ロマノフ家を怯えさせたリベラリスト
アレクサンドル2世妃 エカチェリーナ(カーチャ)・ドルゴルスカヤ
1847~1922/在位せず
前皇妃マリーヤの生前から別宅で夫婦同然の暮らしをしていたアレクサンドル2世と
エカチェリーナ(以下カーチャ)は、マリーヤが亡くなると数ヶ月後に結婚しました。
貴賤結婚で皇妃の称号は与えられなかったようですが
皇帝にはかなり影響力があったようだし、自由思想の持ち主だったらしいので
称号なんてあってもなくても関係なかったんじゃないかしら?
カーチャは没落貴族の娘で、小さな頃一度アレクサンドルに会っています。
父親の死後は宮廷の援助で良家のための女学校に通いました。
カーチャが16歳の時、アレクサンドル2世が女学校に視察にやって来て
早速彼女を気に入りました、 とは言っても、皇帝は彼女と語り合うのが好きで
その後も度々女学校を訪れては自由主義などについて議論したということです。
でも、そう見せかけて実は下心があったのかもしれませんね
女学校の卒業後は皇妃マリーヤの侍女にして呼び寄せているし
彼女が19歳になった時にちゃっかり愛妾にしちゃってますから。
ちなみにアレクサンドルが48歳の時でした。
カーチャは宮殿のすぐ近くに館を与えられました。
アレクサンドルは週3~4回ほど通い子供も3人生まれてまさに二重生活です。
カーチャの影響力は次第に大きくなり看過しておけなくなります。
皇妃マリーヤとの間に生まれた皇子たちとアレクサンドル2世の間には
深~い溝ができてしまったらしいよ…
アレクサンドル2世は農奴解放令などを発したり、資本主義化に着手したりと
自由主義的な傾向がありましたが、これはカーチャに出会う前からでした。
もしかするとカーチャの影響でさらに専制君主制を脅かす行動に
出ようとしていたのかしら?
いずれにしてもアレクサンドル2世の自由化は貴族や領主の利権を守りつつ行われたので
中途半端なものになり、不満を抱えた急進派たちから命を狙われることになります。
1880年に結婚したアレクサンドル2世とカーチャでしたが
ロマノフ家はもちろんこれを認めませんでした。
結婚の翌年アレクサンドル2世が暗殺されると、カーチャはロシアから出ていくことを条件に
400万リーブルの年金を手に入れてフランスへ渡りました。
パリやリヴィエラでは粋な女主人という評判を得ていたらしいのですが
ロマノフ家は彼女のことを警戒していました。
外国から革命を指揮するとでも思ったのでしょうか? スパイまでつけていたそうですよ。
1917年にロシア革命がおこりロマノフ家と専制君主体制が崩壊します。
カーチャは追放されていて、かえってラッキーだったかもしれませんが
頼みの年金が止まり次第に困窮するようになります。
財産を使い果たした後、1922年に亡くなりました。
本当の改革派だったら革命中に活躍の場はあったと思うのですけれど…
没落したとはいえやはり貴族、貧困とはほど遠い生活を送ってきていますので
真の革命家にはなれなかったんでしょうかね?
(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)
アレクサンドル2世妃 エカチェリーナ(カーチャ)・ドルゴルスカヤ
1847~1922/在位せず
前皇妃マリーヤの生前から別宅で夫婦同然の暮らしをしていたアレクサンドル2世と
エカチェリーナ(以下カーチャ)は、マリーヤが亡くなると数ヶ月後に結婚しました。
貴賤結婚で皇妃の称号は与えられなかったようですが
皇帝にはかなり影響力があったようだし、自由思想の持ち主だったらしいので
称号なんてあってもなくても関係なかったんじゃないかしら?
カーチャは没落貴族の娘で、小さな頃一度アレクサンドルに会っています。
父親の死後は宮廷の援助で良家のための女学校に通いました。
カーチャが16歳の時、アレクサンドル2世が女学校に視察にやって来て
早速彼女を気に入りました、 とは言っても、皇帝は彼女と語り合うのが好きで
その後も度々女学校を訪れては自由主義などについて議論したということです。
でも、そう見せかけて実は下心があったのかもしれませんね
女学校の卒業後は皇妃マリーヤの侍女にして呼び寄せているし
彼女が19歳になった時にちゃっかり愛妾にしちゃってますから。
ちなみにアレクサンドルが48歳の時でした。
カーチャは宮殿のすぐ近くに館を与えられました。
アレクサンドルは週3~4回ほど通い子供も3人生まれてまさに二重生活です。
カーチャの影響力は次第に大きくなり看過しておけなくなります。
皇妃マリーヤとの間に生まれた皇子たちとアレクサンドル2世の間には
深~い溝ができてしまったらしいよ…
アレクサンドル2世は農奴解放令などを発したり、資本主義化に着手したりと
自由主義的な傾向がありましたが、これはカーチャに出会う前からでした。
もしかするとカーチャの影響でさらに専制君主制を脅かす行動に
出ようとしていたのかしら?
いずれにしてもアレクサンドル2世の自由化は貴族や領主の利権を守りつつ行われたので
中途半端なものになり、不満を抱えた急進派たちから命を狙われることになります。
1880年に結婚したアレクサンドル2世とカーチャでしたが
ロマノフ家はもちろんこれを認めませんでした。
結婚の翌年アレクサンドル2世が暗殺されると、カーチャはロシアから出ていくことを条件に
400万リーブルの年金を手に入れてフランスへ渡りました。
パリやリヴィエラでは粋な女主人という評判を得ていたらしいのですが
ロマノフ家は彼女のことを警戒していました。
外国から革命を指揮するとでも思ったのでしょうか? スパイまでつけていたそうですよ。
1917年にロシア革命がおこりロマノフ家と専制君主体制が崩壊します。
カーチャは追放されていて、かえってラッキーだったかもしれませんが
頼みの年金が止まり次第に困窮するようになります。
財産を使い果たした後、1922年に亡くなりました。
本当の改革派だったら革命中に活躍の場はあったと思うのですけれど…
没落したとはいえやはり貴族、貧困とはほど遠い生活を送ってきていますので
真の革命家にはなれなかったんでしょうかね?
(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)