先週の日曜日、午後4時半に来客があった。
長年の友人の尾崎だった。尾崎が一家を引き連れて殴り込みをかけて来たのだ。
先月は、私が一人で尾崎一家に殴り込みをかけ、料理を作って、尾崎の誕生日を祝った。
今回は、尾崎一家が、私のために「殴り込みバースデー」をしてくれるようだ。
尾崎のときは、魚料理をメインに作った。2年くらい前の尾崎は肉ばかり食って、魚と野菜はこの世に存在しないかのような毎日を送っていた。
しかし、最近は「魚のうまさに目覚めたんだよ」と方向が179度変わった。
近頃の尾崎一家はアウトドアがお気に入りで、一月に最低一回はキャンプに行く。そこで釣り上げた魚を食ったことによって、尾崎は「魚ファースト」の男になった。
だから、尾崎の誕生日には、魚料理を作った。
伊勢海老のグラタン。伊勢海老の魚介スープ。鮭づくしのオードブル。ハマグリの酒蒸。パエリア。
魚オールスターズや〜〜ー。
みなサンマ、お世辞丸出しで、「おいしイワナ」と喜んでくれた。
4時27分に、尾崎一家がやってきた。
尾崎と我が一家は面識があった。5回は会っていると思う。だが、尾崎の妻の恵実と3人のガキとは、私以外は初対面だ。
3人のガキは、恵実の教育がいいのか、口々に「お邪魔します」と頭を下げ、靴も揃えて入場してきた。百点満点のガキどもだ。
尾崎は、家に上がるなり、「母さんに挨拶したいんだ」と私を見上げた。
私は、仏壇の置いてあるヨメの部屋に、尾崎一家を案内した。
この仏壇について、ひとこと意見を申し述べるのをお許しいただきたい。
以前、ヨメの部屋の仏壇は、とても質素でこじんまりしたものだった。
しかし、母が死んで1週間経ったころ、ヨメの部屋の仏壇が、突然膨張したのだ。得意先との打ち合わせから帰ってきたとき、ヨメが「ねえねえ見て」と私をヨメの部屋に引っ張り込んだのである。
いやいや、我々はそんな関係ではございませぬ。何を考えておられるのですか、と言おうとしたとき、荘厳な装いの木の塊が目に入った。
どこから見ても、それは、ぶっつだ〜〜ん! だった。
今のマツコデラックス氏は無理かもしれないが、マツコ氏がRIZAPで3ヶ月間結果にコミットしたら格納できるくらいのビッグでゴージャスな入れ物だった。
私は思った。これ、安くはないよな。でも、イクラ? なんて聞けないぞ。高いに決まってマス。
私は思った。仏壇のハセガワに行って、同じサイズの仏壇の値段を調べるのは、イカがかと。いや、インターネットで調べた方が早イカ・・・などと考えてみたが、みっともないので、やめタラコ。
世の中には、知らない方がいいことが沢山ある。今回の仏壇の値段は、知らない方がいい部類に入ると私は判断シタビラメ。
その圧倒されるほど厳かな仏壇の前で、尾崎一家がお行儀よく正座をして、頭を下げ、手を合わせた。
私は目に見えるもの以外は信じないという罰当たりものなので、仏壇の前で手を合わせたことはない。
忘れないこと、絶えず思い出すことが供養だと思っているからだ。
しかし、尾崎はともかく、尾崎の妻や子どもたちが手を合わせている姿を見て、何も感じないほど私は鈍感な人間ではない。
鼻の奥がツンとしてきて、目から水っぽいものが流れてきた。
そんなとき、尾崎が祈りを終えて、私の方を振り返り見た。尾崎の目も潤んでいるように見えた。
立ち上がって私のそばに来た尾崎の左肩を私は右手で叩いた。尾崎も私の肩を叩いた。二人うなずいた。
「母さんは、安らかなようだな」
尾崎のその声の後ろで、恵実とヨメ、息子、娘のすすり泣きが聞こえた。
おやおや、誕生日って、こんなに湿っぽいものでしたっけ。
まるで、俺が黄泉の世界に向かったみたいじゃないか。
そんな空気を一変させるように、尾崎のガキども、ハヤテ、アスカ、カゲトラ(全部私が名前をつけた。センスのない名前にも尾崎は文句を言うことをせず、そのまま使った)が、「腹減ったなー」と叫んだ。
それを合図に、恵実が、クーラーボックスに入れて持ってきたご馳走を我が家の直径1メートル20センチの円卓に並べ始めた。
昔話になるが、18年前、尾崎と同棲し始めた頃の恵実は、料理がまったくできない女だった。
親からも誰からも料理を教えてもらったことがなかったという。自分からも積極的に料理をしたいとも思わなかったようだ。
尾崎と同棲し始めたのは、恵実28歳のときだった。朝は永谷園のお茶漬け。昼は出前。夜は中野のレストランで外食。それが尾崎と恵実が一緒に暮らし始めた一年目のルーティンだった。
尾崎も食い物にこだわる方ではなかったので、文句は言わなかった。
だが、私が文句を言った(モンクの叫び)。
同棲2年目の雪の降る八月の真夏日に、私は尾崎のマンションを訪問して、恵実と初めて会った。
そのときの恵実は、目力が際立った気の強そうな女に見えた。黒くて長い髪、姿勢のいいキリッとした佇まいは、周りを圧倒する鋭さがあった。
私がたじろいでいると、恵実は「私、料理は不得意ですけど、今日は尾崎の親友のために、おもてなしをします」と妖艶に笑った。
そして、「カレーお好きですか? 初めて作るので覚悟してください」と言って、キッチンの方に体を翻した。
そのカレーは、凄まじいものだった。覚悟がぶっ飛んだ。
恵実は肉、タマネギ、ニンジン、ジャガイモを炒めることをせずに、沸騰した鍋に投げ入れたのだ。カレールーも一緒にぶち込んだ。
煮込んだら灰汁が必ず出る。しかし、恵実は灰汁を取ろうともせず煮込みっぱなしなのだ。味見もしない。
そして、味見をしていないカレーが、尾崎と私の前に出された。要するに、我々二人が毒味役ということだ。
一口食って、私たちは死んだ。
「マズい」という言葉さえ控えめに思えるほど、それは確実に「毒」だった。煮込んだわりには、肉も野菜も異常に硬くて、噛むのが容易ではなかった。
さらに、味が殺人的にひどかった。カレーというのは、誰が作ってもそれなりの味になるものだ。つまり、平均点を取りやすい料理だ。
しかし、恵実の作ったものは一口目はカレーの味がしたが、二口目からは生臭さしか感じなかった。口の中に生臭さが充満し、鼻にもその生臭さが侵入してきて、喉が飲み込むことを拒否するくらいのゴミ料理だった。
悪いけど、これは、おもてなしではないですね。おもてではなく裏。裏切りの料理ですよ。
俺が作り直します。俺の手順をよく見て覚えてください。
私がきついことを言っても恵実はふてくされることなく、台所の引き出しからメモ用紙を出し、私の目を真っ直ぐ見ながらうなづいた。
その姿を見て、気の強さが、いい方向に作用している人だな、と思った。気は強いが、我は強くない。
それからのち私は、一月に一度の頻度で尾崎の家を訪れ、恵実に料理を伝授した。
まずは、様々なソースを教えた。たとえばホワイトソース。グラタン、クリームシチュー、チーズフォンデュ、クリームコロッケ、パイ生地を使ったつぼ焼き、ドリア、ラザニアなどに応用できる。
デミグラスソース。ハンバーグ、ビーフシチュー、オムライス、ハヤシライス、パスタなどに応用できる。
昆布ダシ、かつおダシ、煮干ダシ、あごダシ。味噌汁、煮物、うどん、ソバ、おでん、カレーなどに応用できる。
鶏ガラと長ネギを煮込んでとった中華スープ。ラーメン、チャーハン、麻婆豆腐、ニラ玉あんかけなどに使える。
さらに、食材を焼く、煮る、炒めるなどの基本。千切り、みじん切り、短冊切り、いちょう切りなどの切る基本。電子レンジを使っての時短の仕込み。調味料を使う順番。肉を柔らかくするための下準備。揚げ物の衣をサクッと揚げる方法。
これらを応用すれば、料理のバリエーションが何十倍にも増える。料理は応用化学だ。その楽しさを知れば、料理が必ず好きになる。
尾崎の妻の恵実は、応用が利く人だったようだ。私が教えたのは5ヶ月、5回だけだったが、瞬く間に料理の腕が上達した。
5ヶ月前までは生臭いカレーしか作れなかった人が、プロに負けないくらいのスパイスが程よく効いた春野菜のスープカレーを作ったのだ。
「まるで別人じゃないか」と尾崎が驚いた。
今回作ってくれたのは、イカめし9人前。タコのマリネ。油ものが好きな私のために、カキフライ、野菜の天ぷら、アジフライ、メンチカツ、唐揚げだ。
恵実の作るイカめしは絶品だ。私もイカめしを作るが、完成度は恵実のものには敵わない。おそらく名物のイカめしといい勝負なのではないだろうか。
このイカめしは、今回唯一私がリクエストしたものだった。私は、これを5人前は食える自信がある。
イカ好きの娘は、食って感激し、恵実に早速レシピを聞いていた。
イカめしに食らいついているとき、尾崎のガキどもが突然立ち上がって、ハッピバースデーの歌を歌い出した。しかも3度3度でハモってるではないか。恐るべし、9歳、6歳、4歳のガキども。
歌い終わって、ガキどもがラッピングされた紙袋をくれた。
「サトル、おめでとう」パチパチパチ。
尾崎のガキどもは、自分の親を「リュウイチ」「メグミ」と呼んだ。そして、親しみを感じた人をファーストネームで呼んだ。つまり、私に親しみを感じているようなのだ。照れますな。
紙袋を開けてみた。ザバスのプロテインが入っていた。ココア味だ。バースデーカードも入っていた。
「これのんでふとれ。やせすぎなんだよ」
おそらくカゲトラが書いたと思われる。字がニョロニョロしていた。
ありがとう、と頭を下げた。
しかし、そのプレゼントを見て、頭を抱えた二人がいた。
私の息子と娘だ。
「かぶった〜〜!」
「かぶっちまったよ〜」と泣き真似をした娘が、綺麗にラッピングした袋を私に放り投げた。
開けてみたら、ザバスのプロテインが入っていた。ヨーグルト味だ。バースデーカードも。
「緊急指令 太るんじゃ!」
そんなに俺って、痩せてる?
全員が、高速でうなずいた。
しかし、プロテインだけで太りますかね。
「人並みに食えば太るんだよ」と尾崎(おまえも痩せてるけどな)。
そして、大皿に盛った天ぷらを私の前に押し出した。
「これは、おまえのものだ。全部食え。そのあと、俺たちの目の前でザバスを2杯飲め。今日はお前の『太ります記念日』だ。これだけの人が、おまえを心配してるんだ。怠けるんじゃねえぞ」
誕生日に、太れ、と命令される。
思いもよらないことザバス。