若さの過信が失墜のもと
マリー・ルイーズ・オミュルフィ
1737~1814/愛妾 1752~1754
マリーはルーアンで生まれましたが、靴職人だったアイルランド人の父が招集されて
亡くなると、母親とともにパリに出ました。
稀代の女性讃美者カサノヴァによると、彼がマリーを見いだした時
みすぼらしく薄汚れていて小動物のようだった…ということです。
マイ・フェア・レディみたいに磨きあげ甲斐がありそうですね。
絵のヌードモデルになっていたということですから
母娘ともどもパリにやってきてからは(いろいろと)苦労していたと思われます。
14歳の時にモデルをつとめたブーシェの絵画がマリーの人生を変えます。
この絵に高値をつけて買ったのが、42歳・男盛りのルイ15世でした。
ポンパドゥール夫人が早速マリーを鹿の園に呼び寄せ愛妾の一人になりました。
すぐにお気に入りになったということです。
愛妾になって2年ほどたった時、マリーは決定的なミスをおかします。
そのミスとは、ポンパドゥール夫人の座を奪って公妾につこうとした、というものです。
自分は20歳前後の瑞々しい娘で、相手は33歳で容色が衰え始めた女性…
すでに愛妾になって10年近くたっているし、王の寝所からは退いている…
娘のアガタ・ルイーズも生まれました。
お気に入りの自分がとってかわれないわけがないと考えがちですよね。
たぶん、鹿の園にいた女性たちの中でそう考えた人も多かったでしょう。
しかしこの思惑は失敗に終わり、マリーの宮廷での立場は失墜します。
ポンパドゥール夫人は素早くマリーとボーフランシェ伯を結婚させました。
ボーフランシェ伯は1757年にロスバッハの戦いで亡くなりました。
マリーはその後2回結婚しています。
3人目の夫は30歳も若かったそうですが離婚に終わっています。
フランス革命中は王家と関係があったということで投獄されましたが生き延び
77歳で亡くなりました。
若すぎたのね… なぜポンパドゥール夫人がルイ15世とベッドを共にしなくても
愛妾として高い地位にいられたかをよ~く考えてから行動しなければ…
そうすればもう少し長く贅沢ができたかもしれなかったのにね。
(参考文献 Wikipedia英語版)
マリー・ルイーズ・オミュルフィ
1737~1814/愛妾 1752~1754
マリーはルーアンで生まれましたが、靴職人だったアイルランド人の父が招集されて
亡くなると、母親とともにパリに出ました。
稀代の女性讃美者カサノヴァによると、彼がマリーを見いだした時
みすぼらしく薄汚れていて小動物のようだった…ということです。
マイ・フェア・レディみたいに磨きあげ甲斐がありそうですね。
絵のヌードモデルになっていたということですから
母娘ともどもパリにやってきてからは(いろいろと)苦労していたと思われます。
14歳の時にモデルをつとめたブーシェの絵画がマリーの人生を変えます。
この絵に高値をつけて買ったのが、42歳・男盛りのルイ15世でした。
ポンパドゥール夫人が早速マリーを鹿の園に呼び寄せ愛妾の一人になりました。
すぐにお気に入りになったということです。
愛妾になって2年ほどたった時、マリーは決定的なミスをおかします。
そのミスとは、ポンパドゥール夫人の座を奪って公妾につこうとした、というものです。
自分は20歳前後の瑞々しい娘で、相手は33歳で容色が衰え始めた女性…
すでに愛妾になって10年近くたっているし、王の寝所からは退いている…
娘のアガタ・ルイーズも生まれました。
お気に入りの自分がとってかわれないわけがないと考えがちですよね。
たぶん、鹿の園にいた女性たちの中でそう考えた人も多かったでしょう。
しかしこの思惑は失敗に終わり、マリーの宮廷での立場は失墜します。
ポンパドゥール夫人は素早くマリーとボーフランシェ伯を結婚させました。
ボーフランシェ伯は1757年にロスバッハの戦いで亡くなりました。
マリーはその後2回結婚しています。
3人目の夫は30歳も若かったそうですが離婚に終わっています。
フランス革命中は王家と関係があったということで投獄されましたが生き延び
77歳で亡くなりました。
若すぎたのね… なぜポンパドゥール夫人がルイ15世とベッドを共にしなくても
愛妾として高い地位にいられたかをよ~く考えてから行動しなければ…
そうすればもう少し長く贅沢ができたかもしれなかったのにね。
(参考文献 Wikipedia英語版)
(書き込みさせていただいて宜しいでしょうか?)。
ポンパドゥール侯妃が、
モンテスパン侯妃とマントノン侯妃の資料を取り寄せて、
後者を参考にすることにしたらしいエピソードが
「ヴェルサイユ宮廷の女性たち」に書かれていたのを思い出しました。
拝読しているうちに、昔読んだいろいろなことを思い出すものですから
なんとなく楽しくなってついコメントさせていただきました。
……そういえば一緒に、マントノン侯妃がユトレヒトの和約で活躍したらしいエピソードや、
墓が革命のときに暴かれて
遺体がひどい目にあったらしいことまで思いだしました…
公妾の歴史はもっと明るみに出たほうがいいですね。
コメントありがとうございます。
ポンパドゥール夫人はマントノン夫人を参考にしていたんですね。
果たしてルイ15世に通用するのか…ある意味賭けですね。
見事にはまるとは、さすがポンパドゥール夫人ですね。
寵姫のエピソード集などは、有名どころをのぞいては、どうも艶っぽい話に終始しがちなところもありますが、そうではない部分も知りたいですよね。
寵愛を繋ぎ止めるための努力や、貴婦人たちとの確執など、いろいろ気苦労も多かったろう…なんて思ったりします。