明治四十年、仙台の人大泉荘客が旧会津藩士手代木家所蔵の記録、
七年史、その他の伝説により編綴した手代木直右衛門伝がある。
この中に、「手代木翁死に先たつこと数日、人に語りて曰く」と
坂本龍馬殺害の記述があり、それにより龍馬暗殺は見廻組与頭で、
実弟佐々木只三郎が指揮したと伝えられている。
手代木直右衛門は、京都守護職時代の会津藩公用人を勤め、
伏見敗戦のあと、若松の戻り奥羽列藩同盟に尽力、会津戦争、
鶴ヶ城籠城戦を戦う。戊辰の九月十九日、戦いに利なく軍門に
降るため秋月悌次郎、桃澤彦次郎らと共に米沢に向かう。
戊辰後の明治五年、秋月悌次郎と共に左院少議生にて出仕、
明治十一年に岡山県吏となって郡長、区長を歴任した。
岡山に手代木勝任の墓碑を訪ねた。
市の無縁墳墓移転計画をみても、西南の平井山地区から
東北側、的場地区まで、この東山墓地はかなり大きい。
岡山市中区門田本町にある東山墓地笹山地区を目指した。
東山斎場の西(左側)から笹山地区墓地に入って直ぐの場所に
手代木勝任夫婦墓と長男宅寛・次男喬松の墓碑、あと一族の墓碑と
次男喬松が明治三十年建立の手代木祖先遥拝石があった。
勝任妻は鶴ヶ城落城の時、逃亡日記「松の落葉」を残した、
会津藩士百五十石小川権次二女喜代。墓碑前には長女元枝、
三女下枝が嫁いだ大田氏、光岡氏の名が入った花立てがあった。
手代木勝任君墓碑銘
君諱勝任佐々木源八長子也文政九年三月九
日生岩代国若松町幼名源太郎出嗣伯父勝當/
之家冐手代木氏稱斎宮改直右衛門世仕会津
藩年二十三為御供番嘉永六年米艦入浦賀従/
藩主忠誠公警備房総沿海文久二年七月藩主
/為京都守護職君扈従焉兼公用人元治元年正/
月謁家茂将軍於二條城賜時服盖殊恩也長兵
之侵京師藩主奉 勅討暴徒護 禁闕君有効/
賞賜銀二十枚兼軍事奉行副役特許采配慶応
元年正月謁慶喜卿賜眉尖刀三年十二月 朝/
議俄変解藩主守護職君従藩主還大坂伏見之
変君収兵於紀州海路還江戸時慶喜卿欲以君/
為監察使藩主致意辞不就帰会津任軍事奉行
副役進奉行職々廃為御用局頭取拜若年寄職/
先是幕府還政東征師迫封彊君與太目附伊東
左太夫裁書謝藩主罪於総督府阻格不達若松/
城之圍也蜜使米沢藩謀降伏至藩主待罪於東
京君亦随焉遂禁錮因州藩邸實明治元年十月/
也五月二月始赦罪微為左院少議生更任香川
県権参事叙正七位県廃補高知県七等出仕進/
権参事兼七等判事九年十月請罷官十一年九
月任岡山県川上郡長後歴任賀陽西北條東南/
條東北條郡長岡山区長賜憲兵発布記念章叙
勲六等賜瑞宝章叙従六位廿七年官慶特旨叙/
正六位遂留住岡山矣君為人清廉忠直少有大
志自任以邦家之休戚砲々匪懈深受藩主知遇/
焦思腐心翼藩主勤王事然事與志違遂為幽因
之身可堪慨耶是固所時勢之令然非獨君之罪/
也皇天有知会赦書至起列朝官頗有治績明治
三十七年六月三日病終於家葬于岡山笹山享/
年七十九娶小川氏生三男三女長子宅寛次喬
松共先歿次三郎亦殤養阿部氏之子良策為嗣/
三女各適人以余與君久相談表墓之嘱誼不可
辞乃為之銘曰/
志存報主 踏危任難 操守逾固
清廉官 克忠克直 節義両完
正四位勲三等 千阪高雅撰
金峯森谷 奥書
勝任妻喜代会津藩士小川権次二女大正八年五月十日死行年八十六歳
七年史、その他の伝説により編綴した手代木直右衛門伝がある。
この中に、「手代木翁死に先たつこと数日、人に語りて曰く」と
坂本龍馬殺害の記述があり、それにより龍馬暗殺は見廻組与頭で、
実弟佐々木只三郎が指揮したと伝えられている。
手代木直右衛門は、京都守護職時代の会津藩公用人を勤め、
伏見敗戦のあと、若松の戻り奥羽列藩同盟に尽力、会津戦争、
鶴ヶ城籠城戦を戦う。戊辰の九月十九日、戦いに利なく軍門に
降るため秋月悌次郎、桃澤彦次郎らと共に米沢に向かう。
戊辰後の明治五年、秋月悌次郎と共に左院少議生にて出仕、
明治十一年に岡山県吏となって郡長、区長を歴任した。
岡山に手代木勝任の墓碑を訪ねた。
市の無縁墳墓移転計画をみても、西南の平井山地区から
東北側、的場地区まで、この東山墓地はかなり大きい。
岡山市中区門田本町にある東山墓地笹山地区を目指した。
東山斎場の西(左側)から笹山地区墓地に入って直ぐの場所に
手代木勝任夫婦墓と長男宅寛・次男喬松の墓碑、あと一族の墓碑と
次男喬松が明治三十年建立の手代木祖先遥拝石があった。
勝任妻は鶴ヶ城落城の時、逃亡日記「松の落葉」を残した、
会津藩士百五十石小川権次二女喜代。墓碑前には長女元枝、
三女下枝が嫁いだ大田氏、光岡氏の名が入った花立てがあった。
手代木勝任君墓碑銘
君諱勝任佐々木源八長子也文政九年三月九
日生岩代国若松町幼名源太郎出嗣伯父勝當/
之家冐手代木氏稱斎宮改直右衛門世仕会津
藩年二十三為御供番嘉永六年米艦入浦賀従/
藩主忠誠公警備房総沿海文久二年七月藩主
/為京都守護職君扈従焉兼公用人元治元年正/
月謁家茂将軍於二條城賜時服盖殊恩也長兵
之侵京師藩主奉 勅討暴徒護 禁闕君有効/
賞賜銀二十枚兼軍事奉行副役特許采配慶応
元年正月謁慶喜卿賜眉尖刀三年十二月 朝/
議俄変解藩主守護職君従藩主還大坂伏見之
変君収兵於紀州海路還江戸時慶喜卿欲以君/
為監察使藩主致意辞不就帰会津任軍事奉行
副役進奉行職々廃為御用局頭取拜若年寄職/
先是幕府還政東征師迫封彊君與太目附伊東
左太夫裁書謝藩主罪於総督府阻格不達若松/
城之圍也蜜使米沢藩謀降伏至藩主待罪於東
京君亦随焉遂禁錮因州藩邸實明治元年十月/
也五月二月始赦罪微為左院少議生更任香川
県権参事叙正七位県廃補高知県七等出仕進/
権参事兼七等判事九年十月請罷官十一年九
月任岡山県川上郡長後歴任賀陽西北條東南/
條東北條郡長岡山区長賜憲兵発布記念章叙
勲六等賜瑞宝章叙従六位廿七年官慶特旨叙/
正六位遂留住岡山矣君為人清廉忠直少有大
志自任以邦家之休戚砲々匪懈深受藩主知遇/
焦思腐心翼藩主勤王事然事與志違遂為幽因
之身可堪慨耶是固所時勢之令然非獨君之罪/
也皇天有知会赦書至起列朝官頗有治績明治
三十七年六月三日病終於家葬于岡山笹山享/
年七十九娶小川氏生三男三女長子宅寛次喬
松共先歿次三郎亦殤養阿部氏之子良策為嗣/
三女各適人以余與君久相談表墓之嘱誼不可
辞乃為之銘曰/
志存報主 踏危任難 操守逾固
清廉官 克忠克直 節義両完
正四位勲三等 千阪高雅撰
金峯森谷 奥書
勝任妻喜代会津藩士小川権次二女大正八年五月十日死行年八十六歳
曾孫でいらっしゃるにも関わらず探すのは容易ではなかった様子が伺えます。
それなのに。。。よく探しましたね~!
さすが大佗坊さん。頭が下がります。
入会しているのですか?
東山墓地はビックリするほど大きくて、
全景を写すのを忘れてしまいました。
ここは、ある程度地区が分からないと、
探すのは難しいでしょうね!
ここ4年分くらいの会報はご好意で頂いたので
それをお正月にまとめて読んでいたのです。
ありませんよ!
加入なされば、いいのに!
いただいたのが出てきました。ひょっとして、
平成16年の99回記念号のことを
言われておられるのでしょうか。
読まれたのか、存じ上げませんが、
いずれにしても、手代木氏墓域を
訪ねられるよう地番と道順をサイトに
UPする予定です。