15年前に体験した少し不思議な出来事を。
15年前の初夏、横浜の得意先に行くために、渋谷から東横線に乗ったときのことだ。
朝は地獄のような混み具合の東横線も、昼間はすいている。
始発なら、急行でも悠々と座れる。
私が座ろうとした、桜木町行きの急行1両目も、思った通りすいていた。
そして、2両目寄りの座席に座って、文庫本を読み始めたとき、私の隣に人が座った。
気配から察すると、年配の男の人だ。70歳過ぎだろう。
電車に乗っているとき、隣に老人が座るのは、日常では当たり前のことだ。
だから、そのときの私は、ほとんど気にも留めなかった。
電車は定刻に走り始め、私は文庫本を読み進んでいた。
そして「代官山駅」を通過する寸前、隣から老人の声が聞こえた。
「久しぶりですよ、東横線に乗るのは」
まさか、私に向かって話しかけたとは思わず、私はそのまま文庫本を読み続けた。
「一番最初の結婚の時、菊名に住んでいましたからねえ。横浜で教師をやっていたんですよ」
その話し声に、誰も答えを返さないのを不思議に思って、私は隣を何となく見てみた。
70年配の丸顔の老人が私の顔を見て、微笑んでいた。
顔のシワは深いが、血色が良くて、健康そのものに見えた。
私の方を見ているということは、私に話しかけたということか。
しかし、本を読んでいる人に向かって話しかけるというのは、あまり常識的な態度とは言えない。
知り合いならわかるが、初めて見かける顔だ。
そもそも、東横線に乗るのは、年に数回しかない。
しかも、老人の知り合いは一人もいない。
私は少し身構えた。
「今の家内は3番目。つまりバツ2ですな。結婚するたびに相手は若くなる。今の家内は、23歳年下ですよ」
赤みがかった元気な顔は、奥さんが若いからか。
そう納得したが、なぜ私に話しかけたのか? その疑問は解けない。
老人特有の、「話したがり症候群(?)」か。
「息子の嫁が私につらくあたるんですよ…ウウウ(泣)」という、あれか。
しかし、この血色のいい顔には、そんな湿っぽさは微塵もない。
人生を楽しんでいる顔だ。
彼は構わず話し続ける。
「僕の連れ合いになった人は、三人とも島根県出身でしてね。いやあ、島根の女性は日本一ですな」
ここで、なぜか私の心臓は、ドクンと一拍早くなった。
何かの予感がした。
それが何かは、そのときはわからなかった。
「島根県は地味な県ですから、県庁所在地を知らない人がほとんどじゃないでしょうか。僕は県庁所在地の松江というところの出です。失礼ですが、あなたはどちらのご出身?」
「私は東京ですが」と言って、私は次のことばを言うのを少しためらった。
今度は、心臓の鼓動が心持ち早くなった。
老人はそんな私の顔を見つめながら、次の私の言葉を待っていた。
このとき、なぜか私はほとんど確信に近いかたちで、この先の成り行きを想像することができた。
老人の目の奥に、祖母の顔が見えたような気がしたからだ。
私は老人の目を見通すように、話を続けた。
「私の母と祖母は、島根県出雲の出身です」
そして、まるで重大な秘密を打ち明けるように、こう言った。
「私の祖母は、松江で師範学校の教師をしていました」
「ああ」
ここまで来ると、老人も話の筋が読めたのかもしれない。
納得するように、大きくうなずきながら、今までと違った少々かすれた声で、私に問いかけた。
「お祖母様は、M先生ですね」
「そうです」
それから、老人が「日吉駅」で降りるまで、私たちはこの不思議な出会いについて語り合った。
「僕は普段、見ず知らずの人に話しかけることはないんですよ。
むかし教師をしていましたから、人と話をするのは好きなんだけど、見ず知らずの人に話しかけるほど図々しくはない。若い人に嫌われたくないですからな。
しかし、今日はまるで導かれるように、あなたに話しかけてしまった。
不思議です。M先生が導いたとしか思えない」
聞いてみると、ご老人も、この東横線に乗ることは年に数回しかないという。
そんな二人が、同じ日同じ時刻に、隣り合わせで座る確率というのは、どの程度なのだろう。
しかも、ただ隣り合わせになっただけでなく、初対面で自分のことを話す確率というのは、どれくらいなのだろう。
それは、確率という味気なく薄っぺらな統計学の範疇を越えて、違う領域の出来事だったような気がする。
15年たった今も、そのご老人はご顕在で、私たちは年賀状と暑中見舞いだけのお付き合いを続けている。
そして、ご老人は、最初の暑中見舞いでこんなことを書いてきた。
「あなたのお祖母様は、公平な方でした。
今で言う『落ちこぼれ』の私を、呆れることなく、見捨てることもなく、他の生徒たちと同じように扱ってくれました。
自分でも気付かなかった僕の長所を、M先生は教えてくれた。
これが本当の教師というものです。
僕も教師をしていたから、よくわかりますが、簡単なようで、これが一番できないことなのです」
不思議な体験だった。
私が老人の話に付き合っていなかったら、私たちは永遠に交わることのない関係だった。
そんな押しつけがましい老人のことなど、電車を降りた途端に忘れていたことだろう。
誰かが書いたシナリオをなぞるように、老人と私は出会って、不思議な時間を過ごした。
それは、「偶然」と呼ぶには、お互いを導く糸が太すぎて、時空を超えた運命のようなものを感じた時間だった。
これを「奇跡」と呼んでいいか悩むところだが、そこに「祖母の力」が働いたのは間違いないのではないか、と今も私は思っているのである。
15年前の初夏、横浜の得意先に行くために、渋谷から東横線に乗ったときのことだ。
朝は地獄のような混み具合の東横線も、昼間はすいている。
始発なら、急行でも悠々と座れる。
私が座ろうとした、桜木町行きの急行1両目も、思った通りすいていた。
そして、2両目寄りの座席に座って、文庫本を読み始めたとき、私の隣に人が座った。
気配から察すると、年配の男の人だ。70歳過ぎだろう。
電車に乗っているとき、隣に老人が座るのは、日常では当たり前のことだ。
だから、そのときの私は、ほとんど気にも留めなかった。
電車は定刻に走り始め、私は文庫本を読み進んでいた。
そして「代官山駅」を通過する寸前、隣から老人の声が聞こえた。
「久しぶりですよ、東横線に乗るのは」
まさか、私に向かって話しかけたとは思わず、私はそのまま文庫本を読み続けた。
「一番最初の結婚の時、菊名に住んでいましたからねえ。横浜で教師をやっていたんですよ」
その話し声に、誰も答えを返さないのを不思議に思って、私は隣を何となく見てみた。
70年配の丸顔の老人が私の顔を見て、微笑んでいた。
顔のシワは深いが、血色が良くて、健康そのものに見えた。
私の方を見ているということは、私に話しかけたということか。
しかし、本を読んでいる人に向かって話しかけるというのは、あまり常識的な態度とは言えない。
知り合いならわかるが、初めて見かける顔だ。
そもそも、東横線に乗るのは、年に数回しかない。
しかも、老人の知り合いは一人もいない。
私は少し身構えた。
「今の家内は3番目。つまりバツ2ですな。結婚するたびに相手は若くなる。今の家内は、23歳年下ですよ」
赤みがかった元気な顔は、奥さんが若いからか。
そう納得したが、なぜ私に話しかけたのか? その疑問は解けない。
老人特有の、「話したがり症候群(?)」か。
「息子の嫁が私につらくあたるんですよ…ウウウ(泣)」という、あれか。
しかし、この血色のいい顔には、そんな湿っぽさは微塵もない。
人生を楽しんでいる顔だ。
彼は構わず話し続ける。
「僕の連れ合いになった人は、三人とも島根県出身でしてね。いやあ、島根の女性は日本一ですな」
ここで、なぜか私の心臓は、ドクンと一拍早くなった。
何かの予感がした。
それが何かは、そのときはわからなかった。
「島根県は地味な県ですから、県庁所在地を知らない人がほとんどじゃないでしょうか。僕は県庁所在地の松江というところの出です。失礼ですが、あなたはどちらのご出身?」
「私は東京ですが」と言って、私は次のことばを言うのを少しためらった。
今度は、心臓の鼓動が心持ち早くなった。
老人はそんな私の顔を見つめながら、次の私の言葉を待っていた。
このとき、なぜか私はほとんど確信に近いかたちで、この先の成り行きを想像することができた。
老人の目の奥に、祖母の顔が見えたような気がしたからだ。
私は老人の目を見通すように、話を続けた。
「私の母と祖母は、島根県出雲の出身です」
そして、まるで重大な秘密を打ち明けるように、こう言った。
「私の祖母は、松江で師範学校の教師をしていました」
「ああ」
ここまで来ると、老人も話の筋が読めたのかもしれない。
納得するように、大きくうなずきながら、今までと違った少々かすれた声で、私に問いかけた。
「お祖母様は、M先生ですね」
「そうです」
それから、老人が「日吉駅」で降りるまで、私たちはこの不思議な出会いについて語り合った。
「僕は普段、見ず知らずの人に話しかけることはないんですよ。
むかし教師をしていましたから、人と話をするのは好きなんだけど、見ず知らずの人に話しかけるほど図々しくはない。若い人に嫌われたくないですからな。
しかし、今日はまるで導かれるように、あなたに話しかけてしまった。
不思議です。M先生が導いたとしか思えない」
聞いてみると、ご老人も、この東横線に乗ることは年に数回しかないという。
そんな二人が、同じ日同じ時刻に、隣り合わせで座る確率というのは、どの程度なのだろう。
しかも、ただ隣り合わせになっただけでなく、初対面で自分のことを話す確率というのは、どれくらいなのだろう。
それは、確率という味気なく薄っぺらな統計学の範疇を越えて、違う領域の出来事だったような気がする。
15年たった今も、そのご老人はご顕在で、私たちは年賀状と暑中見舞いだけのお付き合いを続けている。
そして、ご老人は、最初の暑中見舞いでこんなことを書いてきた。
「あなたのお祖母様は、公平な方でした。
今で言う『落ちこぼれ』の私を、呆れることなく、見捨てることもなく、他の生徒たちと同じように扱ってくれました。
自分でも気付かなかった僕の長所を、M先生は教えてくれた。
これが本当の教師というものです。
僕も教師をしていたから、よくわかりますが、簡単なようで、これが一番できないことなのです」
不思議な体験だった。
私が老人の話に付き合っていなかったら、私たちは永遠に交わることのない関係だった。
そんな押しつけがましい老人のことなど、電車を降りた途端に忘れていたことだろう。
誰かが書いたシナリオをなぞるように、老人と私は出会って、不思議な時間を過ごした。
それは、「偶然」と呼ぶには、お互いを導く糸が太すぎて、時空を超えた運命のようなものを感じた時間だった。
これを「奇跡」と呼んでいいか悩むところだが、そこに「祖母の力」が働いたのは間違いないのではないか、と今も私は思っているのである。
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