4) 備前の土と窯
④ 備前大窯に付いて。
) 室町時代末期の頃から、個人用の小さな窯から、共同の大窯を用いる様になります。
備前の窯元達は、組合を組織し従来の鉄砲窯を更に長大化した、大窯を共同使用する様に
します。共同窯の発生と共に、窯元六姓と呼ばれる人々が窯を管理し、それ以外の者は
窯元には成れませんでした。大正時代まで続いた制度との事です。
注: 窯元六姓とは、木村、森、寺見、金重、頓宮(とんぐう)、大饗(おおあい)の
六家で、この地方の名門でもあります。尚、現在でも存在している窯元は、木村、
金重、森の三軒のみです。
) 三大窯址: 桃山時代から江戸時代を通じて、伊部周辺には南大窯、北大窯、西大窯の
大窯が各一基存在し、多くの備前焼はこの窯群によって焼成されたと言われています。
但し、何度も作り変えてた為、窯跡は各々数箇所存在します。
a) 伊部南大窯跡: 1959(昭和34)年、国の史跡に指定されています。
伊部駅の南約200mの榧原山(かやはらやま)北麓にありまります。
昭和26年以降、数度の発掘調査を経て窯の全容が明らかになります。
・ 室町末期~桃山時代の窯(中央窯): 長さ 31.6m、幅 2.3m
・ 江戸初期~中期の窯(西窯): 長さ 49.1m、 幅 2.8m
・ 江戸中期~末期の窯(東窯): 長さ 54.5m、 幅 5.1m
b) 伊部西大窯跡: 2009(平成21)年 伊部北大窯跡と共に、備前市の史跡指定より、
国の指定に追加指定され、備前陶器窯跡と名称が変更に成りました。
伊部駅の北西約600メートルの医王山東麓にあります。
三基の窯跡が確認され、最大の窯は 全長 約40m、幅 約4mです。
c) 伊部北大窯跡: 伊部駅の北約300mの不老山南麓、忌部神社の周囲に位置します。
現在、四基の窯跡が確認されています。内1基は桃山時代に築かれたと思われ、
長さ 約45m、幅 4.7m程の窯です。
他の三基は忌部神社の北西斜面に平行して築かれています。
最も北西の窯は 長さ 約47m、幅 5.4mと確認されています。
) 大窯での焼成。
a) 作品: これらの大窯では、主に、壷や甕、徳利、擂鉢などの日用雑貨類が焼かれ、
その他に大甕や茶道具などが焼かれています。
b) 焼く量: 窯が大きい為、一度の焼成で、数千個~数万個が焼成されていました。
その為、窯を焚く回数は、年に一度程度ではないかと言われています。
c) 焼成日数: 40~50日かけてゆっくり焼いた物と考えられています。
尚、窯出しまでには、同じ程度の日数を掛けて、窯を冷却する必要があります。
) 大窯の終焉。
江戸後期の天保年間(1830年~1843年)に天保窯と呼ばれる小型で効率の良い融通窯が
出来ると、大窯は衰退し幕末に終焉を迎える事に成ります。
注: 天保窯とは伊部の登り窯の事で、5~7の焼成室を持ち、十日程度で焼成可能な
窯です。
a) 江戸中期以降になると、各地方の窯場で陶器が焼かれる様になり、備前焼の販売は次第に
減少します。大窯は経費が掛かる上、藩の保護も減少した為、効率が良く小回りの利く
小型の窯が求められます。藩に小型窯の築窯を数度要請し、天保年間(1830年~1843年)に
小型で効率の良い融通窯が、不老山の山麓の北大窯跡の下方の三ヵ所に築かれます。
この窯は数度の修理を施しながら、1940(昭和15)年まで使われていました。
b) 京都の登り窯を模した窯です。
京都では江戸初期に粟田で最初の登窯が築かれ、焼成される様になります。
登り窯の特徴は、熱効率が良い事です。窯は緩やかな階段状に作られ、下から順番に焼成
していきます。各小室(房)で使われた廃熱は次の小室の余熱として利用できます。
それ故、経済的で短期間の焼成が可能になります。更に、各小室は独立しており、各々の
小室で酸化又は還元焼成が可能になります。
5) 備前焼の作品
以下次回に続きます。
④ 備前大窯に付いて。
) 室町時代末期の頃から、個人用の小さな窯から、共同の大窯を用いる様になります。
備前の窯元達は、組合を組織し従来の鉄砲窯を更に長大化した、大窯を共同使用する様に
します。共同窯の発生と共に、窯元六姓と呼ばれる人々が窯を管理し、それ以外の者は
窯元には成れませんでした。大正時代まで続いた制度との事です。
注: 窯元六姓とは、木村、森、寺見、金重、頓宮(とんぐう)、大饗(おおあい)の
六家で、この地方の名門でもあります。尚、現在でも存在している窯元は、木村、
金重、森の三軒のみです。
) 三大窯址: 桃山時代から江戸時代を通じて、伊部周辺には南大窯、北大窯、西大窯の
大窯が各一基存在し、多くの備前焼はこの窯群によって焼成されたと言われています。
但し、何度も作り変えてた為、窯跡は各々数箇所存在します。
a) 伊部南大窯跡: 1959(昭和34)年、国の史跡に指定されています。
伊部駅の南約200mの榧原山(かやはらやま)北麓にありまります。
昭和26年以降、数度の発掘調査を経て窯の全容が明らかになります。
・ 室町末期~桃山時代の窯(中央窯): 長さ 31.6m、幅 2.3m
・ 江戸初期~中期の窯(西窯): 長さ 49.1m、 幅 2.8m
・ 江戸中期~末期の窯(東窯): 長さ 54.5m、 幅 5.1m
b) 伊部西大窯跡: 2009(平成21)年 伊部北大窯跡と共に、備前市の史跡指定より、
国の指定に追加指定され、備前陶器窯跡と名称が変更に成りました。
伊部駅の北西約600メートルの医王山東麓にあります。
三基の窯跡が確認され、最大の窯は 全長 約40m、幅 約4mです。
c) 伊部北大窯跡: 伊部駅の北約300mの不老山南麓、忌部神社の周囲に位置します。
現在、四基の窯跡が確認されています。内1基は桃山時代に築かれたと思われ、
長さ 約45m、幅 4.7m程の窯です。
他の三基は忌部神社の北西斜面に平行して築かれています。
最も北西の窯は 長さ 約47m、幅 5.4mと確認されています。
) 大窯での焼成。
a) 作品: これらの大窯では、主に、壷や甕、徳利、擂鉢などの日用雑貨類が焼かれ、
その他に大甕や茶道具などが焼かれています。
b) 焼く量: 窯が大きい為、一度の焼成で、数千個~数万個が焼成されていました。
その為、窯を焚く回数は、年に一度程度ではないかと言われています。
c) 焼成日数: 40~50日かけてゆっくり焼いた物と考えられています。
尚、窯出しまでには、同じ程度の日数を掛けて、窯を冷却する必要があります。
) 大窯の終焉。
江戸後期の天保年間(1830年~1843年)に天保窯と呼ばれる小型で効率の良い融通窯が
出来ると、大窯は衰退し幕末に終焉を迎える事に成ります。
注: 天保窯とは伊部の登り窯の事で、5~7の焼成室を持ち、十日程度で焼成可能な
窯です。
a) 江戸中期以降になると、各地方の窯場で陶器が焼かれる様になり、備前焼の販売は次第に
減少します。大窯は経費が掛かる上、藩の保護も減少した為、効率が良く小回りの利く
小型の窯が求められます。藩に小型窯の築窯を数度要請し、天保年間(1830年~1843年)に
小型で効率の良い融通窯が、不老山の山麓の北大窯跡の下方の三ヵ所に築かれます。
この窯は数度の修理を施しながら、1940(昭和15)年まで使われていました。
b) 京都の登り窯を模した窯です。
京都では江戸初期に粟田で最初の登窯が築かれ、焼成される様になります。
登り窯の特徴は、熱効率が良い事です。窯は緩やかな階段状に作られ、下から順番に焼成
していきます。各小室(房)で使われた廃熱は次の小室の余熱として利用できます。
それ故、経済的で短期間の焼成が可能になります。更に、各小室は独立しており、各々の
小室で酸化又は還元焼成が可能になります。
5) 備前焼の作品
以下次回に続きます。