ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

『横浜における関東大震災時の朝鮮人虐殺フィールドワーク』レポート by 柏木幸雄さん

2018年11月10日 | 日本とわたし
もう1ヶ月も前のことになるんですが、横浜在住の友人幸雄さんが、とても大切な、これはどなたであれ知っていただきたいと思う内容のレポートを、フェイスブックに載せてくれました。
遅くなりましたが、ここで紹介させていただきます。

今だからこそ、読んで、知ってください!

関東大震災時の朝鮮人虐殺フィールドワーク、レポ

10月13日(土)初めて、「横浜における関東大震災時の朝鮮人虐殺フィールドワーク」に参加した。
 
主催は、「関東大震災時朝鮮人虐殺の事実を知り追悼する神奈川実行委員会」という長い名前の団体で、彼ら独自のサイトは無いようだが、活動の記録などは随所に揚げられている。
 
時折雨がポツポツと落ちるような曇天の下、京急線「神奈川駅」に集合した参加者は40名弱。
主催者から開催の挨拶があり、参加者は少しづつだが増えているとの事。
 
「関東大震災時の朝鮮人虐殺」に付いては、若い頃に、ザックリとした話を聞いた事が何度もあった。
例えば、友人と地震や歴史の話をした際に、或いはもっと昔…田舎の法事の酒席で。
その話はいつも、何かの拍子に姿を見せるものの、幽霊のように実体が無く、そんな事もあったらしい――で、終わっていた。
 
十数年前に、「在特会」関連で少し調べた際に、「関東大震災時の朝鮮人虐殺」が事実であったことを改めて認識し、当時も現在も、これを隠蔽しようとする動きがある事も知った。
 
旧友のフォト・ジャーナリストから誘われ、そういう経緯もあって参加した。 
 
フィールド・ワークは、幾つかの虐殺現場を辿りながら、担当委員からのレクチャーを受ける形で行われた。
 
使われたテキストは、彼らが歴史の隅々から丹念に調べ、多角的な視点から比較された資料や、当時の新聞記事、地図などから構成された力作だった。
 
内閣府の防災資料によると、犠牲者の記録に付いて、東京ではその詳細が記されているにも拘らず、神奈川では多方面からの資料よりも著しく少ない、一桁の数字が計上されているのみだ。
 
どうしてそんな数字の乖離が起きているか?
 
内閣府の資料では――

「この節では殺傷事件の概要を述べるが、当時の混乱の中では、同時代的にもこの種の事件のすべてを把握することはできず、
また、後に述べるような政府の対応方針もあって、公式の記録で全貌をたどることはできない。
現在までの歴史研究や掘り起こし運動は、この欠を補い、災害の教訓を継承する活動としても有意義である。
しかしながら、本事業の目的は、歴史的事実の究明ではなく、防災上の教訓の継承であるので」

 
との但し書きで逃げている

事実が究明されずに教訓もへったくれもあるまい、と思うが如何だろう?
 
果たして、この数字の乖離が、内閣府の言うように「当時の混乱」で把握できなかったせいなのか?
それとも、本当の数字と起こった事実を隠そうとする、何かの力が働いたのか?
 
その疑問に対する答を、現地を辿りながら探って、真実を模索する。
そして、多くの犠牲者への追悼を行うのが、今回のフィールド・ワークの主題である。
 
恥ずかしながら僕は不勉強のため、まだまだ全体像を捉えた上での話が出来ない。
 
その場で印象深かった事を、写真のキャプションで記しておく。
 
なお、以下は、今日探してみた関連、及び参照リンク。
 
・内閣府防災資料①
極端に少ない神奈川の事例=1頁めの表4-8。後にこれを含む―1923 関東大震災【第2編】―が削除され、問題となった: http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/19_chap4-2.pdf

・内閣府防災資料②
殺傷事件との記載はあるが軍・警察・日本人民衆による大量虐殺は記されていない。3頁めの項目6:
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/23_owarini.pdf

・内閣府防災資料③
当時の流言の推移。
驚くのは9月4日の15時の件「朝鮮人、警察署より解放されたならば、速やかにこれを捕らえて殺戮すべし」と、ある。
実際に全く同じ事件が横浜で起きてしまった。4頁めの表4-1:

http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/18_chap4-1.pdf

・日本政府、関東大震災当時の朝鮮人虐殺報告書をホームページから削除:
http://japan.hani.co.kr/arti/international/27116.html

・朝鮮人虐殺の記述に批判が集まり、報告書が削除されたと報じた朝日新聞。
 内閣府は否定し、産経新聞は「抗議も検討」と報じたが…:

https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/what-happend

・削除されたと騒がれた後、「リンク切れを修復」されて?復活した内閣府防災資料―1923 関東大震災【第2編】―:
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html

・震災直後の首都圏で何が起きたのか?――国家・メディア・民衆 山田昭次 / 日本史:
https://synodos.jp/society/14990/3

bonsai.go.jp
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/19_chap4-2.pdf?fbclid=IwAR2r20hvqyuG00eFbsG4EOYzmYafFeJc4dTd3E-CxFlF8wjB_VAEXZAybnM
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今回の説明資料。貴重な記事・資料・地図…16ページ立ての力作だ。


在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班の調査により、500余名の遺体が見つかった青木橋(旧神奈川鉄橋)の傍、京急「神奈川駅」より約300メートルの岩崎山虐殺跡(現 幸ヶ谷公園付近)。


岩崎山(現 幸ヶ谷公園)で、最初のレクチャー。
当時の「神奈川方面警備部隊法務部日誌」に、
「10月5日:憲兵隊長植木鎮夫と共に、横浜市青木町栗田谷岩崎山に到り、再び鮮人虐殺の跡を視察し、憲兵長と種々打合せを為したり」とある。
法務部が虐殺を認め、打ち合わせをしている。
何の打ち合わせか?
青木橋で見つかった遺体は、岩崎山での虐殺遺体ではないか?
※鮮人:朝鮮人への蔑称を意味する。

公園には勿論、虐殺跡などの表記は無い。


3名の虐殺が行われた神奈川警察署。
他にも「多くの鮮人が後ろ手を縛られ立たされているのを見た」と言う目撃談がある。


多くの朝鮮人が住み、40名が犠牲になった御殿町付近。
外車のディーラーやマンションが建ち並ぶ。


高札場。


東神奈川公園では、当時の地域にあった自警団に付いて聞いた。


同じく当時発された戒厳令に付いての学び。

星野橋から旧東電発電所跡(現東神奈川ゴルフジョイ)を見る。


旧東電発電所跡(現東神奈川ゴルフジョイ)、此処では3名が犠牲になった。


土台はかなり古そうに見えるゴルフ練習場、クラブを振る彼らには知る由も無いのだろうか。


関東大震災が起こる2か月前に竣工された「龍宮橋」。




橋の西側には「みなとみらい」が見える。


「龍宮橋」を渡った右には、貨物線の「東高島駅」。


左側には「ゴルフ練習場」へ向かう閉鎖された線路。


東高島からレールは横浜の東口側へ。
逆側には例の治外法権「ノース・ドック」への支線がある。
横浜の翳を感じる地域。


サン・シティの案内板。この辺りが浅野造船所の入り口。


今は昔…浅野造船所の敷地。


当時の虐殺記事。
関内では、警察の取り調べで問題なしと釈放された朝鮮人が、市民に殺された。


近隣の高台より、鮮人の飯場があったドックを眺める。
此処の埋め立て工事に従事していた彼らのうち、48名が虐殺された。


手前は船着き場として、向こうは造船用の水門付き。


暗い隔たりの向こうに「みなとみらい」が見える。


船着き場の左側には、フット・サル。此処もかつてはドックだった。


多くの遺体が子安海岸に漂着と言う記事。


「龍宮橋」で運河に向かい黙祷。


献花の後、「アリラン」を斉唱した。
合掌…。


まとめ。
軍、警察、民衆に拠って流言拡大・虐殺が行われ、国は朝鮮独立と国際情勢を鑑み、それを隠蔽しようとしたことは否めない。

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