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チェルノブイリ原発事故の教訓

2011-04-13 | ラジオ
今から25年前にチェルノブイリ原発(女性アナウンサーは原発を「げんばつ」と言う)事故が起きた。この技術災害はIAEAの定める国際原子力事象評価尺度で最悪の7レベルを記録するものだ。
チェルノブイリ原発4号基が爆発音を轟かせたのは、1986年4月26日の早朝のことだった。

原子爆弾が投下された後に上がる、原爆キノコに似た強烈な色の炎の柱が立ち上がり、原発の作業員らの住む近郊の街プリピャチを鮮やかに照らした。この爆発で原子炉から燃料棒が空中へと飛び出し、防御壁が吹き飛んでいる。吹いていた風は遠く離れた街まで放射能に汚染された雲を運んだ。
ところが当日の朝、事故の被害の規模に付いて知っていたのは、ほんの一握りの人たちだけだった。
プリピャチの住人に対しては、放射能漏れの情報はまったく伝えられておらず、緊急避難が開始されたのは、二晩を過ぎてからだった。
ペットたちを連れ出すことも禁じられ、3日目には家に戻ることを約束されて避難が行われたものの、その後自宅に、プリピャチに戻った者は皆無だった。
原発から30キロメートル圏内からは、11万5千人が避難させられた。事故による放射能汚染で最も大きな被害を被ったのはウクライナ北部、ベラルーシ南部、そしてロシアの西部だ。

その一方で原発では自らを省みない英雄的な人たちによる、事故の処理作業が続けられていた。事故処理に加わった人たちは旧ソ連の共和国全体で20万人に及んだ。その多くが放射線や悪性腫瘍のために亡くなった。
平和的な原子力というイメージは全く損なわれた。世界中で新たな原発の建設の反対を叫ぶ声が上げられ、パニックに似た情況を呈した。
チェルノブイリ(ここの箇所を女性アナウンサーは「チェルノブイリット」と言う)は原子力災害のシンボルとなったのだ。
このことから日本の福島第1原発の事故が、チェルノブイリと比較されるのも偶然のことではない。 

チェルノブイリ原発から30キロメートル圏内の土壌からは、半減期が長い放射線セシウム137、ストロンチウム90、プルトニウムが未だに検出されており、汚染濃度は依然として高いままだ。
放射線の線量を測定する機械は常にガンマー線を検出している。ところがこうした危険にも関わらず、現地には未だに600人の住民が暮らし続けている。
そのほとんどは高齢者で農作物を栽培し家畜を飼育している。放射能の危険に付いては、彼らたちは信じようとしない。危険を冒して30キロ圏内にやってくるツーリストらに対して、老人たちは自分たちを犯す放射能は感じないし、見えないと語る。

専門家らは自然界が次第に回復に向かっていることを指摘している。ガンマー線は検出され続けているものの、以前ほど高い数値ではない。これに付いて専門家の一人、ボリシェフ氏は次のように語ってる。
「ブリャンスク州ではまだ、副業経営の農村で牛乳に汚染が見られる地帯が多少ある。またこれも小さい範囲だが、野いちごに汚染が見られる場所もある。ただ住民に危害を及ぼすような(女性アナウンサーは「おおよぼすような」と言った)汚染はもうない」
専門家は、このように発言している。

チェルノブイリ原発自体も誰もいなくなった訳ではない。瓦礫を集める作業、そして事故を起こさなかった、3基の原子炉を動かす作業に携わる人達はいる。
ただしチェルノブイリに4日間以上続けて滞在することは禁じられている。事故を起こした4号基は石棺で固められたままだが、時が経過してこのセメントにも亀裂が生じている。
この上にさらに新たなセメントの層を作ることが急務だが、国際的な援助もなくウクライナ、一国ではこの問題を解決することはできない。ロシアはすでに450億ドルの資金をこれに割いている。

原発事故を問う―チェルノブイリから、もんじゅへ (岩波新書)
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岩波書店

4月9日放送 ロシアの声・ラジオジャーナル


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