古き良き時代の高貴な王妃
ジョージ5世妃 メアリー・オブ・テック
1867~1953/在位 1910~1936
メアリーが最初に婚約したのはジョージの兄、王太子アルバートでした。
アルバートは父王エドワード7世の放蕩な部分を多大に受け継いでいたようで
女性関係や素行の悪さが話題になっていました。
当時“ 切り裂きジャック ” はアルバートだと噂されたほどです
そんなアルバートが、フランス人伯爵の娘でカトリックのエレーヌと結婚したいと言いだし
慌てた両親が花嫁候補として選んだ中、承諾したのがメアリーでした。
メアリーの母ヴィクトリアは、ジョージ3世の孫娘でヴィクトリア女王の従妹にあたり
白羽の矢が立ったようです。
アルバートは(不品行が原因で)他の候補に断られていました。
ところが結婚の1ヶ月前、アルバートは病にかかり1週間後に亡くなってしまいます。
アルバートの最期に付き添っていたメアリーの前で、彼はエレーヌの名を口にしました。
しかし、こう言っちゃなんだけど、これがメアリーにはラッキーだったんじゃないか?
なぜなら、そんなメアリーが結婚したアルバートの弟ジョージ(後の5世)は
お勉強の方はちょっと不得手だったらしいけれど、真面目な好人物で
女性問題などもない男性だったんですから。
アルバートの両親であるエドワード7世夫婦と祖母のヴィクトリア女王は
すでに国民の人気者であったメアリーを手放したくなくて
弟のジョージを彼女と結婚させようと目論みます。
ジョージも、従妹でルーマニア王妃となったマリー・オブ・エディンバラに失恋したばかりで
二人の結婚はまったくの同情、あるいはお家事情によると言われました。
でも二人がやりとりした手紙から、お互いが愛し合って結婚したことがわかったそうです。
エドワード7世とアレグザンドラ妃は自由で愉快なことが大好きな人たちでしたが
ジョージとメアリーはヴィクトリア女王に倣って
厳格で堅実な王家のイメージづくりに励みました。
夫が王になってからは、世界大戦中疎開せずロンドンに残ったり、兵士を慰問したりして
国民からの信頼を得ていきました。
また、国民感情を意識して、“ サクス・コバーク=ゴータ家 ” というドイツ名を
“ ウィンザー家 ” に改名したのもジョージ5世でした。
(これはドイツが大っ嫌いだったアレグザンドラ王太后の主張だったようです)
メアリーは公務に一切不平を言わず、国民を愛する王妃ではありましたが
王妃という立場を重く意識していて、国民とは一線を隔していたようです。
一般の英国民が王妃の声を聞いたのはただ一度だけ、
客船クイーン・メアリー号の進水式のラジオ放送だけだったということです。
また、息子ジョージ6世が即位し、王太后となって隠居した後も
自分の宮殿では使用人たちに旧式の衣服を着せていました。
長男エドワード(8世)が王位を投げ出した時にも厳しい態度で臨み
死ぬまでシンプソン夫人に会うことはありませんでした。
次男ジョージ6世に先立たれ、孫娘エリザベス2世の戴冠式の2ヶ月前に亡くなります。
「決して(エリザベス2世の)戴冠式を延期しないように」と強く言い残していったメアリーは
王室の気品と格式を、頑固なまでに守り通した最後の王妃だったかもしれません。
後年のメアリー妃です。
貫禄があって頼りになりそうですね。
余談です
私のようなドールハウス好きには、クイーン・メアリーはかなり有名です。
彼女は、ドールハウスの縮尺を12分の1に決めた人と言われていて
ウィンザー城の『クイーン・メアリーのドールハウス』はドールハウス好きなら
誰もが見に行きたいと憧れているものでございます。
(参考文献 デボラ・フィッシャー『プリンセス・オブ・ウェールズ』)
何名かの皇太子妃をピックアップしてエピソードが書かれています
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね
ジョージ5世妃 メアリー・オブ・テック
1867~1953/在位 1910~1936
メアリーが最初に婚約したのはジョージの兄、王太子アルバートでした。
アルバートは父王エドワード7世の放蕩な部分を多大に受け継いでいたようで
女性関係や素行の悪さが話題になっていました。
当時“ 切り裂きジャック ” はアルバートだと噂されたほどです
そんなアルバートが、フランス人伯爵の娘でカトリックのエレーヌと結婚したいと言いだし
慌てた両親が花嫁候補として選んだ中、承諾したのがメアリーでした。
メアリーの母ヴィクトリアは、ジョージ3世の孫娘でヴィクトリア女王の従妹にあたり
白羽の矢が立ったようです。
アルバートは(不品行が原因で)他の候補に断られていました。
ところが結婚の1ヶ月前、アルバートは病にかかり1週間後に亡くなってしまいます。
アルバートの最期に付き添っていたメアリーの前で、彼はエレーヌの名を口にしました。
しかし、こう言っちゃなんだけど、これがメアリーにはラッキーだったんじゃないか?
なぜなら、そんなメアリーが結婚したアルバートの弟ジョージ(後の5世)は
お勉強の方はちょっと不得手だったらしいけれど、真面目な好人物で
女性問題などもない男性だったんですから。
アルバートの両親であるエドワード7世夫婦と祖母のヴィクトリア女王は
すでに国民の人気者であったメアリーを手放したくなくて
弟のジョージを彼女と結婚させようと目論みます。
ジョージも、従妹でルーマニア王妃となったマリー・オブ・エディンバラに失恋したばかりで
二人の結婚はまったくの同情、あるいはお家事情によると言われました。
でも二人がやりとりした手紙から、お互いが愛し合って結婚したことがわかったそうです。
エドワード7世とアレグザンドラ妃は自由で愉快なことが大好きな人たちでしたが
ジョージとメアリーはヴィクトリア女王に倣って
厳格で堅実な王家のイメージづくりに励みました。
夫が王になってからは、世界大戦中疎開せずロンドンに残ったり、兵士を慰問したりして
国民からの信頼を得ていきました。
また、国民感情を意識して、“ サクス・コバーク=ゴータ家 ” というドイツ名を
“ ウィンザー家 ” に改名したのもジョージ5世でした。
(これはドイツが大っ嫌いだったアレグザンドラ王太后の主張だったようです)
メアリーは公務に一切不平を言わず、国民を愛する王妃ではありましたが
王妃という立場を重く意識していて、国民とは一線を隔していたようです。
一般の英国民が王妃の声を聞いたのはただ一度だけ、
客船クイーン・メアリー号の進水式のラジオ放送だけだったということです。
また、息子ジョージ6世が即位し、王太后となって隠居した後も
自分の宮殿では使用人たちに旧式の衣服を着せていました。
長男エドワード(8世)が王位を投げ出した時にも厳しい態度で臨み
死ぬまでシンプソン夫人に会うことはありませんでした。
次男ジョージ6世に先立たれ、孫娘エリザベス2世の戴冠式の2ヶ月前に亡くなります。
「決して(エリザベス2世の)戴冠式を延期しないように」と強く言い残していったメアリーは
王室の気品と格式を、頑固なまでに守り通した最後の王妃だったかもしれません。
後年のメアリー妃です。
貫禄があって頼りになりそうですね。
余談です
私のようなドールハウス好きには、クイーン・メアリーはかなり有名です。
彼女は、ドールハウスの縮尺を12分の1に決めた人と言われていて
ウィンザー城の『クイーン・メアリーのドールハウス』はドールハウス好きなら
誰もが見に行きたいと憧れているものでございます。
(参考文献 デボラ・フィッシャー『プリンセス・オブ・ウェールズ』)
何名かの皇太子妃をピックアップしてエピソードが書かれています
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね
コメントありがとうございます。
このブログを書いた時に肖像画をいろんなところから探して載せているのですが、どこから探してきたのか忘れてしまいました。
たしかにお母様と混同しているかもしれないです
というわけで写真を差し替えました。
またお気づきの点があったら教えて下さい。
こちらの記事の、後年のメアリー妃のお写真ですが、これはメアリー妃の母のメアリー・アデレードさんではないでしょうか? 彼女確か「ふとっちょメアリー」と呼ばれていたとか…
メアリー・オブ・テックの後年時代となると、服装ももっと現代っぽいかと思いますし。
しかし仮にお母様だとすると、結構よく似た母子ですね。