暴君に尽くした若き王妃
クリスチャン2世妃 エリサベス・アフ・エストリク
1501~1526/在位 (デンマーク王妃、ノルウェー王妃)1515~1523
(スウェーデン王妃)1520~1521
エリサベスはカスティリア王フェリペ1世と女王ファナ・ラ・ローカの王女です。
ファナの病は重くなる一方でしたので叔母マルガレーテの教育を受けて育ちました。
なにしろハプスブルク家、神聖ローマ皇帝の孫、お金もあるでしょってことで
引く手あまただったエリサベスに、最初に手を上げたのがデンマークでした。
デンマーク王クリスチャン2世は、とにかく乱暴者で有名なのです。
1520年の “ ストックホルムの血浴 ” が有名ですが
これはスウェーデンの反乱貴族を「許してあげよう」と晩餐に呼んどいて
大広間で虐殺してしまったという出来事です。
若い頃から残虐、放蕩、無節操でならしていたクリスチャン2世は
すでにディーヴェケという愛妾がいて別に結婚したくなかったのですが
議会がうるさいのでエリサベスと結婚した、というわけで
14歳で嫁いで来た彼女を顧みることはありませんでした。
エリサベスはディーヴェケのみならず、彼女の母シグリドや兄弟にまで
冷たくあしらわれて不幸な新婚時代を過ごします。
これを聞いたハプスブルク家は怒って争いに発展しそうだったのですが
ディーヴェケが急死して一件落着… 毒殺の噂はありますけど不明です。
クリスチャンとの仲は上手くいき始めて良かったですね…と言いたいところですが
それまでの暴君ぶりが仇となり、まずはスウェーデンでグスタフ・バーサの乱、
続いてデンマーク、ノルウェーでも貴族の反乱がおこって退位することになりました。
ちなみにエリサベスはカルマル連合最後のスウェーデン王妃です。
クリスチャン一家はネーデルラントに亡命することになりました。
後を継いだフレデリク1世はハプスブルク家とのこともあって
エリサベスだけでもデンマークにとどまってほしいと手紙を出したんですけど
“ 王がいるところが私のいるところ ” と返事を出して一緒に旅立ちます。
エリサベスは途中でドイツ国内をまわって親族を訪ね
クリスチャンを復位させようとしていました。
もうっ、どこまで尽くす女なのっ
その時にベルリンやニュルンベルクでプロテスタントにふれました。
ハプスブルク家の手前信仰は隠していましたがかなり傾倒したようで
24歳で亡くなる前に、カトリックとプロテスタント両方の終油を受けています。
クリスチャン2世は、貴族には人気がなかったかもしれませんが
農村部では支持が厚かったそうで、何度か復位の動きがありました。
ノルウェーに攻め入ったりもしましたが、フレデリク1世におびき出され
捕らえられて監禁生活の末1559年に亡くなりました。
もしデンマークに残っていたら長生きしたかもしれないのにね、エリサベス。
そんなに尽くさなくたっていいのに、なんて思うけど
乱暴者のイメージが強い男性も愛する人には優しかったりするからね…
何か彼女を惹きつけるものがあったのかもしれませんね。
(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
クリスチャン2世妃 エリサベス・アフ・エストリク
1501~1526/在位 (デンマーク王妃、ノルウェー王妃)1515~1523
(スウェーデン王妃)1520~1521
エリサベスはカスティリア王フェリペ1世と女王ファナ・ラ・ローカの王女です。
ファナの病は重くなる一方でしたので叔母マルガレーテの教育を受けて育ちました。
なにしろハプスブルク家、神聖ローマ皇帝の孫、お金もあるでしょってことで
引く手あまただったエリサベスに、最初に手を上げたのがデンマークでした。
デンマーク王クリスチャン2世は、とにかく乱暴者で有名なのです。
1520年の “ ストックホルムの血浴 ” が有名ですが
これはスウェーデンの反乱貴族を「許してあげよう」と晩餐に呼んどいて
大広間で虐殺してしまったという出来事です。
若い頃から残虐、放蕩、無節操でならしていたクリスチャン2世は
すでにディーヴェケという愛妾がいて別に結婚したくなかったのですが
議会がうるさいのでエリサベスと結婚した、というわけで
14歳で嫁いで来た彼女を顧みることはありませんでした。
エリサベスはディーヴェケのみならず、彼女の母シグリドや兄弟にまで
冷たくあしらわれて不幸な新婚時代を過ごします。
これを聞いたハプスブルク家は怒って争いに発展しそうだったのですが
ディーヴェケが急死して一件落着… 毒殺の噂はありますけど不明です。
クリスチャンとの仲は上手くいき始めて良かったですね…と言いたいところですが
それまでの暴君ぶりが仇となり、まずはスウェーデンでグスタフ・バーサの乱、
続いてデンマーク、ノルウェーでも貴族の反乱がおこって退位することになりました。
ちなみにエリサベスはカルマル連合最後のスウェーデン王妃です。
クリスチャン一家はネーデルラントに亡命することになりました。
後を継いだフレデリク1世はハプスブルク家とのこともあって
エリサベスだけでもデンマークにとどまってほしいと手紙を出したんですけど
“ 王がいるところが私のいるところ ” と返事を出して一緒に旅立ちます。
エリサベスは途中でドイツ国内をまわって親族を訪ね
クリスチャンを復位させようとしていました。
もうっ、どこまで尽くす女なのっ
その時にベルリンやニュルンベルクでプロテスタントにふれました。
ハプスブルク家の手前信仰は隠していましたがかなり傾倒したようで
24歳で亡くなる前に、カトリックとプロテスタント両方の終油を受けています。
クリスチャン2世は、貴族には人気がなかったかもしれませんが
農村部では支持が厚かったそうで、何度か復位の動きがありました。
ノルウェーに攻め入ったりもしましたが、フレデリク1世におびき出され
捕らえられて監禁生活の末1559年に亡くなりました。
もしデンマークに残っていたら長生きしたかもしれないのにね、エリサベス。
そんなに尽くさなくたっていいのに、なんて思うけど
乱暴者のイメージが強い男性も愛する人には優しかったりするからね…
何か彼女を惹きつけるものがあったのかもしれませんね。
(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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