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新しいスウェーデン王妃像へ一歩踏み出した王妃
オスカル2世妃 ソフィア・アヴ・ナッソウ
1836~1913/在位 (スウェーデン王妃)1872~1907 (ノルウェー王妃)1836~1905
(すったもんだの末)ノーベル賞を発足した君主として名を遺すオスカル2世は
プロイセン好きで国内外から批判され、ノルウェーにも悲願の独立を果たされて
良いところ無し… のようですが、スウェーデン国民には人気があったようです。
オスカル2世がどうのというより、社会の構図が目まぐるしく変化していた時代ですものね。
そんなオスカル2世の妃はナッソウ公ヴィルヘルム公女ソフィアです。
義兄カール15世妃の妃ロヴィーナは遠い親戚にあたるのかしらね?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/9b/0e24d62e030e2b47313a33e044d455ad.jpg)
オスカルとソフィアはお互い自ら相手のとの結婚を承諾して結婚したそうです。
当時の王家の結婚にしては、親や議会任せでないところが珍しいですね。
1857年に結婚した時、王太子だったカールと王太子妃ロヴィーナには
まだ嫡子が生まれていなくて、オスカル夫婦に期待がかかりました。
二人の結婚生活はとても幸せなものだったと考えられています。
ソフィアは義兄カールの浮ついた雰囲気とフランス趣味とカトリックの風潮が嫌いでした。
教養があって思慮深く、高貴で穏やか、と王妃になるにはもってこいの性格に思えますが
宮廷の中心になる王妃になるには退屈な女性と考えられていました。
オスカル夫妻は、王太子になるまではArvfurstens宮殿で静かに暮らしていました。
オスカル2世も兄カール15世同様ちょこちょこ浮気をしたみたいですが
ソフィアは浮気をかぎつけると田舎の領地にこもって抗議したそうです。
オスカルは謝りに行ったんでしょうね… 可愛いね![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp31.gif)
王妃になってからはリベラルで民主主義的な考えを持つようになりまして
対照的な考えを持つ息子グスタフ(5世)の妃ヴィクトリアとは全く気が合いませんでした。
ソフィアは王子たちをパブリックスクールに入れています。
これには夫のオスカルもビックリ!![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp04.gif)
また、次男オスカルが長男グスタフの妃ヴィクトリアの侍女エヴァ・ムンクと
結婚したいと言った時も、四男ユーハンがパリで芸術を学びたがった時も後押ししました。
ソフィアは表立って政治に参加をしていませんが
そこはかとなくオスカル2世に影響力を持っていたようです。
王太子グスタフ(5世)は、ノルウェーに無条件独立をさせるよう
ずっと父王を説得していましたが、ソフィアの後ろ盾があったのかもね。
信心深く慈善心に富んでいたソフィアは、ヘルスケアと薬に興味を持ち
ナイチンゲールの影響を受けて、スウェーデン初の看護学校も設立しました。
ソフィアは、薬などの高い知識を持つ看護婦を育て
看護の仕事が ” 聖なる勤め ” と見なされて、医者からも尊敬されるようになり
上流家庭からも看護婦を目指す女性が出てくることを望んでいました。
ソフィアの頑張りの甲斐あって、看護学校には貴族出身の娘さんもいたそうです。
なんでも庶民の娘さんと同じく床磨きまでやらされたそうで… 卒業までもったんでしょうか?
1887年頃から健康が衰えたソフィアは、卵巣の手術をして一応成功したのですが
歩行が困難になって車いすを使うようになり、頻繁に温泉療養に出かけました。
それでも積極的に重要な事業には参加し、乗馬も!こなしていました。
1913年に77歳で亡くなりました。
孫の一人が “ 古い時代はおばあさまとともに葬られた ” と記しています。
でも、けっこう時代を見据えた王妃様だったんじゃないかしら?
ソフィア自身はヴィクトリア女王的な生活を営んでいましたが
新しい流れも掴んでいたようです、というか
世の移り変りを冷静に受け止めていたんじゃないですかね?
なかなか受け容れようとしなかった(主にブルボン家あたり)の王侯妃が多かった時代
たとえ歩幅は小さくても、新しい一歩を踏み出した勇敢な王妃だったと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/62/de87bf381389b7c6e104a854a0f89648.jpg)
晩年のソフィア妃、信頼できそうな方ですね
(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)
オスカル2世妃 ソフィア・アヴ・ナッソウ
1836~1913/在位 (スウェーデン王妃)1872~1907 (ノルウェー王妃)1836~1905
(すったもんだの末)ノーベル賞を発足した君主として名を遺すオスカル2世は
プロイセン好きで国内外から批判され、ノルウェーにも悲願の独立を果たされて
良いところ無し… のようですが、スウェーデン国民には人気があったようです。
オスカル2世がどうのというより、社会の構図が目まぐるしく変化していた時代ですものね。
そんなオスカル2世の妃はナッソウ公ヴィルヘルム公女ソフィアです。
義兄カール15世妃の妃ロヴィーナは遠い親戚にあたるのかしらね?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/9b/0e24d62e030e2b47313a33e044d455ad.jpg)
オスカルとソフィアはお互い自ら相手のとの結婚を承諾して結婚したそうです。
当時の王家の結婚にしては、親や議会任せでないところが珍しいですね。
1857年に結婚した時、王太子だったカールと王太子妃ロヴィーナには
まだ嫡子が生まれていなくて、オスカル夫婦に期待がかかりました。
二人の結婚生活はとても幸せなものだったと考えられています。
ソフィアは義兄カールの浮ついた雰囲気とフランス趣味とカトリックの風潮が嫌いでした。
教養があって思慮深く、高貴で穏やか、と王妃になるにはもってこいの性格に思えますが
宮廷の中心になる王妃になるには退屈な女性と考えられていました。
オスカル夫妻は、王太子になるまではArvfurstens宮殿で静かに暮らしていました。
オスカル2世も兄カール15世同様ちょこちょこ浮気をしたみたいですが
ソフィアは浮気をかぎつけると田舎の領地にこもって抗議したそうです。
オスカルは謝りに行ったんでしょうね… 可愛いね
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp31.gif)
王妃になってからはリベラルで民主主義的な考えを持つようになりまして
対照的な考えを持つ息子グスタフ(5世)の妃ヴィクトリアとは全く気が合いませんでした。
ソフィアは王子たちをパブリックスクールに入れています。
これには夫のオスカルもビックリ!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp04.gif)
また、次男オスカルが長男グスタフの妃ヴィクトリアの侍女エヴァ・ムンクと
結婚したいと言った時も、四男ユーハンがパリで芸術を学びたがった時も後押ししました。
ソフィアは表立って政治に参加をしていませんが
そこはかとなくオスカル2世に影響力を持っていたようです。
王太子グスタフ(5世)は、ノルウェーに無条件独立をさせるよう
ずっと父王を説得していましたが、ソフィアの後ろ盾があったのかもね。
信心深く慈善心に富んでいたソフィアは、ヘルスケアと薬に興味を持ち
ナイチンゲールの影響を受けて、スウェーデン初の看護学校も設立しました。
ソフィアは、薬などの高い知識を持つ看護婦を育て
看護の仕事が ” 聖なる勤め ” と見なされて、医者からも尊敬されるようになり
上流家庭からも看護婦を目指す女性が出てくることを望んでいました。
ソフィアの頑張りの甲斐あって、看護学校には貴族出身の娘さんもいたそうです。
なんでも庶民の娘さんと同じく床磨きまでやらされたそうで… 卒業までもったんでしょうか?
1887年頃から健康が衰えたソフィアは、卵巣の手術をして一応成功したのですが
歩行が困難になって車いすを使うようになり、頻繁に温泉療養に出かけました。
それでも積極的に重要な事業には参加し、乗馬も!こなしていました。
1913年に77歳で亡くなりました。
孫の一人が “ 古い時代はおばあさまとともに葬られた ” と記しています。
でも、けっこう時代を見据えた王妃様だったんじゃないかしら?
ソフィア自身はヴィクトリア女王的な生活を営んでいましたが
新しい流れも掴んでいたようです、というか
世の移り変りを冷静に受け止めていたんじゃないですかね?
なかなか受け容れようとしなかった(主にブルボン家あたり)の王侯妃が多かった時代
たとえ歩幅は小さくても、新しい一歩を踏み出した勇敢な王妃だったと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/62/de87bf381389b7c6e104a854a0f89648.jpg)
晩年のソフィア妃、信頼できそうな方ですね
(参考文献 武田龍夫氏『物語スウェーデン史』 Wikipedia英語版)