大佗坊の在目在口

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静岡 松樹院から瑞龍寺へ

2018-06-07 | 

井宮神社から松樹院に向かう途中に松平忠明の墓所に寄った。Google地図で大体の場所は分かっていたが、住宅の軒先というか、庭先みたいな路地を入るのに躊躇する。
 
 
 
急な石段の先に墓所があり、横の説明板に「九州の大名の子としてうまれ、信濃(長野県)の松平家の養子となる。(信濃守)1798年幕府の命で北海道の奥地迄調査した」とあり、駿府城代となり、浅間神社再建の途中死去。浅間神社の木遣の音頭が聞こえるところに葬ってほしいということでこの地に墓をつくったという。これでは松平忠明って誰という感じ。寛政重修諸家譜にあり松平氏系図は九十家近い系図が記載されている。慈悲尾増善寺に墓のある松平勝政の出身にも手こずったが、駿府城代だという松平忠明にも苦労した。松平忠明(鶴次郎)の父、豊後岡藩八代藩主中川久貞は三河吉田藩主松平信祝(大河内松平氏)の次男で、久貞の四男、鶴次郎は旗本松平忠常(藤井松平系)の娘を娶り松平忠明を名乗る。義父忠常は信濃上田藩初代藩主松平忠周の孫にあたり、松平忠明二男忠学(栄二郎)は信濃上田藩五代藩主となり、藩校明倫堂を創立している。講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に、松平忠明、駿府で自害とあるのが気になる。忠明の墓の近くに、その死後、松樹院の境内に庵を結び、三年間墓守りをしたという家臣の廣瀬更山の墓があるとあったが、付近蜂がかなり飛んでいて近づけなかった。
 
松平忠明の墓を管理している井宮山松樹院智全寺は寺伝によれば、永久三年(1115)、井宮神社の別当寺院として創立、永禄三年(1560)、善蓮社大誉光公上人によりを真言宗から浄土宗に改宗して中興したという。松樹院の寺号も以前は「西照寺」だったが、現在は「智全寺」に替えている。駿河志料に境内に竹中半兵衛重治一族の竹中貞右衛門重賢の古墳があると記載があったが気が付かなかった。
松樹院のお隣が泰雲山瑞龍寺で、駿河国新風土記に「曹洞宗駿河七ヶ寺内開基は東照神祖御台所豊臣太閤の御妹旭御前瑞龍院殿光堂総旭大禅定尼なり」とあり、駿府志料に「草創詳ならず、寺記に曟時何宗旨たる事を知らず、永禄八年(1565)、能屋藝公を開山として、弊寺址を弘め、天正十八年(1590)太閤豊君の賢妹総旭大姉に肇すと見えたり、堯山清梵を中興と稱す」とある。
 
旭姫が亡くなったのが天正十八年、「肇す」とあるのは瑞龍寺の寺名の始まりの事だろうか。旭姫の墓は本堂の裏の中腹にある。
 
小さな石柵に囲まれた六層塔でビックリするほど貧弱な塔墓だった。笠も宝篋印塔の笠で色々な石を集めて墓にしたような不思議な墓碑で、しかも駿河志料に「端龍寺殿御寳塔并尊碑」とあるのに現存の墓碑には碑銘がなにも無く、不自然さを感じさせる墓だった。法名も「瑞龍院殿」なのか「瑞龍寺殿」なのかはっきりしなかった。
 
本堂に向かって右前に駿府切支丹の遺物ではないかと言われている切支丹燈籠、いわゆる織部型燈籠がある。戦後、前庭にあった池を整地した際に発見されたという。
 
また境内に芭蕉元禄五年の「けふばかり 人も年よれ 初時雨」の句碑があった。瑞龍寺から5・6分歩くと静岡浅間神社に着く。
 
 
 
境内に入ると観光バス5・6台が停まっており、外人さんで境内がごった返していて、次回ということで早々に退散した。

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