まりっぺのお気楽読書

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ハンガリー王ラヨシュ1世妃 エルジェーベト

2010-09-24 00:42:15 | ハンガリー王妃
実例、王子がいない母の悲劇
ラヨシュ1世妃 エルジェーベト・コトロマニッチ


1339~1387/在位 (ハンガリー王妃)1353~1382 (ポーランド王妃)1370~1382

16歳で即位したラヨシュ1世は母エルジェーベト・ピアストの尽力もあって
神聖ローマ皇帝カール4世の皇女マルギット・ルクセンブルギ(7歳)と結婚しましたが
彼女は14歳で亡くなりました。
ハンガリーでは14歳にならないと正式に結婚ができなかったようで
マルギットは故郷で過ごし、ハンガリーにやってきてすぐに亡くなったみたいです。

続いて母后が目をつけたのがボスニア王ステファン2世の王女エルジェーベトで
10歳の王女を「教育するから」とハンガリーに無理くり招待し
3年後にステファン2世も招待され、結婚が決まりました。

       

1353年、14歳でラヨシュに嫁いだエルジェーベト(コトロマニッチ)でしたが
彼女は完全に母后エルジェーベト(ピアスト)の支配下にありました。

エルジェーベト(コ)は自分の従者を持つことも許されなくて
母后エルジェーベト(ピ)の従者にとりまかれることになります。
つまり、なにもかも姑に筒抜けってことね… やだやだ

威圧的で尊大な姑に耐えること17年、やっと解放される日が…

ラヨシュはポーランド王ルドヴィク1世として即位すると
母后エルジェーベト(ピ)を摂政に任命しました。
お義母様はポーランドへ…すごく嬉しかったと思うわ。

それが良かったのか、17年間子宝に恵まれなかったエルジェーベト(コ)は
懐妊して王女カタリンが誕生しました(8歳で夭逝)
その後王女マリアとヘドヴィクが生まれます。
でも王女ばかり…これは後々厄介ごとを生みそうな気配ですね。

だのにエルジェーベト(ピ)ったら、ポーランドでも威張り散らして追い出され
さっさと戻ってきやがった

そんな姑も1380年に亡くなり(しかも城まで遺してくれて)ホッとしたのも束の間
エルジェーベト(コ)の本当の苦難はここから始まります。

ここからは細かく書くと長くなるのではしょるけど
ラヨシュ1世の後を継いだ10歳の王女マリアと、摂政エルジェーベト(コ)を
認める貴族は少なく、反乱と投獄と逃避行の日々が待っていました。
それにまわりは王位をねらう敵だらけ、暗殺を恐れて過ごす毎日でした。

逆に強い母となる時もありました。
反対派貴族が王にしたカーロイ2世を暗殺します。
これがカーロイ2世未亡人マルゲリータの恨みを買うことになるんですけどね…

マリア女王がルクセンブルク家のジグモンドと結婚した1385年以降
反乱は激しくなります。
1386年、ノビグラードに投獄されますが、この時エルジェーベト(コ)の処刑を
強く訴えたのがカーロイ2世未亡人マルゲリータでした。
1387年、エルジェーベト(コ)は女王マリアの目の前で絞殺されてしまいます。

              
             こちらも逃げ惑うエルジェーベトとマリア

この逮捕劇、実はマリアの夫ジグモンドが仕組んだという説もあります。
あるいは、果敢にもふたりを救おうとノビグラードに向かっていた説もあります。
いずれにしてもジグモンド19歳、たいした奴です。

幼い女王 & 母親摂政 というのは、とかく反乱を招きやすい、危うい王座ですね。
よっぽど強い伴侶か、勝れた政治力を持つ後ろ盾がいないと
崩壊の憂き目に遭うことになります。
特にエルジェーベト(コ)みたいに影の薄い王妃じゃ…

こうなると憎ったらしい姑でも、もう少し長生きして宮廷を牛耳って欲しかった…
という気になりますですね。

(参考文献 Wikipedia英語版)

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