大佗坊の在目在口

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白山通り(龍光寺・泰宗寺)

2013-09-08 | 掃苔

旧中山道というと大げさだが、文京区の国道17号の白山から旧白山通りの分岐点のところに、唐津藩祖小笠原壱岐守忠知と丸亀藩主京極刑部少輔高和を開基とする臨済宗の禪寺、天澤山龍光寺があります。
 
ここ本駒込の龍光寺は寛永年間の始め、伊勢鈴鹿龍光寺の虎伯禅師が幕命により江戸に出府、天澤山龍光寺の分寺として創建、明暦二年(1656)当地へ移転したと云われている。ここは会津藩士一柳家の菩提寺でもあり、一柳四郎左衛門直信、一柳元右衛門の墓がある。
  
      
諸士系譜によると四郎左衛門直信は右京亮直次二男で最上では御知行三百石とある。
なお西麻布長谷寺に同族、一柳忠左衛門直富二男一柳伊右衛門直行とその一族の墓域がある。

白山通りを下って巣鴨を通り抜け、染井霊園の北側に慶長年間に九鬼守隆により開基された法輪山泰宗寺があります。始め茅場町に建立され、寛永十年(1633)、下谷北稲荷町に移転したが焼失後の明治四十一年(1908)、現在地に移転した。
 
ここは阿部家(忍藩初代阿部忠秋、後・陸奥白河藩)の菩提寺で、少し離れた墓地を入った直ぐのところに五基の宝篋印塔がある。
 
   
この中に会津保科肥後守正信(後の会津三代藩主松平正容)の正室、艶陽院の宝篋印塔がある。この宝篋印塔の傍に棺蓋石板碑(?)が無造作に置かれていた。石板碑によると、艶陽院の名は竹(父は武州忍城阿部豊後守正武、母は江州彦根城主井伊掃部頭直澄の娘)、元禄四年二月に会津保科正信に嫁いだが僅か二年後の元禄六年二月に病死している。会津保科家が松平姓を許されたのが元禄九年だったので、元禄六年当時はまだ保科姓を名乗っていたことになる。
  
石板碑文(艶陽院殿花光見栄大姉)
夫人姓阿部氏諱於竹父武州忍城主従
四位下侍従國老阿部豊後守正武母江
州彦根城主従四位下少将藤原姓井伊
氏掃部頭直澄之女以延寶六年二月十
二日生于武江元禄四年二月十五日嫁
於従四位下少将保科肥後守源正信而
未有子焉元禄六年二月六日病終于武
江大田邸行年十有六也同月十一日葬
于豊島郡下谷村法輪山泰宗寺

この墓域の奥には前橋松平家、陸奥白河藩主松平直短一族、上野前橋藩の最後の藩知事松平直方等の墓域もある。

   
墓域には肥前佐賀藩主・鍋島直正の七男十一代小城藩(小城鍋島家)鍋島直虎の名が刻まれた石登楼もあった。武蔵川越六代藩主松平直侯の正室慈貞院が鍋島直正の娘だったことによるものか。

 

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