まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

デンマーク王クヌート1世妃 エルギフ

2010-02-18 23:05:00 | デンマーク王妃
息子のためか女の意地か?
クヌート1世大王妃 エルギフ・アーセルムスダター


990頃~1040以降/在位 (デンマーク王妃)1018~1030
             (イングランド王妃)1016~1030

クヌート大王は兄ハーラル2世が嫡子を遺さず早世したので王に即位しました。
ノルウェー、スウェーデンの併合やイングランド征服を成し遂げて
北海帝国をつくりあげ、デンマークのキリスト教化を完成させた王と言われています。

エルギフは、クヌート大王のもうひとりの妃エンマ・ノルマンディと
同一視されてしまうことがよくありますが
父親は南部ノーサンブリアの伯爵アーセルムで、れっきとした別人らしいです。
エンマが古い英語でエルギフとも呼べることと
ふたりの結婚期間が(思いっきり重婚で)だぶっていたため紛らわしかったのね

アングロサクソンの年代史には、エンマと区別するため
“ エルギフ・オブ・ノーサンプトン ” と明記してあるそうです。
     
1013年後半、クヌートの父王スヴェン1世はイングランドを侵攻して
イングランド王になりますが、5週間で亡くなってしまいました。
ノルマンディに避難していたエセルレッド2世が帰国して1016年まで統治し
その後クヌート(カニュート)がイングランド王に即位します。

エルギフは、この1013年~16年の間にクヌートと結婚したようです。
長男ハロルドが1015年に、次男スヴェンが1016年に生まれました。

で、クヌートはエセルレッド2世の未亡人エンマと1016年に結婚しました。
エルギフと離婚したわけじゃないのよ…みんなで暮らしていたのかしら?

1030年、クヌートはスヴェンとエルギフを摂政としてノルウェーに送り
統治させることにします。
いくら息子が14歳だからとはいっても、なんだか厄介払いされたみたいじゃない?と
拗ねたせいではないでしょうけど、彼女はノルウェーでかなりきつい税金を課しました。
唄にも残っているほどです。

結局、貴族の激しい抵抗にあって1035年には撤退しました。
スヴェンは傷がもとで、立ち寄ったデンマークで亡くなってしまい
同じ頃クヌートもシャフツベリで亡くなりました。

この時、エンマの息子たちは皆イングランドにはいなくて
エルギフの息子ハロルドがイングランド王に即位しました。
イングランドに戻ったエルギフは、事実上の王様と呼ばれるようになります。

王家や血筋が変わると、とかく前任者の中傷っぽい伝記が書かれるものなので
鵜呑みにはできませんが、エルギフはエンマの息子殺しの共犯者と言われています。
エンマの次男アルフレッド宛に「イングランドにいらっしゃいよ」と招待した
エルギフの手紙が残っているんだって。

「この女の息子だけは王にしてなるものか!」という思いと
「自分の息子を王にしたい!」の思いが彼女を鬼にしたのかもしれないね。

エルギフとエンマ、どちらの女性が愛されていたのかの詳しい記述はないのですけど
やっぱり妻が何人もいるとなにかと競い合うことになるわよね。
大奥やハレム、後宮にヴェルサイユ… 男と地位を巡る争いは怖いものね…

長男ハロルドの死後亡くなっていますが、何年かは分かりません。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 森護氏『英国王室史話』
      Wikipedia英語版)

英国王室史話〈上〉 中央公論新社


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デンマーク王スヴェン1世妃 シグリド

2010-02-18 02:29:44 | デンマーク王妃
国を巻き込む執念深さ
スヴェン1世双叉髭王妃 シグリド・ストラーデ


生年不詳~1013/在位 不明

シグリドについては、北欧の叙事詩サーガの中で様々な逸話が残されているのですが
不確かな部分が多くて叙事詩作家の架空の人物か? とまで言われているそうです。
しかも、国によっちゃあヒドい言われよう…

一応スウェーデン貴族スコーガル・トスティの娘となっています。

        

シグリドが歴史に登場したのは、スウェーデン王エーリック1世勝利王の
美しくも執念深い未亡人としてでした。
広大な領土で王太子と暮らす彼女に、ヴェストフィヨルド王ハーラルが言い寄ると
彼女は他の求婚者や従者ともども大広間で焼き殺しちゃったっていう…本当かね?

さて、次に求婚してきたノルウェー王オーラフ1世とは宗教をめぐって口論になり
オーラフが彼女を手袋でひっぱたいたんですって!
もちろん破談ですけど、シグリドは「いつかそなたに死をもたらすであろう!」と
言ってやったらしいわよ。
(デンマークサイドでは、シグリドがオーラフの求婚なんか鼻にもかけず
 スヴェンと結婚したことになっております)

シグリドは口先だけの女ではありませんでした。
反ノルウェー連合をつくるため、デンマークにロック・オン!
やもめになっていたオーラフのライバル、スヴェン1世と再婚しました。

シグリドがスヴェンを焚き付けている時、さらに事件がおこります。
スヴェンは妹のタイアを、最初の妃グンヒルドの父親の後妻にするつもりだったのに
彼女は逃げだしてオーラフ1世と結婚してしまいました。

スヴェンとオーラフ、お互いの憎しみは戦争に発展しオーラフは戦死します。

           
             ノルウェー王オーラフ1世と…ケンカ中?

スヴェンの前妃グンヒルドとシグリドが同一人物だという説の根拠は
いくつかあるのですけど長くなるのでやめますね。

ただ、シグリドはまったく架空の女性で、ふたりの王と結婚したのは別の女性という
元も子もない説があるんですけど…
シグリドというのは、もっと後の時代の名前らしいので
作家が考えだした女性だというのです。

でも、北欧三か国を股にかけた女傑なんて、実在していてほしいですよね。
クレオパトラみたいじゃない?

(参考文献 wikipedia英語版)
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デンマーク王ハーラル1世妃ギリテ

2010-02-18 02:29:29 | デンマーク王妃
           肖像画がないので“バイキング・女王”で探したらこれが…

3人まとめていきますわ・・・
ハーラル1世青歯王妃 ギリテ・オーラヴスダター


生没年不詳/在位 952~970

初代王妃チューラにあんなにエピソードがあったっていうのに
ここにきて何も無い ってことでここから3人をまとめてご紹介しますわ。
北欧3国の関わり合いなどをお楽しみ下さい。

歯が青いってわけじゃないのに青歯王といわれるハーラル1世の妃ギリテは
なかば伝説というスウェーデン王オーラヴ・ビョルンソンの王女です。
王座をエーリック1世と争っていた兄スティビョルンがスウェーデンを後にした時
一緒にやってきてハーラルからプロポーズされました。
       
ちなみにステビョルンは984年の争いで敗れて戦死しました。



             
お母様大好き
ハーラル1世青歯王妃 トーヴェ・アボトリテス


生没年不詳/在位 970~986

言い忘れましたが、当時北欧はまだカトリック布教が始まったばかりで一夫多妻です。
王妃以外にも妃はいたはずでございますが、どう区別されていたかは不明
トーヴェは子供を生んでますが、どの子の母親かは不明です。

            
お母様を偲んでユトランドに Sønder Vissing Runestone を置きました。
上の写真がその石碑です。 思い出が書かれているそうです。


ものすごくロイヤルだけど謎だらけ
スヴェン1世双叉髭王妃 グンヒルド・アフ・ポーレン


生没年不詳/在位 986~995

父はポーランド王ミェシュコ1世だし
生んだ王子はイングランド王カニュートとデンマーク王ハーラル2世という
まわりは王様だらけという状態にいながら、生年はまだしも没年が分からないという…
         
しかもスヴェン1世の後妻シグリドとは姉妹説のみならず、同一人物説があります。
果たして真相は…シグリドへつづく…

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)

物語 北欧の歴史 中央公論社


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デンマーク王ゴーム妃 チューラ

2010-02-17 01:23:39 | デンマーク王妃
砦を築いた(といわれる)王妃
ゴーム老王妃 チューラ・ダネボー


870頃~935/在位 934~935

北欧です…
デンマーク・スウェーデン・ノルウェーが入り乱れ、さらにドイツ・イギリスも加わって
家系図がたまらなく素敵な北欧に、なぜ踏み出せなかったか?といいますと
とにかく人名と地名が読めないんですぅ

できるだけ調べましたが、分からないものは英語読み・ドイツ語読み・ローマ字読み
果てはそのまま横文字表記で書いてますので、おわかりの方教えて下さい。
随時訂正します。 よろしくお願いします。

北欧と言えばヴァイキングですが、もとはノルマンの人々が自分たちのことを
ヴァーキングと呼んでいたのが由来で、人口が増えすぎた彼らが8世紀頃から
新天地を求めて海へ乗り出し各地で狼藉を働いちゃったわけなのね。

デンマーク・ヴァイキングはドイツ方面を目指しましたが東フランク王国に敗れて方向転換、
9世紀にはすでにブリテン島に一大植民地をつくっています。
そこで当時から政治的な婚姻がおこなわれていたわけですね。

で、ゴーム老王から始めるのは、チューラ以前の王妃が分からないからでございます。
一応初代デンマーク王ということになっているし…

チューラの素性が分かったのもそんなに昔ではなく、矛盾や疑わしい点があります。
ブリテン島のウェセックス王エセルレッドの王女ということになっていますが
ユトランドの王かホルシュタインの伯爵ハーラル・クラックの娘という説もあります。

           
ドイツとの戦いでは指揮をとったと言われていますし
南方の防壁ダーネビアケを築く上で重要な役割を果たしたと記されています。
ただ考古学的には、防壁はもっと古い時代のものでした。

         
                防壁建設を指揮する…の図

ゴーム王はチューラの功績を讃えてイェリングに石碑をつくりました。
ふたりは一番大きな碑の下に埋葬され
後にデンマーク初のカトリック教会に移葬されました。
(教会の方は1978年に発掘された時に確認されています)

日本同様、昔の王様には伝説があります。
チューラはゴームとの結婚を承諾する前に、新しい家を建てて冬の最初の三晩眠り
どんな夢を見たか知らせてほしいと言いました。
夢はめでたかったらしく、結婚式で披露されました。
海を行く牛(豊穣の証)と鳥(王の栄光)だったそうなんですけど
実はこれ、創世記のファラオの夢を手本にしたものだったんだって

もっと伝説っぽいところを披露すると、チューラの娘は巨人にさらわれて
北のハロガランドとビャルマランドに連れ去られちゃったっていう…
お嫁に行ったってことかしら?

しかし、ほとんどの女性の歴史が記録されていないこの時代に
これだけのエピソードがあるというのはすごいですね!
よほどの女性だったとお見受けします。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)

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『黄色いアイリス』類似品でも気にしない

2010-02-14 23:39:21 | アガサ・クリスティ
THE REGATTA MYSTERY 
1939年 アガサ・クリスティ

主にクリスティの人気キャラクターが登場する9篇が収められた一冊です。
こうやって短篇で一気に読むと、探偵たちにはそれぞれ似合う事件があるんだな、と
実感できますね。
もちろん、どんな事件だって解いてしまうのでしょうけど
ミス・マープルがスパイ組織に潜入したり、ポアロがばあ様たちと井戸端会議なんて
ピンとこないもの。

他の作家にも言えますが、短篇と長・中篇で同じテーマを扱った作品てありますよね。
推理小説だと「あれ?犯人知ってるけど… 」ってことになりますが
そこはさすがのアガサ・クリスティ、ちょっと細工がしてあります。

そんな3篇をご紹介。

『バグダッド大櫃の謎(The Mystery of the Bagdad Chest)』
ポアロはある夜会で話題の殺人事件の被害者の妻ミセス・クレイトンに会いました。
彼女の夫は友人リッチ少佐の家の櫃の中で死んでいたのです。
しかし前夜少佐の家ではパーティーがあって、ミセス・クレイトンも訪ねていました。
彼女の夫は急用で来れなくなったはずだったのに…

この物語は『スペイン櫃の秘密』という題名で他の短篇集に収められています。
邦題が違っているだけだと思うでしょ? ま、そう言っても過言ではない…
でも相方はヘイスティングズからミス・レモンに代わってるし、少し長くなってます。

『黄色いアイリス(Yellow Iris)』
ポアロは切羽詰まった女性の電話でレストラン“白鳥の園”に呼び出され
目印と言われた黄色いアイリスの花瓶があるテーブルで知人を見つけます。
ポアロは皆のことを注意して見ますが、なんだか楽しそうな晩餐です。
主催者のラッセル氏がいきなり「自殺した妻のために乾杯を」と言いだしました。

こちらは『忘れられぬ死』とだいたい同じようなあらすじなんですけど
今長篇の細かいところが思い出せない…
かなり長くなっていますので別物に仕上がっている可能性がありますね。

『二度目のゴング(The Second Gong)』
晩餐の時間にとてもうるさいリッチャム・クローズ荘の滞在客は
誰もが食事の合図である二度目のゴングに遅れないように必死です。
しかしある晩、ゴングが鳴っても張本人のロシェ氏が現れません。
うろたえた客たちが書斎を開けると、ロシェ氏がピストルを握って死んでいました。

こちらは『死人の鏡』という長めの短篇と同じような内容で
食事時間にうるさい館の主人、書斎の死体、ピストルなんてところは同じです。
でもね、登場人物が微妙に違ってるので、結末も自ずと違ってまいります。
どちらかというと『死人の鏡』の方が好きかしら…

ネタ切れなんて言わないで下さいね。
同じような話しで始めてラストを変えて行く方が、もしかしたら
一から作るより難しいかもしれないですよ。
ほぼ同じ内容でも、もう一度読んでもらえるように工夫してたみたいです。
だから読んじゃいました

オールスター勢揃い!
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ロシア皇帝アレクサンドル1世愛妾 バルバラ

2010-02-14 23:20:02 | 王の寵姫・愛妾
神秘の力で皇帝を虜に・・・
クリュドネール男爵夫人 バルバラ・ユリアーネ


1764~1824/愛妾 1813~1820

バルバラはね、36歳のアレクサンドル1世と出会った時には49歳で
もうそんなに美しさは残っていなかったんですって。
しかもアレクサンドルはモテモテの男盛り…いったい何がふたりを?

バルバラは陸軍大佐の娘でリヴォニア生まれ。
彼女自身によれば、フランス語、行儀作法、縫い物を教育された一般的な女性でした。

18歳の時に16歳年上の名うての外交官クリュドネール男爵と結婚しましたが
男爵は彼女をほったらかしで、バルバラは家計が窮地に陥るほど浪費に走ります。

     

1784年に長男が生まれてちょっと人生が好転します。
ここからはしょっていくけど、まずはウィーンへ、そしてコペンハーゲンへと
外交官である夫に同行します。
療養のためモンペリエに滞在した時、若き騎兵のシャルル・ルイ・フレーヴィルに出会い
恋に落ちて、離婚しようとしたんだけど夫が同意しないので家を飛び出したと…
その後バルバラと男爵は、夫婦のまま一生会うことはありませんでした。

36歳の時、シャトーブリヤンなどのアドバイスで『ヴァレリー』を出版して
人気作家の仲間入りをします。

あ、なぜにアレクサンドル1世と出会ったか…

1804年、故郷を訪れた時に、知り合いの紳士が握手をしようとして倒れてしまい
そのまま足下で死んでしまったのを見たバルバラは、一時精神のバランスを崩して
それから、信仰といいますか神秘主義にのめり込んでいきました。
神秘な体験とか、公演とか、奉仕とかたくさんエピソードはあるのですが割愛して…

1813年、最初は懺悔をさせるためにアレクサンドルに会いました。
病気(梅毒らしい)に罹ったアレクサンドルは気落ちして
バルバラになにもかも打ち明けるとぐったりしてしまいましたが
その後は彼女と語り合い祈ったりしているうちに、どんどん神秘主義にはまりました。

パリ陥落後はバルバラにエリゼ宮を与えて入り浸り、聖書を読んだりしてたそうなんだが
ある日からだも結びついちゃったということらしいよ。

アレクサンドルはバルバラが語ることを聞いているうちに
自分がナポレオンなきあとのキリスト教帝国の救世主にならねば!と思い込んでしまい
ウィーン会議で失笑を買うハメに…
その上愛妾のマリーヤ・ナルイシキナがついて来ていたからダブルでダメージ

その後アレクサンドルはバルバラからではなくメッテルニヒから影響を受けるようになって
彼女のもとを離れていきます。
でも何かと言うと「悪魔のせい」とか「罰が下った」とか考えるようになっちゃったみたい。

アレクサンドルと別れたバルバラは相変わらず奉仕活動に精を出していました。
1824年にクリミアに設立したスイス人居住区で亡くなりました。

アレクサンドルは翌年の夏、贖罪も兼ねて皇后エリザヴェータと旅をしていました。

噂では…アレクサンドルはアルメニアのバルバラの墓を参って長い間祈りを捧げると
その後熱を出して1ヶ月後に感染症で亡くなったってことになっております。
本当だとしたらバルバラが呼んだのか…くわばらくわばら

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      ドーン・B・ソーヴァ『愛人百科』 Wikipedia英語版)

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ロシア皇帝アレクサンドル1世愛妾 マリーヤ

2010-02-13 01:27:27 | 王の寵姫・愛妾
皇帝一家公認、とは言ってもね・・・
マリーヤ・アントノーヴァ・ナルイシキナ


1779~1854/愛妾 1799~1818

マリーヤはポーランド貴族アントーニ・スタニスワフの娘で
16歳の時にドミトリー・ナルイシキンと結婚しました。

4年後にはアレキサンドル1世と愛人関係になっていたというから
宮廷というところは本当に酒池肉林の世界だったのね…

       
アレキサンドル1世という方は、古代のギリシャ彫刻に例えられるほどに
とてもハンサムだったそうで、そりゃあモテましたとも!
浮気のひとつやふたつや…十個ぐらいはあるでしょうが
そんな中でも皇帝の家族にものすごく気に入られた愛妾がマリーヤでした。

そりゃ、奥さんは別よ
皇后エリザヴェータは、他の愛妾同様彼女を黙認していました。

マリーヤは人々をうっとりさせる魅力に富んでいて、おつきあい上手な女性でした。
“ 北のアスパシア ” と呼ばれていたそうです。

               
                  さすが、艶っぽいです…
                   たしかにうっとりしてしまいますな


1803年、マリーヤはアレクサンドルとエリザヴェータを別れさせて
自分が皇后の座につこうと画策します。
ちょっとアスパシアっぽくなくなってきたわよ…
でもこれは失敗。

1814年にはウィーン会議に行くアレクサンドルに同行しましたが
これがアレクサンドルの評判を落とします。
ナポレオン打倒の立役者だったのに…

だんだん目に余るようになってきたのですかね?
アレクサンドルは説得されて、とうとうマリーヤと別れることを決心しました。
1818年にふたりは別れましたが、子供もいるし…ってことで
以降も家族同様のおつきあいをしていた模様。

ところで、マリーヤの夫は子供のうちふたりを自分の子供と認めなかったんだけど
離婚したと言う記述が見当たらないのよね。
皇帝に認知してもらった方が後々なにかとさぁ… なんてことを考えたりしたのかしら?

ちなみにマリーヤが生んだ娘のうち、ソフィーヤが16歳で亡くなったことで
アレクサンドルは自分の不貞に罰が下ったと思って皇后と仲直りしたそうですよ。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)

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『動物農場』あの国のことでしょうね?

2010-02-12 00:16:35 | イギリス・アイルランドの作家
ANIMAL FARM 
1945年 ジョージ・オーウェル

この本は以前読んだことがあるのですが、内容を勘違いしていました。
てっきり動物たちが擬人化して物語を展開しているのかと思っていたら違うのね。

物語は荘園農場で尊敬を集める豚のメージャー爺さんの演説で始まります。
「搾取するだけの人間からの解放! 動物たちの自由と豊かで平等な暮らしを!」
メージャー爺さんはこう訴えた三日後に息を引き取ります。

その後ある出来事がきっかけで動物たちは農場主のジョーンズ氏を追い出し
自分たちが理想とする “ 動物農場 ” を運営していくことになります。

夢みたいな暮らしが待っているはずでした。
労働時間は短くなり、食料はたっぷりもらえて、老後は引退して安泰な生活…
動物たちは幸せな気持ちで黙々と働きます。

でも、指導者的立場だった二匹の豚のうち知性派のスノーボールが失脚すると
押しの強いナポレオンが獰猛な犬たちをを引きつれて独裁を始めます。
しかもあんなに嫌っていた人間たちと同じような生活を送るようになりました。
家に住んで、ベッドで寝て、さらには酒まで…

動物たちはだんだん仕事がきつくなり、食料も減っていくというのに
豚たちと犬たちは贅沢になっていくようでした。

ラストはですね、共産主義も民主主義も、一皮むけば… って感じです。

うーん… やっぱり当時のソ連のことを書いたんでしょうね?
開高健氏はナチスドイツにもあてはまると書いてらっしゃいます。

豚のナポレオンは、農場で最高の勲章を与えられるのね(自分からだけど)
それから自分を指導者と呼ぶようになり、まわりの動物たちも
「我らが指導者ナポレオンのおかげで卵を五つ産んだわ」とか
「同志ナポレオンのご指導のおかげで池の水がおいしいわ」
なんてぇことを言い出します。

どっかで聞いたことがある気がする…

有史以来、星の数ほど生まれてきた君主や政治家や指導者は
最初は国や人々の生活を良くしたいという、気高い心を持っていたと信じます。
他国の圧政からの解放、無能な君主からの解放、搾取と貧困からの解放のために
自分の身を顧みず行動した人もいたはずです。
でも一度人々を動かす立場になって、誰も自分に背く者がいなくなると
程度の差こそあれ、自己の満足と保身に走ってしまうものなのかもしれませんね。

動物(庶民)がどのように扇動されて、洗脳されて
社会の不公平や犠牲的な現状に鈍感になっていくのか、ものすごく解り易いですよ。
共産体制の成り立ちを子供に教える時にも役立つかもね。

他に『象を射つ』『絞首刑』というビルマを舞台にした作品と
『貧しいものの最期』というパリの病院の入院体験記(?)が収められています。
それから開高健氏の寄稿と、解説が…長い 総ページ数の4分の1はあります。
その分短篇を二つぐらい入れてほしかったんですけど…

読んでいる間『ひつじのショーン』の人形たちがちらついたわ…
雰囲気ぶち壊しだけど、一度頭に浮かんだら離れなくなっちゃって
けっこうマッチしてると思うんだが、どうでしょう?

動物農場 岩波書店


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こちらは岩波文庫でございます
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ロシア皇帝パーヴェル愛妾 アンナ

2010-02-11 11:04:04 | 王の寵姫・愛妾
清いまま嫁いだ皇帝の恋人
アンナ・ペトロヴナ・ロプーヒナ


1777~1805/愛妾 1796~1799

一説によると、パーヴェルとアンナはプラトニックな間柄だったそうなんですけど
別の説もあって、パーヴェルはエカチェリーナ・ネリードヴァという女性に
プラトニックな情熱を注いでいたのに、アンナが奪っちゃったという…

とりあえず純愛説でいっときますね。

ロシアの旧家の出身のアンナは、母親を幼い頃に無くして
モスクワの継母に育てられていました。
大きく人生が変わったのは18歳の時、舞踏会でパーヴェルに出会ったためでした。
パーヴェルはもう夢中!!

みえみえなパーヴェルの恋心に気づいた廷臣たちの中には、アンナを利用して
皇后マリーア・フョードロヴナの影響力を弱めたいと思う人たちもいました。

        

パーヴェルはアンナの家族をサンクト・ペテルブルクへご招待します。
もちろん「アンナは連れて来てね」ということで。
親族は、それはもう喜びますよね! いいポジションや富が手に入ると思って。

しかし皇后は大激怒です。
妨害を試みたり、アンナに手紙を出して家にいるように脅しをかけます。
この手紙は途中で反皇后派に横取りされてパーヴェルに渡されたりします。

もちろん宮廷には皇后派もいるわけで、宮廷内はまっぷたつ
皇后派とアンナ歓迎派が反目し合います。

ここでちょっと思ったのですが、いくら皇帝からの思し召しといっても
家族がやいのやいの言ったにしても、こんな状況の宮廷にやってくるというのは
けっこう度胸ありますよね?
皇后だって手ぐすね引いてまってるだろうし、ふつう尻込みしちゃうわよね。
それとも専政君主制ってそうは言ってられないものなの?

アンナの父親は案の定総督代理の地位を手に入れたし、アンナは称号もらったし
その上短気なパーヴェルの気を上手に鎮めて反皇后派に有利に働いたりして
やる気満々な気がしないでもない…

              
               上のポートレートはいろっぽいけど…
                       少し違う印象ですね


1799年、しつこくしつこく言い寄っていたパーヴェルに
アンナは、幼なじみのパーヴェル・ガガーリンとの結婚の許しを願い出ました。
パーヴェルは大ショック!! だったでしょうが、これは許したようです。
しかしすぐにガガーリンはイタリア戦線に送られてしまいました。

これがガガーリンとアンナを引き離そうという作戦なら大失敗。
アンナもついて行っちゃって、ふたりはイタリアで結婚式を挙げました。
幼なじみとはいえ政略結婚でしたが仲は良かったそうで
5年後にアンナがトリノで結核で亡くなった時、夫は嘆き悲しんだそうです。

何も手出しをさせないまま、地位や貢ぎ物を手にしていたなんてスゴいよね?
からだで王様を虜にする愛妾たちより、実は何枚も上手なんじゃないかしら?
ルイ14世なんかには効かない手だと思うが…

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)

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ロシア皇帝ピョートル1世愛妾 アンナ

2010-02-10 00:57:10 | 王の寵姫・愛妾
                 こちら本妻の肖像画

結婚手前までいったのに・・・
アンナ・モンス


1672~1714/愛妾 1691~1704

アンナ・モンスは、裕福なオランダ商人の娘さんでした。
ピョートル1世が若き頃、ロシアのドイツ人街を訪れた時に出会って魅惑されました。
19歳同士ですものね、たちまち恋に落ちてしまったようです

    
ピョートルはその2年ほど前にエウドキア・ヒョードロヴナと結婚していたのですけど
ずんずんアンナにのめり込んでしまったようで、夫婦仲は悪化していきました。
最初からうまくいきそうもなかったんですけどね…

アンナは公認の愛妾となって男の子がふたり生まれています。

1698年、すったもんだの末やっとピョートルがエウドキアと離婚しました。
ピョートルはアンナとの結婚を宣言し、宮廷中に通達しました。
もう結婚したも同然! アンナ至福の時です。

         
              肖像画がないのでアンナ邸の絵なんぞを…

ところがで、ございます。
なんだかずるずる結婚しないまま時が過ぎた1704年、アンナは自室で逮捕されました。
迫害を受けた人がいるっていうのが理由なんだが
さてどうでしょう?
ピョートルは1703年にエカチェリーナと出会ってますのでね…なにかありそうよね

一方歴史家の多くは、アンナが後に結婚するプロシアの外交官カイザーリングと
このころから隠れて愛し合っていたのが原因じゃないかと考えているそうです。

1711年にカイザーリングと結婚したアンナは3年ほどで亡くなりました。

ところで、アンナの兄ウィリアム・モンスはとてもハンサムな人で
エカチェリーナの個人秘書になりました。
ふたりの親密さに、ピョートルはかなりお怒りだったらしい…
さりげなく、アンナの逆襲かしら?

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)

写真やこぼればなしなどもあり読みやすい
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね


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『女の一生』わかりやすい不幸を堪能

2010-02-09 00:52:41 | フランスの作家
UNE VIE 
1883年 ギィ・ド・モーパッサン

おおよそ女性ならば想像できる不幸にオロオロするだけの主人公ジャンヌに
普段ならばキーッ となってしまうであろう私なのですが
『女の一生』は読む楽しさが勝っちゃって、どうでもいいや、ジャンヌは。

物語はジャンヌが17歳で、あずけられていた修道院から出て行くところから始まります。

ここからジャンヌが味わう不幸を大きく三つにまとめてみます。

無菌状態で少女時代を終わり、貴族気質ののんきな両親と海沿いの屋敷で過ごすため
やってきた村で、ハンサムなラマール子爵と出会い、恋に落ちて結婚してみたら
結婚前と後とじゃ大違い!! しかもすごくケチでせこいの

ラマール子爵は男前なだけあって女好きらしく
新婚時代から浮気をするのですが、相手がジャンヌが大切にしたい人ばかり。
可愛がってあげた自分の使用人とか、やっとできた友達とか…二重の裏切りです。

そして息子ポール。
愛のすべてを注いで育てたのに、急に学校をやめて、借金を作って女と逃げて
後は金がいる時だけ便りをよこす…しかもどうみても理由が作り話なんです。

読み始めてから読み終わるまで「絶対そうなるだろうな」のオンパレードで
予想不可能な展開と、大どんでん返しが好きな方にはおすすめできないが
文章を目で追う楽しさはものすごく味わえると思います。

この物語の中には『モーパッサン全集』『モーパッサン短編集』の中で
短篇として書かれていたエピソードが、再び登場人物によって繰り広げられる部分もあって
短編を思い出しながら読むのもまた愉快でありました。

夫の言うなりになる毎日にうんざりし、浮気も知ってしまって
息子に金を送るため地所がどんどん抵当に入っていく… その時ジャンヌは?
ジャンヌはね、なーんにもしなくて不幸に浸りきっているのね。
でも大丈夫! 強い味方が現れます。

とにかく、主人公にほとんどアクションがないこの物語。
これで最後まで物語を引っ張ったモーパッサンおそるべし !!

『女の一生』は、もちろん女性の虚しい一生を題材にした『ボヴァリー夫人』
並んで評されることが多いと思いますけど
ジャンヌに比べればエマ・ボヴァリーはかなりの行動派に思えます。

フローヴェールはモーパッサンの良き師匠だったそうです。
女性の虚無感という同じテーマを取り上げたことになりますね?
読み比べてみるのも面白いんじゃないかと思います。

女の一生 集英社


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こちら集英社の文庫本です
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神聖ローマ皇帝カール5世愛妾 バルバラ

2010-02-07 23:08:37 | 王の寵姫・愛妾
愛妻家が旅先で・・・
バルバラ・ブロムベルク


1527~1597/愛妾 1546

バルバラは愛妾というより一時のお相手だったのですけれども…

神聖ローマ皇帝カール5世といえば、王妃イザベル亡き後19年間を独身で過ごし
死ぬまで喪服を着続けていたという、当時にしてはめずらしい愛妻家です。
でも旅先だし、イザベルが亡くなって7年もたっているし、許してあげましょ

バルバラは一介のレーゲンスブルク市民ウォルフガングを父に
歌い手のシビラ・ローマンを母に持つ、ちょっとふしだらな娘さんでした。

1546年、カール5世が神聖ローマ帝国議会のためにレーゲンスブルクに滞在中
バルバラがお相手を務めたということです。
ですので、カール5世が町を去った後は二度と会うことはありませんでした。

       
しかし翌年バルバラは男の子を生みます。
息子はすぐに母親から引き離され、教育のためにスペインに連れて行かれました。
彼こそスペインで名を上げた軍人ドン・ファン・デ・アウストリアです。

バルバラはその後ヒエロムニス・ケーゲルという役人と結婚し(内縁の夫説もあります)
従軍した夫と共にブリュッセルへ移りました。
1569年にケーゲルが戦死し、バルバラと3人の子供は窮地に陥ります。

バルバラは、ドン・ファンからお金をもらいましょう!と思いますがうまく運ばず
「ドン・ファンは皇帝の子じゃないんだから」と言いふらし始めました。
アルバ公のとりなしでドン・ファンの異父兄フェリペ2世から年金を認められ
なんとか丸くおさまりました。

アルバ公は、バルバラのことを最初から良く思っていなかったみたいで
手紙でさんざんこきおろしています。

1576年、バルバラは息子ドン・ファンと約30年ぶりに面会します。
ドン・ファンはあまり乗り気でなかった様子…きっと金をせびられると思ったのね。
真相は分かりませんけど、この後ふたりは会うことはありませんでした。

1578年、ドン・ファンは戦場で病死しました。
フェリペ2世は、義理の母バルバラに彼女自身の館を持つ許可を与えます。
またまたしつこくせがんだか?
バルバラはカンタブリアで暮らし、70歳で亡くなりました。

たった数ヶ月の関係を最大限に利用するあたり、かなり強欲な人だったみたいね
つかまっちゃった王様がおマヌケなのか、つかまえた女性があっぱれなのか?
こういう一時の火遊びのつもりが… っていう浮気も多々ありますね。
甲斐性がある人なら問題は無いでしょうけど…

(参考文献 岩根圀和氏『物語スペインの歴史』 Wikipedia英語版)

スペイン史上重要なトピックスを読みやすく紹介
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神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世愛妾 ビアンカ

2010-02-06 00:32:37 | 王の寵姫・愛妾
長~く愛された女性
ビアンカ・ランチア


1200~1244/愛妾 1225~1244

フリードリヒ2世は、ハプスブルク家が皇帝の定番になる以前の
ホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝です。

ビアンカ・ランチアは、神聖ローマ皇帝と愛人としては歴代1位の長さを誇る15年
フリードリヒ2世とおつきあいがありました。

ビアンカの素性ははっきりしていないのですが
皇帝フリードリヒ・バルバロッサの騎士だったマンフレッド1世の孫説が有力です。
母親がマンフレッドの娘ビアンカか、父親が息子のボニファチオあるいはマンフレッド2世
これらのいずれからしいです。

フリードリヒ2世が二人目の妃イェルサレム女王イサベル2世と結婚するために
ビアンカが暮らしていたアリアーヌを訪れた時に出会い、恋に落ちました。
ちょっとぉ、自分の結婚式なのよぉ

         
なにしろ15年ですのでね。
今の不倫だったら「もう待てないわよ!!」って凄まれそうな長さです。
切っても切れない仲かしら? それともくされ縁て言うのかしら?
この間フリードリヒ2世はイサベル2世を亡くして三人目の妃も迎えていましたよ。

いずれにしても、ビアンカのおかげでランチア一家は皇帝に厚遇され
イタリアで高ポジション、高収入の地位を得ることができました。
ビアンカの息子マンフレーディもナポリ・シチリア王になってます。

1241年にフリードリヒ2世の三人目の妃イザベラが亡くなると
ビアンカは、シシリー王妃に与えられるはずのサンタンジェロ山の城を贈られます。
(サンタンジェロ城とは違う城でございます)

ビアンカは死の直前に、彼女の望みでフリードリヒ2世と結婚したと言われています。
子供たちの将来と、長年の罪に対する魂の救いのために結婚を望んでいたのです。
でも教会で正式に祝福してもらうことはできませんでした。

ビアンカが亡くなった年にもいくつか説があるのですが
息子が12歳で長女が結婚する直前だったという説によれば1244年が有力みたいです。

              
               仲睦まじいところが描かれてます

歴史家の意見は、ビアンカはフリードリヒ2世が愛したただひとりの女性という説と
この関係をロマンティックに評価し過ぎじゃないかという説に分かれています。
でも “ 運命の女性 ” 説の方が叙情詩的でいいじゃない?
事実が分かりゃいいってもんじゃないこともありますのよ。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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『幼なごころ』子供の世界もあまくない

2010-02-05 01:46:50 | フランスの作家
ENFANTINES 
1918年 ヴァレリー・ラルボー

私は子供目線の物語は嫌いではないんですけど、この本はちょっと…

子供が主人公の本と言えば、子供ならではの純粋さや無垢さを描いたり
大人には計り知れない根っからの狡猾さや意地の悪さを暴いたりします。
中にはまさかと思うようなことを考えているエロ…おませな子がいたりして

最初はこの本もそんな感じかしら、なんて思いながら読んでいたのですが
なんだかだんだん違ってきたぞ…
見たくないものをいっぱい見せられたような気になってます。

『包丁(Le Couperet)』
7歳のミルーは、田舎の屋敷で夏の休暇を過ごしています。
小作人の娘ジュリアに、新しくやって来た不幸な羊飼いの娘ジュスティーヌを
もっと不幸な目に遭わせてやろうと言われ、とても乗り気だったミルーだったのに
ジュスティーヌをひと目見るとその思いつきに後悔を覚えました。

始めて抱く恋心ってやつですかね?
12歳のジュリアも、単なる思いつきでミルーをたきつけた訳ではなさそうです。
これからの夏の休暇が楽しみですね!

『偉大な時代(La Grande Epoque)』
工場主の息子マルセルは、夏の休暇中、工場長のふたりの子供たちと遊びます。
領地内に王国を作り、戦争をして取ったり取られたり、同盟を結んで敵を倒したり
植民地を作ってまた取ったり取られたり…
ある日ふたりの赤毛の少女に出会い声をかけましたが、ふたりは相手にしてくれません。
マルセルはなんとか仲良くなろうと躍起になります。

子供らしい遊びをしていながら、かなり昔の歴史を取り入れているあたり
こんな授業もいいんじゃないか? と思いましたよ。
歴代の王様や有名な将軍の名前はこうやって覚えたらいいんじゃないかしら?

上にあげた2篇はわりに無邪気な内容に見えますが、けっこう難しいことを考えてんのよ。
大人たちの会話の空虚さとか、身分違いの悲しさとかね。
他の物語の子供たちも割と込み入ったことを考えております。
子供が子供なりに頭をひねって…というのとは、ちょっとレベルが違います。

で、全体的に、お下げ髪の膝丈スカートの少女がたくさん登場するな…なんて思っていたら
最後の2篇、『ひとりぼっちのグウェニー』と『平和の救い』を読んで
ちょっと引いたわ。

詩的に美しい文章で書いてあるけれど、大人の女性を好きになれない男性が
「幼い少女が好き!」って言ってるようなものなんですもの。
作家自身の嗜好がどうだかは知りませんよ。
愛した女の人もいたみたいですからね。

表紙には “ 作家に愛される作家 ” と書かれています。
過去の名作への造詣も深い方のようです。
名作を引用したりほのめかしたり…という書き方は嫌いではありません。

いい作家なんでしょうね?
でもこの本は苦手なんですよね

幼なごころ 岩波書店


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フランス王シャルル6世愛妾 オデット

2010-02-03 00:10:24 | 王の寵姫・愛妾
“ 小さな王妃様 ” と呼ばれた愛妾
オデット・ド・シャンディベール


1390~1425/愛妾 1407~1422

オデットは、発作がおこると王妃イザベルを恐れるようになったシャルル6世を
王妃に変わって(いろんな意味で)お世話するために選ばれた女性でした。

父親(兄説あり)とされるギィなる人物は、王妃イザベルの従者と
シャルル6世のかまど番との2名の記録が残っていますが
どちらもブルゴーニュ公の忠実な徒党でした。
ブルゴーニュ公ジャンは、王がブルゴーニュ派に加担するよう説得しろと
オデットに頼んだと言われています。

        

シャルル6世の弟で、敵でもあり、その上王妃の愛人だったオルレアン公ルイが
亡くなった1407年頃から王の愛妾になりました。
その年のうちにマルグリートという娘が生まれています。

精神病の王に打ちのめされ、恐れ、嫌って不貞をはたらいていた王妃イザベルは
オデットが自分の代わりをつとめることを許し、自ら王の寝室に手引きしたそうです。
イザベルもいろいろ言われていますが、彼女なりにつらかったのでしょうね。

              
                 王妃イザベルとオデット
                何をお話しているのかしら? 気になる1枚です


オデットはシャルル6世や宮廷の人々に “ 小さな王妃様 ” と呼ばれていました。
陽気で美しく、優しい性格のオデットは
不幸な国王をできるかぎりの献身と忍耐で愛し守りました。

オデットは、カード遊びをフランスに広めた女性だと言われていますが
これは王が精神の発作をおこした間の暇つぶしだったようで、悲しい副産物ですね。

オデットと過ごした15年の間に、王は彼女の献身に対して数々の贈り物を与えました、が
贈り物って言ったって、王様がくれる物はすごいのよ!
少なくともマルヌのクレテイユとパリのバニョレの荘園、ポワトゥーのベルヴィルの領地が
贈られました…でっっっかい土地ですよ。

1422年にシャルル6世が亡くなる時、口にした言葉は「オデット」でした。
王妃イザベルは葬儀に出席しませんでした。

オデットはその後王に贈られたサン・ジャン・ド・ロンスの城に娘と移り住み
どうやらブルゴーニュ公ジャン3世からも援助を受けて暮らしていましたが
イングランド軍が優勢になってくると領地も取り上げられ貧乏生活を余儀なくされました。

1424年以降のことははっきりしていません。
ドーフィネで1425年に亡くなったと言われています。
娘のマルグリートは、1428年に義理の兄にあたるシャルル7世によって正当な嫡子とされ
領主のもとへ嫁ぎました。

狂王と分かっている人のもとへ17歳で差し出されるという不幸を受け入れ
最後まで優しさで包んで逝かせてあげた女性の死がはっきりしないというのは
哀しいことですね
誰かちゃんと面倒をみてあげられなかったのかしら?

ちなみに王妃イザベルはヘンリー5世の保護下で暮らし、1435年に亡くなってます。
これが正式な結婚とそうでない関係の違いなのだろうか?
愛の深さは関係ないんだね…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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