![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/59/336297e44a58fc5f14b8a010bc170396.jpg)
愛妻家が旅先で・・・
バルバラ・ブロムベルク
1527~1597/愛妾 1546
バルバラは愛妾というより一時のお相手だったのですけれども…
神聖ローマ皇帝カール5世といえば、王妃イザベル亡き後19年間を独身で過ごし
死ぬまで喪服を着続けていたという、当時にしてはめずらしい愛妻家です。
でも旅先だし、イザベルが亡くなって7年もたっているし、許してあげましょ![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp01.gif)
バルバラは一介のレーゲンスブルク市民ウォルフガングを父に
歌い手のシビラ・ローマンを母に持つ、ちょっとふしだらな娘さんでした。
1546年、カール5世が神聖ローマ帝国議会のためにレーゲンスブルクに滞在中
バルバラがお相手を務めたということです。
ですので、カール5世が町を去った後は二度と会うことはありませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/b0/7cc74f8d227f5df7a564ae7d1a9e4a6a.jpg)
しかし翌年バルバラは男の子を生みます。
息子はすぐに母親から引き離され、教育のためにスペインに連れて行かれました。
彼こそスペインで名を上げた軍人ドン・ファン・デ・アウストリアです。
バルバラはその後ヒエロムニス・ケーゲルという役人と結婚し(内縁の夫説もあります)
従軍した夫と共にブリュッセルへ移りました。
1569年にケーゲルが戦死し、バルバラと3人の子供は窮地に陥ります。
バルバラは、ドン・ファンからお金をもらいましょう!と思いますがうまく運ばず
「ドン・ファンは皇帝の子じゃないんだから」と言いふらし始めました。
アルバ公のとりなしでドン・ファンの異父兄フェリペ2世から年金を認められ
なんとか丸くおさまりました。
アルバ公は、バルバラのことを最初から良く思っていなかったみたいで
手紙でさんざんこきおろしています。
1576年、バルバラは息子ドン・ファンと約30年ぶりに面会します。
ドン・ファンはあまり乗り気でなかった様子…きっと金をせびられると思ったのね。
真相は分かりませんけど、この後ふたりは会うことはありませんでした。
1578年、ドン・ファンは戦場で病死しました。
フェリペ2世は、義理の母バルバラに彼女自身の館を持つ許可を与えます。
またまたしつこくせがんだか?
バルバラはカンタブリアで暮らし、70歳で亡くなりました。
たった数ヶ月の関係を最大限に利用するあたり、かなり強欲な人だったみたいね![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp02.gif)
つかまっちゃった王様がおマヌケなのか、つかまえた女性があっぱれなのか?
こういう一時の火遊びのつもりが…
っていう浮気も多々ありますね。
甲斐性がある人なら問題は無いでしょうけど…
(参考文献 岩根圀和氏『物語スペインの歴史』 Wikipedia英語版)
スペイン史上重要なトピックスを読みやすく紹介
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね
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バルバラ・ブロムベルク
1527~1597/愛妾 1546
バルバラは愛妾というより一時のお相手だったのですけれども…
神聖ローマ皇帝カール5世といえば、王妃イザベル亡き後19年間を独身で過ごし
死ぬまで喪服を着続けていたという、当時にしてはめずらしい愛妻家です。
でも旅先だし、イザベルが亡くなって7年もたっているし、許してあげましょ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp01.gif)
バルバラは一介のレーゲンスブルク市民ウォルフガングを父に
歌い手のシビラ・ローマンを母に持つ、ちょっとふしだらな娘さんでした。
1546年、カール5世が神聖ローマ帝国議会のためにレーゲンスブルクに滞在中
バルバラがお相手を務めたということです。
ですので、カール5世が町を去った後は二度と会うことはありませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/b0/7cc74f8d227f5df7a564ae7d1a9e4a6a.jpg)
しかし翌年バルバラは男の子を生みます。
息子はすぐに母親から引き離され、教育のためにスペインに連れて行かれました。
彼こそスペインで名を上げた軍人ドン・ファン・デ・アウストリアです。
バルバラはその後ヒエロムニス・ケーゲルという役人と結婚し(内縁の夫説もあります)
従軍した夫と共にブリュッセルへ移りました。
1569年にケーゲルが戦死し、バルバラと3人の子供は窮地に陥ります。
バルバラは、ドン・ファンからお金をもらいましょう!と思いますがうまく運ばず
「ドン・ファンは皇帝の子じゃないんだから」と言いふらし始めました。
アルバ公のとりなしでドン・ファンの異父兄フェリペ2世から年金を認められ
なんとか丸くおさまりました。
アルバ公は、バルバラのことを最初から良く思っていなかったみたいで
手紙でさんざんこきおろしています。
1576年、バルバラは息子ドン・ファンと約30年ぶりに面会します。
ドン・ファンはあまり乗り気でなかった様子…きっと金をせびられると思ったのね。
真相は分かりませんけど、この後ふたりは会うことはありませんでした。
1578年、ドン・ファンは戦場で病死しました。
フェリペ2世は、義理の母バルバラに彼女自身の館を持つ許可を与えます。
またまたしつこくせがんだか?
バルバラはカンタブリアで暮らし、70歳で亡くなりました。
たった数ヶ月の関係を最大限に利用するあたり、かなり強欲な人だったみたいね
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp02.gif)
つかまっちゃった王様がおマヌケなのか、つかまえた女性があっぱれなのか?
こういう一時の火遊びのつもりが…
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甲斐性がある人なら問題は無いでしょうけど…
(参考文献 岩根圀和氏『物語スペインの歴史』 Wikipedia英語版)
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