大佗坊の在目在口

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杉村楚人冠と山川健次郎の論争

2010-05-13 | 會津
飯盛山羅馬市寄贈の碑 (7)

杉村楚人冠は本名杉村廣太郎、明治5年(1872)、和歌山生まれ。
英吉利法律学校などに学んだ後、明治32年(1899)在日アメリカ
合衆国公使館の通訳として勤務、その時に受けた差別的待遇により、
史記「項羽本紀」の「楚人沐猴而冠耳」よりペンネームを楚人冠としている。

杉村楚人冠は明治36年(1903)に東京朝日新聞に入社、同年入社に
夏目漱石、後輩に石川啄木がいる。明治44年(1911)、我国新聞社
初の調査部初代部長となり、大正8年(1919)監査役に就任した。

杉村楚人冠の「非忠君非愛国主義」というエッセイがある。
「標題を一目見た許りで、あッと魂消(たまげ)ること勿れ、忠君を非とし、
愛国を非とする主義と解してこそ、兎角の非難はあれ、之を『忠君に非ずれば
愛国に非ざる主義』と読まんに、何の妨ぐる所ぞや、若し又之を『忠君は愛国に
非ざる主義を非とす』とも読まば、愈以てわが意を得たり、、、」
なんとも、辛辣な皮肉のなかに知機に富んだ文章だと思う。

この杉村楚人冠が東京朝日新聞に大正15年5月16日号から
「会津の旅」で、よめいり、白虎隊跡、やないづ、の3部を掲載した

東京朝日新聞大正15年5月18日号「会津の旅二 白虎隊跡」より、
「前年この飯盛山を訪うた時は、うつうつたる赤松林の中に、こけむした
二十餘基の白虎隊の墓が立って、如何にも名だたる飯盛山らしい趣があった。
今来て見ると、東京の何とかいふ金持の義金を基として、こゝを遊園地に
仕立て、ムソリニ寄贈の何とかを建てよう計画とかで、墓所を掘りさげ
切り開いて、、、、、、何といふ心なしの業をしたものだらうと腹が立つ。
金持が金をだすのは聞えた。そのまた土木工事に学校の生徒が遠方から
手傳ひに来たといふも殊勝の至りだ。この金とこの努力とでこの舊形破壊は
何事だ。ムソリニがそれほどえらいものか。今に藝妓の手を引いた遊客が
花時に出入するやうにでもなったら、さぞかし地下の少年も満足すること
ぢゃらう 、、、、、、、」。

この批判に対して、旧会津藩士の山川健次郎が東京朝日新聞に反論を投稿して
している。 

山川健次郎は安政元年七月十七日、会津藩士山川尚江三男として生まれ、
白虎隊士として戊辰を戦った。戊辰後、長州人奥平謙輔の書生となる。
(誕生日については、枢密院高等官転免履歴書記載宗秩寮戸籍によった)
男爵で顧問官だった山川健次郎については、昭和六年六月二十六日、病気
危篤のとき、特別叙勲申牒ノ件として枢密院文書にその略歴が残されている。

「枢密院顧問官正二位勲一等男爵山川健次郎病気危篤ニ陥リ候処
同人儀明治初年魯国及米国ヘ留学ヲ命セラレ帰朝後東京開成学校教授補ニ
任セラレテ以来東京大学ノ助教、教授ヲ経テ理科大学教授ト為リ次テ同学長
ニ補セラレ更ニ東京、九州及京都ノ各帝国大学総長ニ歴任シ遂ニ枢密院
顧門官ニ任セラレ以テ今日ニ迨ヘリ其ノ間實ニ五十有余年ノ久シキニ亘リ
精励恪勤官務ヲ奉スルノ傍高等教育会議議員、学習院評議会会員、文政
審議会委員、帝国学士院会員、維新史料編纂会委員、神社制度調査会会長等
数多ノ公職ヲ檐當シ孰レモ盡力尠カラス殊ニ 今上陛下東宮ニアラセラレタル
際ハ御学問所評議員トシテ大ニ功績アリ又貴族院ニ勅任セラレ永ク議政ノ
府ニ班列シテ勲労ヲ重ネ加フルニ晩年ハ老齢ヲ以テ久シク密勿啓沃ノ重寄ニ
膺リ上級勲章授与ノ儀御詮議相成度此段及申諜候也」
枢密院議長から内閣総理大臣宛に発議、六月二十六日執行されている。

「楚人冠氏の「会津の旅」中白虎隊の墓の事に関する記事は誤りたる考を
世人に起さしめる憂へあり」と当時武蔵高等学校校長に就任した山川健次郎の
反論が大正15年5月22日号の東京朝日新聞に掲載された。(続く)

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