大佗坊の在目在口

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小田原の六字名号塔

2021-04-23 | 小田原

関本の龍福寺にあった徳本六字名号塔は小田原では数が少ない。慶応三年(1867)、徳本五十回忌に刊行された知恩院七十六世、増上寺七十世で初代浄土宗管長に就任した行誠の編纂「徳本行者伝」によると、諱は徳本、号は名蓮社誉弥阿弥。宝暦八年(1758)、紀州日高郡志賀庄久志の生まれだという。唯念が寛政元年(1789)生まれなので、約三十年の開きがある。徳本行者は江戸後期の代表的な捨世派(念仏専修の為に隠遁生活を選んだ僧達の総称)念仏聖で文政元年(1818)、六十一歳小石川の一行院で亡くなっている。ちょうど唯念が恐山や羽前の月山、湯殿山、羽黒山を登り修行していた頃である。享和三年(1803)、四十六歳で初めて関東下向。文化十一年(1811)、増上寺称誉典海の招請を受け関東に下向する。十一代将軍家斉実母慈徳院の御悩を平療、江戸でも評判は高く、以後、文化十四年に至るまで、関東諸国の各地を廻っている。文化十一年秋、巡教遊化のため伊豆相模を巡り、小田原の心光寺を訪れている。

心光寺門前の徳本六字名号塔

心光寺は新編相模風土記稿に「月窓山護念院と号す。浄土宗京都知恩院末、文安元年(1444)僧門栄起立す(松蓮社貞誉と号す)、當寺元は小田原古新宿町(山王川右岸海寄り)に在り、寛永七年(1630)回録の後、当所へ移れり」とある。この心光寺門前に徳本六字名号塔があった。中世以降の浄土宗では宗門における長老、学頭などの指導者を能化者と呼び、この能化者が何々蓮社という法号を用いるようになり、蓮社号は浄土念仏実践の団体・信者を蓮社と呼んでいる。増上寺、弘経寺、鎌倉光明寺六十世を経て、元文三年(1738)、知恩院四十九代住職に就いた称誉は号を名蓮社称誉円阿としている。小田原では唯念六字名号塔が多い。気が付かなかったのか徳本六字名号塔は少なく、国府津より西大友に至り、曽我、金子、などを経て十文字の渡(酒匂川と川音川合流附近)を渡り古田島、千津嶋、怒田、苅野を通り矢倉沢関所前の矢倉沢往還道に合流する甲州古道に面した小田原梅林の中心地の曽我にある東光院の門前に徳本六字名号塔がある。


東光院は風土記稿に「瑠璃山南谷寺と号す、古義真言宗(国府津村宝金剛寺末)、古は剱澤川の東に在しが(旧地は陸田を開き寺畑と字す)文禄二年中興恵誉今の地に移すと云」とある。現在は真言宗の宗派のひとつ、清荒神清澄寺を大本山とする真言三宝宗のお寺です。参道に笠付六角柱の六面地蔵があった。

六面地蔵はどこかで見たことが在ったが思い出せなくて、10年分のお寺の石仏の写真を見返しても分からなかったが、小田原藩の処刑地だった北條稲荷神社近くに行ったとき、扇町にある小田原藩のもう一つの処刑地跡に建立された地蔵が六面地蔵だったのを思い出した。

小田原 扇町

秀学六字名号塔については手持ちの写真を見直したらいくつか有った。
東町の昌福院門前(安政六年:1859)、


上多古公園内(安政五年:1858)の秀学六字名号塔と石仏群

小田原、山北には
秀学、行幹、祐天、覚誉などの六字名号塔が残っている。

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