大佗坊の在目在口

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南足柄 関本界隈

2021-03-04 | 小田原

神奈川県道78号御殿場大井線、いわゆる足柄峠を越える東海道の旧街道で、足柄古道、甲州道や矢倉沢往還の別名がある。いずれも伊豆箱根鉄道大雄山駅の先から足柄峠への道は狩川の左岸を通っている。弘行寺から大雄山駅に向かう街道に沿って石佛、石碑が多く残っている。市営グランド駐車場入口(学校前バス停50m手前)に道祖神と五輪塔(上宿の道祖神)、学校前バス停25m手前(雨坪と関本の境)関本地蔵尊があった。

この地蔵は「子育て地蔵」ともよばれ、関本公民館に置かれていたものを平成24年(2012)に「関本宿を語る会」により旧関本村地蔵堂の近くにお地蔵を修復して新たに祠を建立したものだという。関本の三福寺は関本地区にある福がつく三つの寺院で、廃仏毀釈で廃寺となった善福寺が上寺、中寺と呼ばれてきた長福寺、下寺の龍福寺を関本の三福寺と呼び、財産(上寺)、健康(中寺)、智慧(下寺)の三福を願う人々で賑わったという。廃寺の関昌山観音院善福寺の御本尊等は同じ真言宗寺院である弘済寺に移されたという。


長福寺は新編相模風土記稿によれば「開雲山と号す、臨済宗 狩野村極楽寺末、開山子文、文明二年(1470)八月廿七日寂」とあるが、文政四年(1821)に鎌倉円覚寺の直末寺となった。ご本尊は十一面観世音菩薩、円覚寺百観音霊場第二十番札所となっている。本堂屋根に正三角形の三鱗紋があった。臨済禅 黄檗禅の公式サイトをみると、円覚寺の寺紋は二等辺三角形の三鱗紋(北条鱗)で建長寺は正三角形の三鱗紋だという。



山門前に馬頭観世音、百番観世音、万霊等の石碑があり、境内に古そうな宝篋印塔と五輪塔がたくさんあった。隅飾がほとんど垂直で古い小さな宝篋印塔や五輪塔をみると、名もなき中世相模武士の供養塔に思えてくる。長福寺から歩いて4,5分の龍福寺に行く。
   
龍福寺は瀧澤山吉祥院と唱え時宗にて国府津蓮台寺末、開山は遊行二世他阿真教、真教は一遍上人の最初の弟子で、「他阿弥陀仏」の他阿の名を授かったという。門前の寺号標石に龍澤山龍福寺、遊行七十三代 一雲□とある。一雲とは時宗の七十三世法主、藤沢清浄光寺五十六世の法燈を相続した河野憲善氏の号。寺号標石の山号の瀧澤山が龍澤山に、どっかでサンズイ(三水)が抜けてしまった。天保三年(1834)の龍福寺地誌取調書上帳に瀧澤山吉祥院とあり本堂の山号額も瀧澤山とあったので、瀧と龍は違うなと思いながら、瀧と龍の音が一緒なので、細かい事は考えないことにした。「隅折敷に三文字紋」が本堂の屋根にあった。隅折敷に三文字紋は時宗の宗紋で一遍上人の出自である伊予河野氏の家紋から採られたのだろう。


境内に大正11年に建立された大きな「下田隼人翁碑」があった。下田隼人と云う名前、最近どこかでみた名前だと思いながら、碑文を読んでいたら、一時間ほど前に訪ねた雨坪の弘行寺の境内に下田隼人「観理日圓」と戒名を贈られた供養塔があったのを思い出した。

小田原藩は万治年中の検地により新しい麦租徴収令を発布、これに反対した足柄上下郡二百余村の代表として近郷の大庄屋を務めていた下田隼人が一身を犠牲にして藩主稲葉正則に強訴したという。大正13年発行の足柄上郡誌には「万治三年十二月廿三日死罪、龍福寺の重阿上人は亡骸を引き取り境内に葬り「相阿弥陀」の法名を授けた」とある。


この下田隼人翁碑の下部に墓標なのか、中央に「南無阿彌陀佛」、右側に「相阿彌、萬治二年十二月廿□」。左側に「利佛房 延宝五巳年十二月二日」 下に「施主下田□□」とあり、「相阿彌 萬治二年」となっていた。雨坪の弘行寺にある下田隼人の供養塔の日付も万治二年か三年かはっきりしなかった。文政十年(1827)の下田隼人施餓鬼供養を呼びかけた文書には萬治二年十二月廿三日死罪とある。処刑日が萬治二年か三年かはっきりしない。萬治元年から同三年の小田原藩の総検地と萬治三年(1660)の大災害による減免が直訴事件と結びついて、近世に処刑が萬治三年になってしまったのだろうか。

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