一種です。化学組成は硫酸銅の水和物であり、水によく

       溶け素地に吸収され、表から裏側に抜ける事もあります。(抜け胆礬と言う)

       焼成すると、成分の銅が緑色に発色します。

3) 黄瀬戸の釉に付いて。

以下次回に続きます。

   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

焼き物の着物(色彩)48 中世の美濃窯 3(古志野2)

2014-04-03 23:01:58 | 陶磁器と色彩
4) 桃山時代とは、織田信長が、足利15代将軍義明を奉じて、京都に入ってから、関が原で家康が

 勝利を収める、およそ30年間(1568~1600年)を言います。

 但し、陶磁器の歴史からは1622年までの約50年間を言います。1622年銘の織部燭台の陶片が

 発掘されている為で、この間に作られた焼き物を、桃山時代の美濃の茶陶といいます。

 志野」(しの)と呼ぶ場合、「志野焼」又は、「志野釉」を指しす。どちらの意味かは、文の

 前後から判断する事になります。

 ① 志野の土と焼成温度。

  ) 志野に使われている土は、多治見市、土岐、可児(かに)と呼ばれる東濃地方で採取

    される百草土(もぐさつち)と呼ばれる土です。多少の砂目を含む粘りの少ない白い土です

    大萱(おおがや)地区と、五斗蒔(ごとまき)、多治見地区では、その成分に差がある

    そうです。 尚、百草土は、掘り尽され美濃の地でも入手困難との事です。

  ) 志野の釉は、長石を主体とし、単味で使うとも言われています。

    尚、長石には、正長石(カリ長石)、曹長石(ソーダ長石)、灰長石の三種類があり、

     成分も若干異なります。地方によっては石粉(いしこ)、サバ土、千倉石などと呼ばれる

     長石の半分解物が使われるています。志野釉に適した調合例はほとんどの場合、秘密に

     なっています。

  ) 長石自体の融点は高く1500℃以上ですが、異なる長石が混じり合う事で、1250℃前後で

     軟化すると言われています。場合によっては、窯の温度は1300℃以上に成る必要があった

     様です。

 ② 志野の種類。

  ) 無地志野: 模様の無い白一色の焼き物で、美濃の窯で一般的に焼かれていました。

  ) 絵志野: 酸化鉄を含む岩石、又は粘土を鬼板(おにいた)といいます。

      この鬼板を細かく粉砕し、水に溶いて絵の具として下絵付けとして使います。

  ) 鼠(ねずみ)志野: 素地に薄く泥漿(でいしょう)化した鬼板を流し掛け、更に模様を

     彫る事で、象嵌風に模様が浮かび上がります。尚、泥漿を掛けた部分は鼠色となり、

     彫った部分は白く現れます。

  ) 赤志野: 鼠志野が赤く発色したものです。鉄分がやや少なめか、長石釉が薄く掛かった

     場合に発色します。鉄は1250℃以上になると、色が飛んで仕舞うそうです。しかし長石を

     熔かすには、1250℃以上が必要ですので、何らかの工夫がなされているはずです。

  ) 紅志野: 志野が白ではなく、赤い色に発色したものです。当時の物は、窯変による物と

     思われますが、現在の物は呈色剤を使った物が多いです。

  ) 紫志野: 紅志野の中で、紫色に発色した物です。窯の還元焼成が強い為、赤にならずに

     紫色になったと思われます。

  ) 練込志野: 鉄分を含む赤土と、白色粘土を練込んだ素地から作品に仕上げます。

     赤土の部分は、鼠志野風に成ります。

 ③ 志野の焼成。

  ) 窖窯(あながま)又は大窯での焼成は、三日三晩夜を徹して焚き続けます。

    1250℃以上の高い温度が必要で、窯の雰囲気も酸化、還元の調整が必要になります。

  ) 窯焚き後、数日間の冷却後に窯出しになります。

    冷却に十分時間を掛けないと、赤い色(火色)が出ないそうですし、作品表面に亀裂や

    貫入(かんにゅう)が入ります。

  ) 窖窯での焼成には、多くの苦労があり、失敗作も多い様です。

    燃焼効率の悪さ、燃焼中の天候の変化、火力不足、燃料の調達や、釉の調合の失敗など

    多くの困難が有った事は、古窯跡に残る欠片(かけら)や陶片から推察されます。

以下次回に続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

焼き物の着物(色彩)47 中世の美濃窯 2(古志野1)

2014-04-02 22:59:02 | 陶磁器と色彩
3) 古志野に付いて。

  志野は黄瀬戸や瀬戸黒などと同様に、桃山時代以降美濃で焼かれた白い焼き物です。

 ① 白天目茶碗。

  ) 志野の名前が最初に現れるのは、1553年(天正22年)「天王寺屋会記」別名「津田宗及

   茶屋日記」によります。この茶会は武野紹鷗(たけのじょうおう、号は大黒屋)が京都の

   茶室に宗及らを招いて開かれたものです。

   その中に、茶碗は志野茶碗が使われた事が記してあります。

  ) 当時の白天目茶碗は三個のみで有った様です。

   「天王寺屋会記」によれば、天正22~24年の間に二百回以上の志野茶碗が登場しますが、

   三個の志野茶碗が使い回されます。灰釉による物で、後の志野の先駆けとなる器です。

   尚、持ち主は、武野紹鷗(1502~1555年)、今井宗久、津田宗及が各一個づつ保持してい

   ました。

   ・ 武野紹鷗所持の天目茶碗は、重要文化財として徳川黎明会に収められています。

     重文 美濃 天目茶碗 大名物(おおめいぶつ): 16世紀始め頃

      高さ 6.5cm、口径 12.1cm、高台径 4.4cm

  ) この白色は、高温焼成の為、灰と長石が分離し釉面に、白色化が起きたものと思われます

    又、意図的に「明」の白磁を模倣した物では無いかと言われています。

 ② 古志野は、天正の頃に美濃で初めて焼かれた物です。以前には、瀬戸で焼かれた物と思われて

   いました。

  ) 後に人間国宝になる荒川豊蔵氏によって、昭和5年4月に古志野を焼いた古窯跡が

    初じめて発見されます。

  ) その前日荒川氏は、北大路魯山人と伴に、名古屋の素封家、関戸家所蔵の筍の絵のある

    志野茶碗を見る機会に廻り会います。良く観察すると高台内に粟粒ほどの赤い土を見出し

    ます。この土が瀬戸の物とは違い、美濃の久々利付近の土ではないかと直感します。

    翌日魯山人と別れ、多治見に向かいます。

  ) 翌々日、従兄と伴に現在の岐阜県可児郡久々利村大萱牟田洞で関戸家で見た筍茶碗と

    瓜二つの茶碗の欠片(かけら)を発見します。伝来の古志野がこの地で焼かれた事を確信

    します。更に堀進むと鼠志野の大鉢の欠片を発見します。

  ) 昭和6~8年に掛けて、高根窯、浅間窯、隠居山窯、元屋敷、大富、定林寺、恵那郡の

    水上窯、猿爪窯、大川窯、郷ノ木窯などを発見調査します。これらの窯では、安土桃山

    時代に志野の他、黄瀬戸、瀬戸黒などが焼かれていた事が初めて解かります。

  ) 桃山時代に志野が焼かれた古窯は以下の場所にあります。

   a) 牟田洞窯: 岐阜県可児町大萱。 天正5年(1577年)加藤源十郎景成が開窯。

     志野の名品がこの窯で焼かれたと言われています。

     国宝 志野茶碗 銘卯花墻(うのはながき): 三井記念美術館蔵

     筍絵志野筒茶碗 銘住吉:

     などの破片がこの窯から発見されている事から判明します。

   b) 窯下窯: 大萱。 鼠志野と黄瀬戸の名品が焼かれています。

   c) 中窯: 大萱。 優れた志野を焼いていますが、特に紅志野が多い。

   d) 由衛門窯: 可児町大平。 絵志野の良品が出土します。

   e) 高根東窯: 土岐市泉町久尻。 特に練り込み志野が良い。

      高根西窯: 土岐市泉町久尻。 赤志野を焼いた窯として有名です。

   f) 元屋敷窯: 土岐市泉町久尻。 美濃で最初の連房式登窯を築いた処で、志野も焼かれ

     たが、織部焼きの源となった窯として重要です。

以下次回に続きます。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

焼き物の着物(色彩)46 中世の美濃窯 1

2014-04-01 21:21:17 | 陶磁器と色彩
中世の瀬戸と並び、施釉陶器の生産地である美濃(東濃)では、桃山時代に入ると、志野、瀬戸黒、

黄瀬戸、織部など優れた茶道具を造りだします。それまで、中国や朝鮮の模倣であった焼き物が

初めて、日本の焼き物として独立します。

1) 美濃窯の歴史。

 ① 古墳時代以降に須恵器の生産地として栄えた現在の多治見、土岐、瑞浪、笠原、可児などを

  含む東濃西部の地域では、平安中期の空白期を経て、平安後期に瀬戸の影響を受け、白瓷

  (しらし)の産地として復活します。白瓷(灰釉陶器)窯は12世紀始め頃には250基以上

  あったとされています。碗、皿、片口(擂鉢)が主な製品です。

 ② 鎌倉時代に入ると、常滑と同様に大型の甕や壷が作られる様になります。

   これは前回述べた様に中世の農業生産に必要な物で、需要が増していた為です。

   焼き物は、信州の伊那谷や木曽谷に通じる東山道や、木曽街道を通じて、東は東北地方、

   西は中国地方までの諸国に運ばれます。

 ③ 12世紀に瀬戸と同様な灰釉や鉄釉を掛けた作品が造り出されています。

   古墳時代以降、須恵器生産の中心地である美濃須恵窯(現在の岐阜県各務原市)では、他の

   窯場と異なり、白瓷窯に移行せず生産が縮小しますが、一部地域で古瀬戸と同様な、灰釉を

   施した四耳壷や水注や、鉄釉を掛けた瀬戸系施釉陶器が焼かれ、瀬戸の影響下にあったとも

   思われています。

 ④ 当時の一般庶民は、農工未分離の状態でしたので、生産する工人は半専業で焼き物を作って

   いたと思われます。

2) 桃山陶器の成立。

 ① 窖窯(あながま)から大窯(おおがま)への変化。

  15世紀末~16世紀始め頃、美濃各地の窯は、瀬戸に続き窖窯より大窯に移行します。

  この転換は中世の窯業から近世の窯業への転換期になります。

  大窯に転じた美濃は、その後瀬戸を大きく引き離し、急速に発展を遂げる事になります。

  1974年 岐阜県笠原町妙土(みょうど)窯の発掘により、大窯の構造が知られる様になります。

  ・ 全長7.8m、焼成室最大幅3.4m、床面傾斜23~26度の半地上窯である事。   

    出土物は天目茶碗、皿類、甕、瓶類など多岐に渡ります。

    瓶類の焼成は、匣鉢詰(さやつめ)によって行われていました。

   注: 大窯とは、窖窯が地下式又はトンネル式なのに対し、半地上式の窯で天井が高く、

     それに伴い分炎柱の左右に小分炎柱を並べ、更に奥に昇炎壁を設けて、燃焼室の炎が

     上へ吹き上がる構造となっています。一般に、窖窯より多くの作品を焼く事が可能です

     半地上式にしたのは、窖窯では地中の湿度が高く、温度上昇がし難いのを防ぐ為です。

     尚、大窯とは大きい窯の意味では無く、本窯又は元窯という意味と唱える人もいます。

     但し、次第に大型化し、一度に数万個の作品を焼く大きな大窯も出現する様になります。

 ② 大窯址は、現在まで瀬戸窯で約30基余り、美濃窯で約70基余りが確認されています。

   最古の大窯は岐阜県多治見市小名田町の窯下(かました)1号窯と言われています。

   上記妙土窯と共通点が多く、窖窯と大窯を繫ぐ窯と見なされています。

  ) 初期の大窯では、仏具類も作られますが、主に碗、皿類などが焼かれています。

    菊、かたばみ(草の名前)などの印花文を見込みに捺印した丸皿などが、初期の瀬戸や美濃

    で広範囲に作られています。又明(みん)様式の模倣と見られる徳利や天目茶碗も作られ
    
    ます。

  ) その後、菊皿や鉦鉢(どらばち)などの新しい食器類が出現します。

    基本的には、灰釉と鉄釉で施釉されますが、釉の開発が進み桃山陶器に発展して行きます。

3) 古志野に付いて。

以下次回に続きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする