リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

折り合いの悪い二人

2015-11-29 08:48:00 | オヤジの日記
東京に帰ってきて、もう5年半になる。

東京に帰ることになったきっかけは、傍から見ればバカバカしいものだった。

その前は、さいたま市のメガ団地に15年間住んでいた。

いま25歳の息子は東京生まれだが、幼稚園から大学1年までをさいたま市で過ごした。
いま大学2年の娘は、埼玉で生まれて埼玉で育った。

なぜ東京から埼玉に越したかというと、私に甲斐性がないので、東京の住環境を維持できなくなったからだ。
子どもが生まれて、3DKの住環境を求めたとき、現実的に見ると私の稼ぎでは東京に住むのは無理だったのである。

しかし、子どもたちは父親の不甲斐なさとは関係なく、さいたまのメガ団地でのびのびと育った。
それは、親として嬉しいことだった。

さいたまで暮らした14年間は、家族それぞれに友だちができて、貧しいながらも楽しい時間を過ごせたと思う。
ただ、最後の15年目は、私にとっては最悪の年だった。
それがなければ、私たちは、まださいたまの団地に住んでいたはずだ。

その年、我が家に、一人のご老人が来た。
ご老人は、ご主人をなくしてから一人暮らしを一年ほど続けていた。

80歳のご老人に、東京三鷹で一人暮らしをさせるのは虐待である。
そう思ったご老人の長男次男は、ご老人を私の家に預けた。

「だって、俺たちには、世話のかかる子どもがいるし遠いしね」

私にも育ち盛りの子どもがいたが、その言葉は無視された。

微かに認知症が進んだご老人。
多くのご老人は、人生のファイナルステージを悟って穏やかに暮らすものだと私は安易に考えていた。

しかし、そのご老人は、心に頑強な鋼鉄の鎧を着ているような人だった。

まず、私の仕事を理解しなかった。
パソコンでデザインをするという私の仕事を全く受け入れることができない人だった。
そんな仕事があることが想像できない人だった。

「働きもしないで、一日中パソコンでゲームをしている」
「嫁さんに働かせて、平気な顔で生きている」
「働くというのはスーツを着て毎日同じ時間に家を出て夜帰ってくるものでしょ。家にばかりいて何が仕事よ」
「子どもたちが可哀想だ」

ご老人は、若いときから、ある宗教を信心していた。
そして、その宗教で繋がった団地のご老人たちに、私のことをそのように吹聴したのである。

宗教で繋がった人たちの結束は、私の想像を超えて強固だった。
私が団地を歩いていると、ご老人の知り合いのご老人たちに、「あんた、嫁さんを働かせて、ゲームばかりしてるんだって。罰当たりな男だねえ」と何度となく説教された。

呆れることに、得意先に行くために自転車で団地内を抜けていこうとすると、週に数回呼び止められて、そうやって説教されることがあった。

私のヨメは、確かに働いていた。
週に4回、朝の6時から午前11時半まで、花屋さんで働いていたのである。

生々しいことを書くようだが、ヨメがパートで稼ぐ金では、公団の家賃さえも払えない。
(ついでに言うと、ヨメがパートで稼ぐ金は、ヨメの老後の蓄えだから生活費には加えていない)
しかし、ご老人は、月に90時間のパートタイムで、ヨメが一家四人を養っているというメルヘンを信じきっているのだ。

宗教を信じるだけならまだしも、メルヘンまでも信じて疑わず、それを周りに触れ歩くという現実に直面したとき、私は無力だった。

窮地に陥った私は、ヨメに、あのお方にわかるように説明してくれないか、と頼んだ。
しかし、ヨメはこう言うのだ。
「あの人は思い込みが激しいから、一度思ったことを覆すのは〇〇先生(ご想像にお任せします)じゃないと無理だわ。いいじゃないの、思わせとけば」

実は、ヨメも幼い頃から、その宗教を信心していたから、私よりもご老人の方にシンパシーを感じていたのかもしれない(実の親だから当たり前か)。

だから、私がノイローゼ寸前だということに気づかなかった。

家族の中で、唯一私の異変に気づいたのは、当時中学2年の娘だった。

娘は、家族の前で、こう言ったのだ。
「おばあちゃんに、三鷹に帰ってもらおうよ。一人暮らしが危ないって言うなら、アタシたちがおばあちゃんちのそばに引っ越して、面倒見ればいいじゃない」

しかし、ヨメと息子は、当たり前のように反対した。
「ここには大勢友だちがいるし、あなただって学校を変わるのは嫌でしょ」
要するに、一刀両断に却下された。

あとで娘と二人きりになったとき、無理をするなよ。でも、ありがとうな、と礼を言った。

私のその言葉に対して、娘は毅然としてこう言ったのだ。
「アタシは諦めないよ。いい考えがあるから」

それから数日して、私は娘の「いい考え」の中身を知って、大いに驚くことになった。

娘は、まず吹奏楽部の友だちに「アタシ、東京に引っ越すから」と言い回ったらしいのだ。
次は、同級生たち。
そして、吹奏楽部の顧問、担任にも「引っ越します」と宣言した。

伝え聞いたヨメは怒って、懸命に火消しに回ったが、残念ながら、ヨメの知り合いよりも、はるかに娘の友だちの数の方が多かったから、火消しは間に合わなかった。

つまり、娘は既成事実を積み重ねるという思い切った手を使ったのである。
そして、自分で転校先の情報を仕入れ、私とふたりで東京三鷹に出向き対策を練った。

ただ、ひとつの大きな問題点は、東京三鷹近辺のアパートの家賃が想像以上に高かったということだ。
覚悟はしていたが、さいたまの公団と同じ家賃では、せいぜい1DKを借りるのがやっとだった。

厳しい現実に直面して絶望的になった二人だったが、ここで幸運にも救世主が現れた。
私の得意先の人で、東京で美容院2軒と理容室1軒を経営するオーナーが、東京武蔵野にアパートを所有していたのである。

ただ、そのアパートは築30年近く経っているから、近いうちに取り壊すことになるかもしれない、とも言われた。
それは時期が決まっているのですか、と聞くと「いや、今すぐではないけどね」とオーナーに言われたので、取り壊すまでの間、住まわせてもらうわけにはいきませんか、と非常識なお願いをした。

私が頭を下げたことよりも、中学2年の娘の必死のお辞儀が効いたのかもしれない。
オーナーは、「まあ、知らない人でもないことだし」と承諾してくれたのである。

そればかりか、101号室と201号室の2DK・上下2世帯を格安で貸していただけるというのだ。
いささか強引ではあったが、契約をすぐに済ませ、既成事実を積み上げた上で、東京に引っ越すことをヨメと息子に納得させた。

引っ越した当初は、アパートがボロいなどと文句を言っていたふたりだが、もともとヨメと私は東京生まれ東京育ちだ(ヨメは中野、私は目黒)。
東京なら、どこでも馴染める自信があった。
それに、人気の吉祥寺が近いということも、いい方に作用して、ヨメの文句はいつの間にか消えた。

娘は、当初予定していた三鷹の中学ではなく、武蔵野の中学に転校することになったが、すぐに友だちが出来て、その友だちの何人かとは高校も同じところに通うほど仲良くなった。

そして、ノイローゼ寸前だった私の日常も平穏なものになった。

ご老人が暮らす三鷹のマンションでは、相変わらずご老人が私の悪口を言ってるようだった。
だが、さいたまのご老人たちには悪いが、三鷹のマンションの住人たちは情報量や情報の理解能力が違うせいか、誰もご老人の私に対する悪口に同調する人はいなかった。
つまり、トラブルの元がなくなったということだ。

私たちは、春夏秋と穏やかな日々を過ごした。

だが、年が明けた1月半ばを過ぎた日の夜11時過ぎ、ヨメの携帯に電話があった。
「あなたのお母さんの部屋が燃えているわよ」

駆けつけると救急車がマンションの周りを囲み、ご老人の部屋から煙が出ているのが見えた。
そして、ヨメは、マンションの知り合いに、「もうお母さんは救急車に乗せられているから、早く行きなさい」と急き立てられて、救急車に乗った。

意識不明の重体。
体に炎はかからなかったが、煙を吸ったことで喉が焼けて呼吸困難になっているらしい。

すぐに、ご老人の長男と次男を呼んだ。
だが、そこで私は信じられないものを見るのだ。

担当の医師から、助からないかもしれないと言われた長男次男は、付き添うことをせず、「明日仕事があるから」と帰ってしまったのである。

結局、ヨメと私が交代で夜通し付き添った。
そして、ヨメも、「どうしてもパートを休めないから」と言って、こちらに引っ越してきてから見つけた花屋のパートに、翌日朝5時半を過ぎた頃、出かけていった。

私は一旦家に帰って、子どもたちの朝メシを作り、息子の弁当を作った。
そして、作っている最中に病院から電話があり、「もう一時間もたないかもしません」と言われたので、武蔵野日赤にすぐ駆けつけた。

ご老人は、よほど私のことが嫌いだったのだと思う。
私が病室に着いて5分足らずで、命の炎を消した。

耳元で「逝くな」と叫んでみたが、ご老人が私の言うことなど聞くはずがない。
炎は私をあざ笑うように消えた。


初めて握った手が、とても温かかったことは、いまも鮮明に覚えている。


ご老人と一番折り合いが悪かった私が最期を看取るという陳腐すぎるストーリー。
笑い話にさえもならない。

私は罰当たりにも、ご遺体に直面しながら涙をまったく流さずに立ち尽くすだけだった。


だが、最期を看取った私だからこそ、何かを言う権利はあると思うのだ。


ひとり安置所で葬儀社の人を待つ間、小さな声でご老人に話しかけた。



ごめんなさい

そして おやすみなさい

お義母さん



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