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ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

家族会議

2008年11月20日 | 家族とわたし
「やりたい事、なりたいものが分からないまま、大学に通いたくない」
Kははっきりと、最後にこう繰り返しました。

ちょっとKを連れて、彼の好きなレストランに3人で行き、家だとなかなか煮詰まらない話をしてみようか。
旦那のアイディアに賛成して、Kにはその企みを内緒にしながら誘ってみました。

木曜だったら行けるというので、今夜、『AOZORA』という、この町で1番のジャパニーズレストランに行きました。

すっかりお腹が膨れて、ワインも適量入ったところで、デザートを分けんこしながら話が始まりました。

今の大学の教師達のこと、試験の様子、寮生活を復活させる意味、専攻科目の変更などの、いつもの話から始まり、

どうして大学に行くのか、どうして大学に行ったら生活し易いと決めつけられるのか、
僕はいったい何をしたいと思っているのか、それはお金のためなのか、生きる意味のためなのか、
とにかく今はなにも分からなくなって混乱しているので、とりあえず休学させて欲しい、という、
Kの、とても真剣な、そして若者らしいナイーブな気持ちを聞くことができました。

そんなこと言わずに、大学だけは続けた方がいいよ、なんて思っていません。
1人の子供を大学に行かせるのに、どれほどのお金が必要か。
有り余っているのならともかく、どうしても行きたいから行かせて欲しいと頼まれたのならともかく。

それにしても、Kは幼い頃からおもしろいことを言う子でした。
「Kはおっきくなったらなにになりたいの?」「そうじき!(まさしく掃除機のことです)」
「おかあさん、ぼくはどうしてぼくなん?」
「なんで人って生きてるの。なんのために生きてるの」
「生きるってなんやろ?死ぬってなんやろ?」
そんなことを、ふと思い出したように聞いてくるのでした。

Kが見つけたい答は、正否ではなくて、それ自体に意味があるのかどうか、それが大切なんだと思います。
TはKとは逆に、意味よりも先に、それが機能的かどうか、役に立ちそうかどうか、それに重きを置いて決めました。
意味は後からついてくる。そんな感じで物事を選択しているように思えます。

どちらもそれぞれ、一個の立派な人格を持った大人なので、旦那もわたしも、その人がよく考えた末に決めたことを尊重したいと思っています。
ただ、尊重はするけれど、様子を見ていて、腑に落ちないことがあったり、望ましくなかったりすることが続いた場合、注意したり叱ったり、時には止めたりするかもしれません。

子供が大人になり、独り立ちするまでは、ほんとにいろいろな種類の迷いや悩みが生じます。
けれどもそれらは、ほっこりとした温かみとともに思い出すようなものが多いということを知っています。
迷ったり悩んだりしている最中は、もちろん楽しくはなく、時にはかなり辛かったりするけれど、
いつかまた思い出せる時が来る日を楽しみに、今回のKの心が決まる日を待ちたいと思います。

Kよ、この写真の頃のあんたのように、一心不乱に、がむしゃらに、希望のタンバリンをパン!と鳴らしてみなよ。



殺してしまった

2008年11月20日 | ひとりごと


他の緑と混じって、少し分かりにくいですが、白いポットに植わった植物が見えますか?
春先の、誰もが浮き浮きと庭作りをし始める季節に、この植物に出会いました。
それまで見たことのない、鳥のくちばしのような形の、くっきりとしたオレンジ色の花をいっぱいつけていました。
見つけた時、すぐに大好きになりました。
店の人に名前を聞いても、育て方を聞いても、ごめん、知らないと言われてしまいました。
多年草ではないということだけ教えてくれました。

とても大きなサイズの植物だったので、トランクに入れるのも一苦労。
池の噴水のように盛り上がった茎と、三角形の葉っぱとオレンジ色の花は、見ているだけで心に元気をもらえました。

花の季節が終わっても、噴水状の茎と葉を見ているのが楽しく、来年まで育ててみようと思いました。

数日前から急に本格的な寒さがやってきて、そろそろ家の中に入れてあげないと、と思っていました。
けれども、とても大きくて、葉が下に垂れているので、どこに置けるだろうかと思案していました。
一昨日の夕方、心配になって様子を見てみると、なんの変わりもなく、いつものようにお日様の光を浴びて元気そうでした。
そして昨日、わたしは一日中、一歩も外に出ませんでした。

昨日の夜遅く、12時を過ぎて、ベッドの上でうとうととしかけていた時、
しもた!今夜はぐっと気温が下がってるはずやのに、あの子を中に入れてやってなかった!
なぜだか急に思い出して、居ても立っても(寝ても?)居られなくなって、上着を羽織って慌てて外に出ました。



真っ暗ではっきり見えなかったけれど、ズルズルに溶けてしまった茎が、幽霊のように力なくポットの周りに垂れ下がっているのが分かりました。
こんな無惨な変わり果てた姿になってしまって……。

ごめん、ほんまにごめん。こんなになるまで放っといてごめん。
わたしはポットごと胸に抱いて、しばらくの間謝り続けました。

ベッドに戻っても、なかなか寝付けませんでした。
眠ってからも夢をいっぱい見て、1時間ごとに目を覚ましました。

今朝起きて、もう一度元の場所につり下げて、自分のやった酷いことを写真に残しておこうと思いました。

車を運転するということ

2008年11月19日 | ひとりごと
日本では、2007年9月19日の道路交通法改正施行により、
酒酔い運転の罰則が「5年以下の懲役又は100万円以下の罰金」、
酒気帯び運転の罰則が、「3年以下の懲役又は50万円以下の罰金」、
飲酒検知を拒否した場合も「3月以下の懲役又は50万円以下の罰金」、になりましたね。
この厳しさはそれなりに効いたようで、日本に住むわたしの家族や親族、それから友人知人は、
ブツブツ文句を言いながらも、お酒を飲む=車を運転しない、という法則がくっきりと脳みそに刻まれたようです。

こちらでも飲酒運転は厳しく罰せられると思いますが、州によって罰則や法律が違うので、はっきりとは知りません。
こんなこっちゃあかんのですが……

最近、大阪で、とても痛ましく腹立たしく、どうしてそんなことになるのか理解し難いひき逃げが続きました。
このことについては、なにも言いたくないというより、言う言葉が見つかりません。

けれども、ひとつお話があります。
なぜなら、ひき逃げという言葉を読むたびに、あの痛さがよみがえってくるわたしだからです。

わたしはその時、会社員をしていました。19才の時です。父が再婚してから6年が経っていました。
その6年間の細かいことや詳しい事情の多くを忘れてしまいました。
とてもいやなことや辛いことが多くて、脳か心のどちらかが、積極的に忘れようとしむけたのだと思います。
ぼんやりと覚えているのは、怠け者になった父と、借金取りの怒鳴り声と、父の友人でも親戚でもない、けれどもやけに慣れ慣れしく家に入り込んでくる怪しい男達と、うちが経営していたバーのホステス達と、そのヒモのちんぴら達、そして、どうしても馴染めなかった新しい家族。

家にはお米しかなくなって、半膳のご飯にマヨネーズやお塩、時にはコカコーラなどをかけて食べ出した頃、
家の中のすべての家具とピアノに赤い紙が貼られ、ある日急にすべての物を持っていかれちゃった頃、
父が煙りみたいにフッと家から消えて、聞いてもどこにいるのか分からなくなることが再三あった頃、
借金取りの催促の電話に出る係にならされて、毎晩一日も欠かさずに、「殺す」だの「体売れ」だのと怒鳴られていた頃、
とうとう本当に売られちゃったわたしは、夜中に夜逃げをして、警官と再婚していた母の所に匿ってもらいました。

やくざの連絡網と調査能力はとても優れていて、それから身を守るには、自分の存在を消さなければなりませんでした。
そんな恐ろしいことに絡んでいる子なんか、誰も匿いたくなんかないだろうに、大阪に住む母方の親戚は、それは親切にいろいろと面倒を見てくれました。
けれども、だからといって甘え続けているわけにはいきません。きっといつかは見つかって、とんでもない迷惑をかけるからです。
なので、当時母が住んでいた三重県の四日市に移りました。
そこで、名前を変え、学歴や年令も偽り、新聞広告で見つけた東邦ガスの子会社の臨時就職試験を受けました。
たった1人の採用に、かなりの人数が集まってきていたので、ほとんど諦めていたのに、最終選考まで残って面接を受けた後、合格の通知をもらいました。

半年の見習い期間の半分が過ぎた頃の、よく晴れた初夏のお昼休みのことでした。
仕事仲間の人達と、会社近くのいつものレストランで、ランチを食べることになりました。
わたしはまだ仕事の切りがついていなかったので、先に行く人に、「海老ピラフを頼んでおいて」とお願いしました。
少し思ったよりも時間がかかりました。なので慌てていたのだと思います。
レストランにもう少しという所の四つ角を渡ろうとした時、ふと視界の右横に白い車が見えました。
けれども車が走っている側には一旦停止の標識が立っていたので、そのまま渡り始めました。
それはもう、言葉通り、あっという間の出来事でした。
右側の腰のあたりに、それまで味わったことのない、ものすごい痛みとショックを感じた途端、体がフワリと浮いて車のボンネットに乗り、そのまま勢い良く反対車線の道にうつ伏せに落ちました。
いったぁ~。
その一言しか思い浮かびませんでした。
すぐに大勢の人が寄ってきました。
「大丈夫か!」とか、「あ、車が逃げた!」とか、「救急車呼べ!」とか、口々に叫んでいるのが聞こえてきて、
途端にものすごく恥ずかしくなって、とにかく立ち上がろうとするのだけれど、体のあちこちが痛くて思うようにいきません。
「動いたらあかん、救急車が来るまでじっとしとき」
いや、それは困る。救急車が来たら、きっと警察も来る。そうしたら、わたしは本名を名乗らなあかん。それは困る。
焦って急にスックと立ち上がったわたしを見て、周りを囲んでいた人達は仰天したように後ずさりしました。
「大丈夫です、ほんとに、大丈夫ですから」
「いや、でも……」
止める人達の手を振りほどいて、わたしは精一杯平気な振りをしながら、スタスタとレストランに向かって歩き出しました。

レストランの自動ドアが開いて店の中に入ると、「いらっしゃいませー」と愛想良く笑って迎えてくれたウェイトレスさんの目がギョッと大きくなりました。
友人のいるテーブルの所に行くと、「あんた、ちょっと、それ、どないしたん?」と、皆が立ち上がって驚いています。
え……?と思ってよくよく自分の体を見下ろしてみると、あれまあ、あちこちから血がダラダラ流れています。
「車に轢かれた」
「車に轢かれたってあんた、ほんでどないしたん」
「ひき逃げやったみたい」
「やったみたいって……警察は?」
「せっかく頼んでもらってあったし、お腹も減ってるから、先にピラフ食べてから行こうと思て」
「そうなん、それやったらしゃあないけど……」
ウェイトレスさんが持ってきてくれた大量のナプキンで血を拭き拭き、それでもきちんと残さず食べた海老ピラフ、おいしゅうございました

会社には戻らずに、泣く子も黙ると噂も高かった四日市南警察署に行って事情を話したら、大目玉食らっちゃいました。
「そういう時は、現場から離れて海老ピラフなんか食うとったらあかんやろがっ!」
お詫びに鑑識の人達と一緒に現場に戻り、倒れた所にもう1度寝転がり、そこに白いチョークで人型を書くお手伝いをしました。
現場からレストランまでの道に点々と血痕が見つかり、さらにお叱りを受けました。

逃げた車の持ち主は見つかりましたが、その日のその時間には遠くに出張していて、多分勝手にその車を乗り回していた息子の仕業だろうという所まで分かったまま、うやむやになってしまいました。
はっきりできなかったのは、わたしの事情もあってのことなので、それ以上追求することはありませんでした。

真剣なのかアホなのか、よく分からないお話です。
けれども、あの痛みだけは忘れられません。
車は鉄の塊で、それを動かしている運転者は、本当にそのことをちゃんと分かっていなければなりません。
だからこそ、お酒だけじゃなく、疲れ過ぎていたりする時も絶対に乗るべきではありません。
心身ともによい状態にある人であっても、ちょっとした気の緩みで事故は起きてしまいます。
わたしも、わたしの家族も、全員ドライバーです。
これからの、なんだか忙しくなる季節、気をしっかり引き締めたいと思います

家族アンサンブル

2008年11月18日 | 音楽とわたし
今日は、アメリカンチャイニーズのエヴァンとオースティンとエマの3人兄弟妹の家にピアノを教えに行きました。
今年15才になったエヴァンは高校生。彼が7才の時、わたしの家の生徒第一号として習いに来てくれました。
その頃の彼は体がとてもちっちゃくて、手だってそれはそれはちっちゃくて、関節もふにゃふにゃ、ピアノの鍵盤に乗せると、まさしくモミジの葉っぱみたいでした。
そして、季節の変わり目になると、きまって何かのアレルギーが出て、唇をぷっくり腫らしてたり、鼻の下の皮が剥けてたり、目が真っ赤だったり、そんなんで楽譜なんか読めないし、集中するのだって難しいし、先に進むのがなかなか難しい子でした。

でも、弟のオースティンも習うことになり、それまで電子ピアノだったのが本物のアップライトピアノに変わった頃から、
お兄ちゃんのプライドとかもあったのかもしれないけれど、俄然やる気が出てきたエヴァン。
中学校では、ブラスバンドのキーボードや、ジャズクラブのピアノを、自分から進んで担当したりするようになりました。
バンドから難しい曲をもらった時などは、その曲もレッスンで見たりしました。
学校やクラブのことなどをよく話してくれたり、彼が好きな日本のマンガの主題歌を教えてくれたり、
それまで知らなかったエヴァンの、ピアノの生徒としてだけではない部分を見せてくれるようになりました。
高校入学と同時に、とても厳しいマーチングバンドに入部し(複数のオーディションを合格して)、
その練習と、毎週のようにあるショーやコンテストと、学校からの山のような宿題で手一杯になったエヴァンは、
モーツァルトのトルコ行進曲を弾くんだと張り切っていた発表会にも出られなくなり、レッスンも休止中です。
でも、あんなに引っ込み思案で自信を持てなかった彼が、難しいことに次々にチャレンジし、それなりに自信を持って立ち向かっている姿を見せてもらえるのは、長年付き合ってきた者としてとても幸せなことです。


わたしはピアノの教師なので、もちろん生徒にピアノを教えているのだけれど、
わたしが1番彼らに伝えたいことは、音楽っていいよねって思える気持ちと、楽器を演奏できるという特別な表現力を、
できれば一生、もうそろそろさよならだ、という日が来るまで持ち続けて欲しいということです。
もちろん、その楽器がピアノであってくれたらすてきだけれど、吹奏楽器でも打楽器でも、声でも太鼓でも、ほんとになんだっていいんです。音楽につながっていればそれでいいんです。ジャンルだってなんだってかまいません。

今夜、オースティンのレッスンが終わり、エマのレッスンをしていると、地下の方からにぎやかな音が聞こえてきました。
なんだろな、と思いながらエマのレッスンを終え、次の生徒の家に行く支度をしていると、3人の父親が見送りに来てくれました。
「ドラムセット、買ってあげたの?」
「ああ、あれね、クリスマスの前渡しなんだ。エヴァンがどうしても欲しいって言って」
「へえ、エヴァン、ドラムも始めるの?」
「いやあ、あれをやってるのはエマだよ」
「え?エマ、ドラムを叩けるの?すごいね」
「ちょっと見てみる?」
「もちろん!」

父親のアランに案内してもらい、地下の部屋に降りて行きました。
あらまあ、エマがハイハットとスネアドラムを左右に置いて、エヴァンの指揮に合わせて一所懸命叩いています。
オースティンはなんとギターを演奏していて、いろんなコードをなかなか流暢に掴んでいるじゃありませんか。
そしてエヴァンはというと、ヴォーカルを担当しつつ、弟と妹にあれやこれや指示しまくり!
彼が歌っているのはもちろん、彼の大好きな日本のマンガの主題歌です。
アランがわたしの耳元で、「エヴァンの言い方さ、まうみにそっくりだろ?いっつも言われてきたもんね」とニヤニヤ。
3人は、今月末の感謝祭にやって来る、従姉妹達に披露しようと、毎日練習しているそうです。
もっともっと聞いていたかったけれど、次の子の家に遅刻しそうなのであきらめました。


家族で楽器を演奏する。これはわたしの、ずうっと叶わないままにいる夢です。
何も習わせてあげられなかった息子達。まるで音楽には興味無し、といった感じで大きくなっていき、やっぱり夢は夢でしかないのかなあとあきらめていたら、
Tは内緒で中学の吹奏楽部に入り、トランペットから打楽器に、そしてティンパニーに、大学に行ってからベースギターに、
Kは真似っこピアノからドラムセットに、そしてティンパニーからヴォーカルに、
旦那はギター一筋、たまに三味線弾いたり自作の歌を歌ったり、
いつか、一度でもいいから、Tのベースギター、Kのヴォーカルとドラム、旦那のギター、わたしのキーボードっていう設定で、
なんか演奏できたらいいのになあなんて、しぶとく夢見るわたしです。

今夜は、仕事が終わってからコミュニティバンドの本番用通しリハに行き、くたくたになって帰りました。
けれども、心の中はなんだかフクフクと、幸せな空気で膨らんでいます。

年を取って、ある時ふと昔のことを思い出した時、ああ、こんなに音楽が好きなのは、あの時、名前はすっかり忘れたけど、彼女と一緒にピアノを勉強したからかもしれないなあ、なんて思ってもらえたら……ピアノ教師冥利に尽きますね


おじいさん

2008年11月17日 | ひとりごと
だまされたことってありますか?

わたしの記念すべき第一回目は、傘の修理のおじいさんでした。
なんだかいろんな小道具が入った、ボロボロの布袋を自転車のハンドルの所に下げ、傘の修理はいらんかな~と言いながら、自転車をとぼとぼ押していたおじいさん。
その頃住んでいた家はかなり急な坂道の上にあったので、ここまでやってくるのはしんどかったろうなあ、とまずそのことがとても気の毒になりました。

家の玄関先で、独りでケンケン遊びをしていたわたしは、おじいさんを喜ばせたい一心で、慌てて家の中に入り、壊れた傘を数本集めて外に飛び出しました。

その時わたしは5才。細かいことは覚えていません。ただ、後で母に、こっぴどく叱られたのを覚えています。
「ああいう人は、人をだましてお金を稼ごうとしているのやから、今後一切、大人に聞かずに頼んだりしたらあかん」
わたしは泣きそうになりながら、母の怒った声を聞いていました。
だます、という言葉を初めて聞いた日でした。



それから2年後の7才の時、第二回目もおじいさんでした。
「おじいさんなあ、道に迷ってしもたんや。飴ちゃんあげるから、わしと一緒にちょっとそこまで歩いてくれへんか」
迷ってしまった人と、どうしてわたしが一緒に歩かなければならないんだろ?
子供心にもそう思いましたが、ベレー帽を被ったおじいさんは小柄で気が弱そうに見えました。
可哀想になって、少しだけならいいかと思い、おじいさんと並んで歩き始めました。
しばらく歩いて行くと全く知らない道に入ろうとするので、もうここらへんでさよならしようとおじいさんの方を見上げると、
わたしの肩にかけたおじいさんの手に、急にとても強い力が入り、痛いほど掴まれてしまいました。
恐い……そう思ったけれど、言葉が出ません。
「知らない人に付いていったら絶対あかんよ。そういう人は、子供をゆうかいしようとしてるのやから」
突然、母の声が聞こえてきました。
もしかしたら、この人、ゆうかいする人かも。どうしよう、どうしたらええやろう。
歩きながらウンウン考えました。通りには誰もいません。声を出しても無駄だとあきらめました。
そうだ!
ひらめいて、突然わたしはスッとしゃがみました。その瞬間、おじいさんの手からわたしの体がすっぽりと抜けました。
そして素早く立ち上がって、そのまま後ろも振り向かず、必死に走って走って走り続けました。
近くの交番に駆け込んで、おじいさんのことを話しました。ベレー帽の色、背の高さ、縞模様のシャツ、ズボンの色。
彼は誘拐の常習犯でした。誘拐といっても、子供をしばらく連れ回す程度のことだったと思います。
もうずいぶん昔のことなので、詳しいことは覚えていませんが、警察から感謝状のようなものをいただきました。



そしてそれから経つことなんと30年。もう立派な大人になったわたしが、またまたおじいさんにだまされました。

大阪に住む弟が遊びに来てくれた日でした。
天気が良かったので、息子達も連れて、4人で近くのなぎさ公園に遊びに行きました。
その日の琵琶湖は波もおだやかで釣り日和。たくさんの子供や大人が釣りをしに来ていました。
うちの息子達も、安物の釣り竿を手に、餌用のミミズを針につけて、ブラックバスを狙って待っていました。
「お、なかなか上手に釣れてますねえ」
急に声がして、びっくりして振り向くと、小柄で上品なおじいさんがニコニコしながら息子達のバケツを覗いています。
「別に上手でもないんですけど、今日は日がいいのかもしれませんね」
なんて言って、それからしばらく、息子達の横で、のんびりとたわいのない話をしていました。
「さあ、そろそろ行かないと」と言って、おじいさんが腰を上げたので、わたしも挨拶をしようと立ち上がりました。
すると、おじいさんはちょっと困ったような顔をして、なにかもじもじと言いたそうです。
「どうなさいましたか?」
腰でも痛めたのかと心配になりました。
「あの、こんなこと、初めてお会いしたあなたに申し上げにくいのですが、実はわたし、これから東京に高速バスに乗って帰るところなんですが……お金が足りなくて困ってまして……」
それを聞いてわたしも困りました。本当に貧乏だった頃で、その日もおにぎりとお茶しか持っていなかったのです。
「ごめんなさい。今日はお金を持って来なかったんです」
「2千円だけでもお借りできませんか。2千円あればなんとかなるんですが」
「すみません。お恥ずかしいですが、百円さえも持っていないんです」
そう言うと、おじいさんは何も言わずに、サッと歩き出してしまいました。
わたしはその後ろ姿を見ながら、悪かったなあ、せめて千円だけでも持っていれば、と申し訳なく思いました。

少し離れた所に居た弟がやってきて、「今の知り合い?」と聞かれたので、いきさつを話しました。
すると弟は急に恐い顔をして、「金、やらんかったんやろな」と言いました。
「やるもやらんも、ほんまに持ってへんかったんやからしゃあないわ」とわたしが言うと、
「あほか、あんなんだましに決まってるやないか。ああやって、ちょっとずつあちこちで金取ってるんや」
そうかなあ……横でプリプリ怒っている弟の声を聞きながら、それでもわたしはおじいさんのことを信じていました。

家に戻って夕飯を作り、大阪に帰る弟を見送ってから、わたしは急いでおにぎりとお味噌汁をプラスティック容器に詰めて、東京行き高速バスの発着所のプリンスホテルに向かいました。
お金をあげることはやっぱりできません。人様に渡せるお金など、ほんとに1円も無い状態でした。
なのでせめて、お金が無くてお腹を空かしているだろうおじいさんに、温かいおにぎりとお味噌汁を食べてもらおうと思いました。
弟は「あれは詐欺師の顔や」と断言したけれど、わたしにはどうしてもそうは思えませんでした。
バスは1時間に1便。8時半のバスに合わせて行きました。おじいさんは見つかりませんでした。
家に戻って、温め直した食べ物を持ってまた9時半に行き、諦めきれずにもう1度、最終の10時半に行きました。
毎回バスの中に入って、乗客の顔を調べましたが、とうとうおじいさんを見つけることはできませんでした。

やっぱりだまされたのか。
車の中でお味噌汁をすすりました。2度も温め直したので、すっかり塩っ辛くなっていました。
まあ、こんなこともあるわさと、ちょいと軽くため息をついてから、車のエンジンをかけました。

どうしてだか、おじいさんに弱いわたしです。だから世のおじいさん達、お願いですからわたしをだまそうとしないでね



何もしない日

2008年11月16日 | ひとりごと
……のはずでした。
昨日、マンハッタンから家に戻ったのが夜中の1時を過ぎていて、朝からいろいろ忙しかった我々はとても疲れていました。
あの街のエネルギーと、若者(二十代)に付いていくには、もう年を取り過ぎた、なぁんてことをふと感じた我々でした。

なので、今日は一日だらだらふらふらしよう。そう決めてだらだらふらふら午前中を過ごしていたら、
いきなり旦那が、「ビールを飲みながら小津の映画を見よう!」と盛り上がり出しました。
フフン、映画よりもなによりも、ヤツは昼間っからビールが飲みたいのだな。
まあ付き合ったろか。
こないだから観始めた、小津安二郎監督の四季シリーズの『秋日和』を観ることにしました。
わたしは昼間っからのお酒は苦手なので、烏龍茶で鑑賞です。

小津監督の映画は、旦那の勧めで観るまではまったく知らずにいました。
「品行は直せても 品性は直らない」の心情を語ってきた小津監督は、美意識を持ち凛とした作品を作り続け、
「どんなに悲しいことがあっても 空は何時ものように晴れている」という考えで、場面を誇張することなく演出されたそうです。

『秋日和』の前は『早春』を観ました。
旦那もわたしも単純なので、映画を観終わった後は口調が小津映画調になってしまいます。
「おい、そのスィッチ、消しとけよ」
「なによ、そんなこと、いちいち言われなくても分かってるわよ」
「ふん、分かってたらこっちもいちいち言わないさ」
「いやね、ずいぶん意地悪だこと。わたし、怒っちゃうわよ」
なんて感じで延々と、自分達がアホらしくなるまでやっている、なんとまあ平和な日曜日。

昭和30年代後半から40年代初頭の、わたしにとっては物心ついて間もない頃の、とても懐かしい風景。
旦那にとっては、もちろんまだ生まれてもいなかったのだけど、時代劇を観るような感じもする未知の世界の映像です。
改めてその映画が作られた年を思うと、終戦からまだ20年足らずの間にあそこまで変わった日本の様子に驚きます。

映画を観終えて、それからなんとはなしに、なんとなく気になっていた場所の掃除が始まりました。
昨日まで、あんなに暖かかったのに、今日は北風がビュンビュン吹き荒れています。
引っ越しするつもりでまとめてしまっていた荷物を解き、ここで冬を迎えるつもりは無かった気持ちを切替え、あちこちの隙間に新聞紙や段ボールを詰め、勝手口の網戸の部分にビニールを貼り、冷たい北風予防をしました。

小津さんの映像が、わたしの背中をそぉっと押してくれたのかもしれません


小さな世界

2008年11月16日 | ひとりごと
「お、彼女がニューヨークで歌うみたいや」
ニューヨークタイムズのアートセクションを読んでいた旦那が言いました。
「彼女って?」
「ほら、タラッタタラッタタラッタタラ(←歌のイントロ部分です)の彼女」
「おおぉ~、いいねいいね、聞きたいね」
「あ、あかんわ、今夜のみのライヴや」
「ううぅ~残念!」

彼女の名前はマデリン・ペイロー。
旦那が鍼灸師になりたてのホヤホヤの頃、仕事帰りの車の中で、ジャズ専門局から流れてきた彼女の歌を聞いて一目(耳)惚れ。
その頃、家計がとっても苦しい状態だったのにも関わらず、CDを思わず買ってしまったという伝説の歌手です。
でもしゃあない。また次の機会を待ちましょう。
だって、なんてったって、今夜はデイヴの息子ガブリエルがうちに来て、夕飯を一緒に食べることになってるんだもんね。

デイヴのお葬式に行った時、旦那もわたしも同じことを彼に誓っていました。
ガブリエルのこと、まかしときって。
ガブリエルはティーンの頃、全く無気力で、どちらかというと素行も良くなくて、デイヴはそれをとても心配していました。
高校を出て、のらりくらりとしている彼に、ビデオ関係の学校に行かせたらどうかと思いついたデイヴ。
ビデオゲームが大好きで、ゲームの腕もかなりうまかったので、ひょっとしたら興味がわくかも、という理由でした。
そして……ビンゴ!ガブリエルはそこですっかり生まれ変わったのでした。

今では有名なTVショーの編集責任者として、27才の若さでバリバリ働いています。
わたしの好きなコルベアリポートの編集もしているそうで、思わずサインとかを頼もうかな、なんて……ダハハ。
なので、別にわたし達の助けなんか全く必要の無い彼だけど、ま、たまに一緒にご飯を食べておしゃべりしながら、彼の様子をそばで見守り続けたいな、などと思うジジババなのであります。

うちに着いて早々に、「今夜は10時までにマンハッタンに戻らないといけないんだ。なのでゆっくりできない」とガブリエル。
そりゃちょっと残念。でもまあ、また次の時にゆっくりしたらいいやん。
「で、なんで10時なん」
「実はライヴに行く予定があって」
「ふぅん」
「幼馴染みのライヴがたまたま今夜なんだ。デイヴ(ガブリエルは父親をこう呼びます)の古い友達も一緒に出るし」
「へぇー、それってもしかしてダニー?」
「ああ、そうそう、ダニー。ああ、2人とも、お葬式の時に会ってたよね」
「うん。けど、彼って、こんな言い方したら失礼やけど、ちょいとホームレスっぽくない?」
「彼はそうだよ、ホームレスだよ」
「え?」
「もうかれこれ50年近く、フランスのセーヌ川におんぼろ船浮かべて、そこで住んでるんだから」
「デイヴと知り合った頃も?」
「そう」
「彼は音楽できるの」
「歌えるけど、楽器は全く演奏できない」
「で、どうして彼が今夜ライヴに出るの?アメリカに来てるの?」
「2、3日前に来たみたい。彼ね、マデリンが16才の頃から、なんとなく一緒にバンドやってるんだ」
「ちょ、ちょ、ちょっと、今マデリンって言わへんかった?」
「え?なんで彼女のこと知ってるの?」
「…………

彼女が今みたいに有名になる少し前に、曲のアレンジで悩んでいた時、デイヴがいろいろとヒントを与えたそうです。
それで彼女はふっ切れて、とてもいいアルバムができ、一気に有名になったという話を聞きました。
デイヴはその頃、フランスやイタリアで、奥さんのヴァダナと2人で、路上で歌って生計を立てていました。
ワゴンの後ろに小さな子供だったガブリエルとヴィーダ、自分達は運転席と助手席で寝泊まりしながら、
夏は北上し、冬は南下しながら、ジプシーのような生活を結構長いことやっていたそうです。

デイヴの最後の、ほんの8年間だけしか知らないわたし達。まだまだ楽しい秘密がいっぱいありそうです。
それにしても、なんてすてきな偶然でしょう

もうひとつ。
今日の天気はとても変でした。
この地域の11月というと、日本の真冬という感じになるのに、
今日はまたまた雨が降って、風とかもビュンビュン吹いて、そして気持ち悪いほど暖かでした。20℃を超えてました。
わたしは近頃、夜の運転があまり嬉しくありません。目がなんとなく見えにくい感じがするからです。
なのに今夜は雨降りの夜のマンハッタンを運転する羽目になりました。旦那がワインをしっかり飲んだからです。
雨降りのマンハッタンはタクシーがウジャウジャ走っています。最悪です。
ライヴハウスに着いて、車を駐車する場所を見つけられなかったので、ガブリエルとわたしだけ降りて店に入りました。
旦那はそれから実に1時間半、グルグルグルグルグルグル近所を走り回り続けましたが、とうとう見つけることができず、彼女の最後の歌の最後の部分だけしか聞くことができませんでした

デイヴが一緒に居たんだな。そんな気がする夜でした

男の値打ち

2008年11月15日 | ひとりごと
ハポン国の首相(もうすぐ辞めはるみたいですが)は「頻繁」「未曽有」の漢字原稿を読み違え、
メリケン国の大統領(この方も同じくして辞めはりますが)は演説で日本最強の「戦艦ヤマモト」と言う。

どっちの男も、そういう間違いは別に大事でもなくて、気にもしてないらしい。
ほんでもって、これからはそういう間違いをしないように気をつけなきゃ、とも思っていないらしい。

そやからあかんねんやん


さて、今日は洗濯、山盛り4杯しました。
前にも書いたことがあったけど、旦那のワイシャツについては、今も夫婦間ネゴシエイトが続いています。
今週はいろいろてんこ盛りだったので、洗濯ができず、洗うワイシャツが8枚も溜まってしまいました。

ワイシャツ洗いについては、これはあくまでもわたし流の法則があって、そのために、洗う前のワイシャツのボタンというボタンを全部留めてから洗います。手首の所ももちろんです。
わたしはこの方法を日本の母から聞いたとばっかり思っていましたが、最近その話をしたところ、わたしはそんなこと言うた覚えないよ、と断言されてしまいました。
確かに、その方法は乾燥機を瞬間的に使うのですが、母はその頃乾燥機なんて持っていませんでしたから、わたしの勘違いなのかもしれません。
その方法とは、まず汚れて脱いだワイシャツのボタンをすべて留め直し、洗濯機で洗う。
軽く脱水をし、それを今度は乾燥機に入れ、1分か2分回す。
乾燥機から出して、縦に数回、横に数回よく振って、さらにシワを伸ばしてから干す。
こうすると、乾く頃にはシワが伸びて、アイロンかけをしなくても充分きれいに仕上がります。

で、この方法をしたいがために、旦那の脱いだワイシャツのボタンを上から一つずつ留めてから洗っています。
でもある日、こう思ったんです。
旦那が脱ぐ時、襟元のボタンだけ外してセーターみたいに脱いでくれたらええねんやんかって。
とてもいいアイディアだと思ったので、早速それを旦那にお願いしてみました。
そしたら彼は、「まあ覚えてたらするけど、多分無理」と、実に自信満々に答えたのでした。
それから早や数年が経ち、厭味ったらしくボタンを留めてるところを見せたりして訴えたりもしたけれど成果ゼロのまま

今日はそのワイシャツが8枚です、8枚!
身頃のボタンが計7個、両腕が2個(たまに4個)。それ×8ですよ!
かなりイライラしていた所に旦那が仕事から帰ってきました。

「なあ、これからボタン外して脱いだら、洗濯前にあんたがボタン留めなあかんってのはどう?」
またか、という気持ちを満面に浮かべ、旦那が洗濯場にやってきました。
「あのさ、言うとくけどさ、ボタン留めて洗いたいのはまうみだけ。僕は全然そんなこと頼んでないし」
「けど、あんただって、きれいに仕上がった方が嬉しいんちゃうん?」
「嬉しいけど、ボタンせんでもそれなりにきれいに仕上がるし、僕はそのきれい程度でも満足するねん」
要するに、わたしのやりたい事のために、新しい服の脱ぎ方を覚える努力をする気は無いってことなのね。

確かに、これはわたしの好みの問題なのかもしれません。なので、それをしたい者が、それをするための作業をするべきなのかもしれません。
しかもそれは、メチャクチャちっちゃいことで、そんなことでいちいち目くじら立てるのは大人気ないのかもしれません。

でも……ちっちゃいことやからこそ、日常のそこかしこにあることやからこそ、気をつけてくれたらメチャ嬉しかったり見直したりするんじゃないのかな。

そんなこと、どぉってことじゃないやんか
そんなこと言うて知らぬ間に男の値打ちを下げてたら、ちょっとそこの首相や大統領や旦那さん達
あとでえらい目に遭いまっせ~。

米国やきもちを焼く男ども事情

2008年11月14日 | 米国○○事情
「あと67日、だって」
はぁ?
朝、起きてきたわたしに旦那が開口一番言いました。
なんのこっちゃ?

どうやらオバマ氏が大統領に就任する日を、新聞各社がカウントダウンしているらしく、それを旦那が皮肉ったようです。

ちょっと異様な期待感。彼はほんとに大丈夫なんでしょうか。
過激な思想を持つ少数の連中がアホなことを企みはしないかと、身体的な危害を受けることを心配していましたが、
最近、過剰な期待を持つ大勢の連中が、なかなか叶えてもらえないからと怒り出すんではないかと心配になってきました。

選挙の前後に、彼の特集を流しまくったマスコミは、もうネタが切れたのか、古い映像を細切れに編集して再利用。
わたしとしては、観られなかった映像も多々あるので、キッチン仕事をしている時のお楽しみとして観ていたのですが、
ある日突然、旦那がテレビの所につかつかとやってきて、
「ああもぉ~オバマオバマオバマ!こんな古いニュース観てもしゃあないやん!」と言ってブチッと消してしまいました。

おいおい、もしかして君、オバマ氏にやきもち焼いてるん?

テレビを消した後、すたすたと部屋から出て行く旦那の後ろ姿を見ながら、今アメリカ中の家庭で、こんなふうに、おもしろくねぇ~と拗ねている男性がいっぱいいるのかもなあと思い、なんだか可笑しくなってしまいました





Kの未来

2008年11月14日 | 家族とわたし


旦那のオフィスがあるビルの1階に、長い長い工事の末に出来たギリシャ料理のレストランがあります。
ギリシャの前はヌードルセントラルという名前のレストランで、各国のヌードルが食べられるってんで1度行ったことがあります。
わたしはもちろん鍋焼きうどんを注文したのですが……なんと出てきたうどんには細切りのピーマンが……。
この時点でああ~おまえもか的心境になり、スープを啜ると的心境に発展。二度と行かんぞ~店第3号と相成りました。

今週はたまたま残りおかずの整理週間になり、同じような物を月曜から今日まで食べていたのと、
2人とも朝からバタバタしていて、食事のことがなにも出来なかったし、かなり疲れが溜まってきていたので、
久しぶりに息子Kも一緒に外食しようと思い、行こうよと誘ったら、僕は出かけるから無理、とのこと。
ふふん、それじゃ2人ってことで、ちょっとええもん食べよか。と、即企むわたし達
それでギリシャにして、2人で25ドルも頼んじゃって、旦那がレストランに取りに出かけると、
「あ、僕、テイクアウトやったら食える」とK。

まあ、アメリカンサイズなので、3人でも余りましたけど……。

で、最近しばらく様子のおかしかったKと、核心には触れられなかったけれど、なかなかいい話ができました。
彼、とにかく落ち込んでいて、ちゃんと食べていない感じもして、友人の家に夜中に行ったかと思ったら目の周りに青あざ作って帰ってきたり、眠れない様子だったり、外出したら家にまた戻ってくるまで心配でした。

Kは、セラピストになろうと思って大学に入ったのだけれど、最近セラピストに意味を感じなくなったのだそうです。
自分が悩んだ時、3人の教授セラピストに相談したところ、何の助けにもならないばかりか、とてもがっかりしたのだそうな。
自分はあんなのを目指していたんだろうかと心底イヤになり、いろいろと考えた結果、看護士はどうかなと思ったそうです。
他に、今のように家から離れずにいること。なりたいこと、頑張りたいことが分からないまま学校に行っていること、
そういう状態の自分がとても空しいし、それだったらいっそのこと、気持ちがきっちりするまで休学して働くのはどうか。
いやしかし、そういう思いで休学したまま、ズルズルと学校に戻れない友人が周りに結構たくさんいて、
そういう仲間に入ってしまう自分も嫌だし、恐くもある……などなど。

やりたい事に対する彼の集中力と根気の良さはなかなかのもの。それは自他ともに認められる確かなものです。

彼の話を聞き、旦那の話を聞き、わたしの話も聞き、3人3様の思いが台所を駆け巡りました。

こういう時、旦那はいつも同じ話をします。
彼はアイビーリーグの大学で歴史を専攻したけれど、やりたいことなんてなんにも思いつかないまま卒業し、ペンキ塗りをしばらくやっていました。
日本に来て、お金儲けのために英語を教えていたけれど、それは彼のやりたいことではありませんでした。
アメリカに戻り、会社で人事担当を少しして失業し、そこで初めて、10年の日本生活が自分のやりたい事のヒントになり、鍼灸師になるべく学校に通い始めたのでした。やりたい事が見つかるのに35年かかりました。
社会人になってからの13年、風来坊になりきれない、いや、実はなりたくなかった自分の苦しさと空しさ。
あれだけは味あわせたくない。旦那はしみじみそう言って話を締めくくります。
でもわたしは、そうだろうかと思います。
13年もうじうじし、悩み、こんなんじゃイヤだと思い続けた毎日があったからこそ、あの厳しい3年間の勉強ができたんだと思っています。
『経験はなにひとつとして無駄なものはない』
誰かがどこかでそう言っていました。わたしはとてもその言葉に共感しているからです。

「かあさんは、なんでピアノなん?なんでピアノだけなん?それってキャリアとしてはどうなん?」

「それはさ、」答を知っているつもりで話し始めました。
そしたら途中で、なにか分からないけれど、なんかちょっと違うんじゃないかと思えてきました。
少し時間をかけて、なにをKに伝えたいのか考えようと思います。
余分な話をせずに、Kがどうしてああいうことをわたしに聞いたのか、それをまずよく考えようと思います。

彼はまた、初めてこんなことを言いました。
「今になって、Tは僕の手本のような気がする。Tは僕の周りで1番ちゃんと出来てる人間やから」
Kが生まれた時、Tもまだ赤ん坊でした。けれどもKはその時から既に、Tを兄としてライバルとして、無意識に競争していました。
なので、Tのことをそんなふうに思うKを見るのはこれが初めてです。

Kの未来はK自身が悩み、探り、求めていくものです。
いろいろと大変な、難しい世界になっていて、わたしの二十歳の頃とはまた違う問題を抱えなければならないかもしれません。
でも、彼は若い。力もあります。長い目と短い目の、バランスのとれた考えがまとまるといいのですが……。

「今日はすごくいい話ができた

こういう晩は必ず、旦那はとても嬉しそうにこう言います。
Kもそう思っているかどうかは全く分からないけれど、少なくとも少しは心がスッとしたかなあ。そうだといいなあ