わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸61(高鶴 元)

2012-03-01 22:07:51 | 現代陶芸と工芸家達
日本を脱出し、米国に窯を築いて現在も活躍しているのが高鶴 元氏です。

1) 高鶴 元 ( こうづる げん ) :1938年(昭和13)~

 ① 経歴

  ) 福岡県田川郡赤池町上野皿山で、高鶴夏山(茂勝)の長男として生まれます。

     1957年 佐賀県立有田工業高校窯業科を卒業します。

  ) 1960年 日展に初入選し、以後2回連続入選します。

     1962年 上野(あがの)釜の口の古窯の発掘調査を、弟淳と共に行います。

     1965年 福岡県粕屋郡久山町に窯を築き、薪の焼成による自然釉の研究を始めます。

  ) 1968年 日本伝統工芸展で、初入選を果たし、以後毎回入選を続けます。

     作品は文化庁買上や、京都国立近代美術館の買上となっています。

     1969年 日本工芸会正会員に成ります。

     その後も、東京南青山、東京新宿小田急、福岡岩田屋など各地で個展を開催しています。

  ) 1980年 米国ハーバート大学の招待もあり、家族と共に渡米し、ボストン郊外に窯を築き

     活動の拠点とし、現在でもここに住み作陶を続けています。

     1976年にニュージランド、オーストラリア、ドイツ民主共和国での「日本陶芸展」の招待や

     1977年の米国、メキシコ、ヨーロッパ、中近東など13ヶ国に渡る調査研究が切っ掛けになり

     世界へ向けての飛躍を期したものと思われます。

 ②  高鶴 元氏の陶芸

  ) 福岡県の上野(あがの)焼きの窯元の高鶴家は、由緒ある家柄で有ったようです。

    当時の上野焼きは銅釉を基本にした作品が作られ、それに疑問を感じた元氏は、親に無断で

    上京し、前衛的なオブジェの作品を作る様に成ります。

  ) やがて前衛的な作品にも疑問を感じ、故郷の上野に帰ります。彼は「古上野」に関心が向く様に

    成り弟の淳氏と共に、「釜の口窯」の発掘を始め、各地の窯跡から陶片を収集し釉の研究と

    資料蒐集を行います。特に地元に生える色々な植物の灰釉を実験しています。

    「古上野釉(こあがのゆ)」と言われる釉は、地元で「ハイドス」(さかきしばの一種)と

    呼ばれる灰に、藁灰を混ぜ上野長石と上野鉄錆(さび)で調合したものです。

    その他の釉として、鉄釉、萱(かや)釉、白釉による刷毛目などがあります。

    これらの成果は、「日本のやきもの15 上野・高取」(講談社)として出版されています。

  ) 1975~1976年の作品には、「古上野釉紙抜鉢」や「古上野釉鎬鉢」があります。

    1978~80年の作品は、「彫文壷」の作品が多いです。丸い壷の表面に幾何学文様を線彫りした

    作品群です。「ハイドス灰鎬(しのぎ)壷」(1978)、「藁灰釉彫文壷」「黒釉窯変彫文壷」

    「背高泡立草釉鎬文」(1979)、「炭化彫文壷」(1980)等です。

  ) 米国・ボストン郊外に活動拠点を移した高鶴元氏は、元(げん)から元(はじめ)と読む様にし

    心機一転を図ったようです。米国のセント・ヘレンズ火山が噴火した際の火山灰で作ったのが

    セント・ヘレンズ火山灰釉です。大皿の作品は黒く沈んだ色調で、真赤や金色、白の文様が

    着けられています。「皿・池に映える紅葉」「鉢・イングランドの紅葉」「大皿宇宙」

    「大皿・紅葉のハイウエー」(1982)等の作品があります。

   ・ 渡米後は、作風が劇的に変わります。自然石のフォルムや空間を浮遊する球体などを

     原色のカラーで表現し、伝統や国境を越えたアートに成っています。

   ・ 「渡米後、伝統工芸にはない新分野として開拓したのが野外展示だった。」と述べています。

   ・ 古希を過ぎても活動意欲は衰えず、2009年には福岡市東区の海の中道海浜公園で、陶柱オブジェ

    を飾った 野外陶芸展が開かれました。この陶柱オブジェは、高さ1.6mで長さ100mの直線に

    並べられた作品であったそうです。 

次回(原 清氏)に続きます。
コメント
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