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ロシア皇帝アレクサンドル2世妃 エカチェリーナ

2009-07-22 00:47:17 | ロシア皇妃
ロマノフ家を怯えさせたリベラリスト
アレクサンドル2世妃 エカチェリーナ(カーチャ)・ドルゴルスカヤ


1847~1922/在位せず

前皇妃マリーヤの生前から別宅で夫婦同然の暮らしをしていたアレクサンドル2世と
エカチェリーナ(以下カーチャ)は、マリーヤが亡くなると数ヶ月後に結婚しました。

貴賤結婚で皇妃の称号は与えられなかったようですが
皇帝にはかなり影響力があったようだし、自由思想の持ち主だったらしいので
称号なんてあってもなくても関係なかったんじゃないかしら?

カーチャは没落貴族の娘で、小さな頃一度アレクサンドルに会っています。
父親の死後は宮廷の援助で良家のための女学校に通いました。
     
カーチャが16歳の時、アレクサンドル2世が女学校に視察にやって来て
早速彼女を気に入りました、 とは言っても、皇帝は彼女と語り合うのが好きで
その後も度々女学校を訪れては自由主義などについて議論したということです。
でも、そう見せかけて実は下心があったのかもしれませんね

女学校の卒業後は皇妃マリーヤの侍女にして呼び寄せているし
彼女が19歳になった時にちゃっかり愛妾にしちゃってますから。
ちなみにアレクサンドルが48歳の時でした。

カーチャは宮殿のすぐ近くに館を与えられました。
アレクサンドルは週3~4回ほど通い子供も3人生まれてまさに二重生活です。
カーチャの影響力は次第に大きくなり看過しておけなくなります。
皇妃マリーヤとの間に生まれた皇子たちとアレクサンドル2世の間には
深~い溝ができてしまったらしいよ…

アレクサンドル2世は農奴解放令などを発したり、資本主義化に着手したりと
自由主義的な傾向がありましたが、これはカーチャに出会う前からでした。
もしかするとカーチャの影響でさらに専制君主制を脅かす行動に
出ようとしていたのかしら?

いずれにしてもアレクサンドル2世の自由化は貴族や領主の利権を守りつつ行われたので
中途半端なものになり、不満を抱えた急進派たちから命を狙われることになります。

1880年に結婚したアレクサンドル2世とカーチャでしたが
ロマノフ家はもちろんこれを認めませんでした。
結婚の翌年アレクサンドル2世が暗殺されると、カーチャはロシアから出ていくことを条件に
400万リーブルの年金を手に入れてフランスへ渡りました。

パリやリヴィエラでは粋な女主人という評判を得ていたらしいのですが
ロマノフ家は彼女のことを警戒していました。
外国から革命を指揮するとでも思ったのでしょうか? スパイまでつけていたそうですよ。

1917年にロシア革命がおこりロマノフ家と専制君主体制が崩壊します。
カーチャは追放されていて、かえってラッキーだったかもしれませんが
頼みの年金が止まり次第に困窮するようになります。
財産を使い果たした後、1922年に亡くなりました。

本当の改革派だったら革命中に活躍の場はあったと思うのですけれど…
没落したとはいえやはり貴族、貧困とはほど遠い生活を送ってきていますので
真の革命家にはなれなかったんでしょうかね?

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)

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脳みその代わりに藁が詰まっているとされた寵姫 (メリエンダ)
2018-10-25 17:14:03
エカチェリーナは、農奴解放て有名なロシア皇帝アレクサンドル2世の寵姫にして、皇妃亡き後は、貴賎結婚した最愛の女性。どの王国、王室でも、“寵姫”という存在は嫌われるものですが、特にこの二人の仲は皇帝家族は勿論、宮廷中に嫌われていたらしいですね。にも関わらず、二人は、互いに“サーシャ”“カーチャ”と呼び合う程に仲睦まじく(笑)、家族や重臣達は、皇妃ですら呼んだ事がない、徒名で呼ぶカーチャの馴れ馴れしさ、図々しさに、怒り心頭だったらしいですね。だけども、幸か不幸か、カーチャは、お世辞にも賢いとは言えず、しかも並外れて好色な女性だったらしく、アレが何よりも大好き(笑)!二人は一日中アレに明け暮れ、皇帝がし過ぎて体を壊したとされ、ドクターストップがかかった時も、医者の忠告を無視して、快楽を堪能していたらしく、カーチャが出産で、スル事ができないのを嘆き悲しみ、できるようになったら、ヤリまくろう(笑)!と懇願した手紙を送る程‥世間の人々は、カーチャが好色過ぎて、皇帝を消耗させ、判断力を鈍らせている、なんて噂する程‥それだけ?ならギリギリまで許せたかも知れませんが、家族や重臣達から心が離れるような事件が‥皇帝の邸が襲われた際、皇帝は、家族、とりわけ皇妃が病気で寝ていたのを無視し、真っ先に、カーチャの名前を叫び続け、探していたらしく、これには、家族、息子が怒りにわななかせ、カーチャをより一層憎むようになり、カーチャは、皇妃の座を狙い、自身の息子を皇帝に、と企んでいる、と噂を流して彼女を追い出すことに全力を尽くす事に‥哀れな皇妃が亡くなり、カーチャと貴賎結婚し、庶子を正式な実子にすることができ、周りの冷たい反応は気にせず、カーチャは至福の時を手にしたけれど、皇帝が暗殺され、カーチャは追い出され、異国で寂しく子供達と暮らす羽目に、カーチャを憎み、軽蔑した後のアレクサンドル3世は、カーチャと子供達を厳重に見張らせたらしいですが、カーチャは、アレクサンドル2世を愛していただけの女性で、彼と共にあれば良かったらしく、権勢には興味がなかったのではないでしょうか?アレクサンドル3世は猜疑心が強すぎる気がします。父が母を蔑ろにした元凶たるカーチャが許せなかったからでしょうか?

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