大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

若松賤子碑

2011-05-09 | 會津

先日、BS・日本こころの歌で「惜別の歌」を流していた。

この歌は学校の先輩、藤村英輔氏が戦時中に藤村の詩「高楼」から詞歌をつくり、それ以来母校の学生歌として歌い続けられている。学校の先輩でもあり、職場での先輩でもあったSさんが学校の後輩が転勤する時は必ずこの歌で送っていた。Sさんの転勤にもこの歌で送った。この先輩が亡くなってから何年たつだろう、酔っ払うと、オイ!後輩と怒鳴なるのを思い出した。藤村氏によれば、学徒動員の夜勤明けの朝、雪道で転んだときに、「悲しむなかれ わが友よ」のメロディが出てきたという。我が母校は元々法律学校で作曲を出来る人がいたのでビックリしたが、藤村氏がある対談で、バイオリニストの巌本真理と小学校の同級で彼女に憧れてバイオリンを始めたと知って納得できた。 

巌本真理は教育者巌本善治と若松賤子の長男巌本荘民の娘。若松賤子は松川勝次郎正義の長女で、会津若松で生まれ、横浜織物商大川甚兵衛の養女となり、フエリス女学校の一期生として卒業、26歳まで同校で英語の教師を勤めた。この巌本家の墓域が東京染井霊園にあり、数年前、管理事務所に寄るようにと看板が立っていたのが気になり、先週雨の染井霊園を訪ねた。綺麗に掃苔されており、ひと安心する。

(巌本家墓域と巌本真理墓)

  

 

会津若松の若松賤子(甲子)の生家に碑が残っている。

  

 

私の生涯は神の恵みを 最後まで心にとどめた 

  ということより外に 語るなにものもない    若松賤子

 

 明治中期の女流作家として令名をはせた若松賤子は会津藩士松川勝次郎の長女として元治元年三月一日この家に生れ七歳まで此処に育った本名は甲子であるが筆名は生地とその信仰に由来する 母の没後八才で横浜の大川家の養女となってミス ギダアの塾に入り後にフエリス女学校に入学し明治十五年十九才で唯一人の第一回の高等科卒業生となり直ちに同校教師を命ぜられた 明治二十三年厳本善治と結婚誌「お向ふの離れ」を処女作とし「おもひで」を絶筆とするがことにバーネツトの名著「少公子」を訳しその流麗な文章で世に知られた 甲子は幼少から篤信な基督者で彼女の一生は基督教精神で貫かれている

私は甲子の父勝次郎の実弟古川義助の二女で甲子と同じくこの家に生れ育ち現にこの家を襲いでいる そしてまた甲子の従妹として彼女に深い親愛と尊敬をつづけてきた

茲に甲子が薫陶をうけた当時のフエリス女学校長ブ―ス氏から聴いた彼女のことばを碑に刻んで生誕の小庭に据え これを永遠に伝えまた私の追慕の記念とする

                    一九六一年十二月十日  古川きん子

 

 惜別の歌

一 遠き別れに 堪えかねて この高楼に 登るかな

悲しむなかれ わが友よ 旅の衣を ととのえよ

二 別れといえば 昔より この人の世の 常なるを

流るる水を 眺むれば 夢はずかしき 涙かな

三 君がさやけき 目の色も 君くれないの くちびるも

君がみどりの 黒髪も またいつか見ん この別れ

四 君の行くべき やまかわは 落つる涙に 見えわかず

袖のしぐれの 冬の日に 君に贈らん 花もがな

 

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