12月9日より大寒波の襲う北海道へ出講していた若院が12日夕どうにか無事に帰山して来ました。
13日夕、久方振りに家族全員で食事をしました。様々な初体験の話が出る中で、北海道の会所でアイフォンを使って万福寺の
ブログを見ていて「驚いた!12月の法語が昨年の法語になっていますよ!」と云うのです。そんな馬鹿な、と私は云うのです
が、「あれは昨年のですよ、画像も今年のは絵ですが、写真になっていますよ!」と云うのでカレンダーを持って来て見ると、正
しく昨年平成23年版カレンダーの法語なのです。「なぜ!なぜ!、????」・・・・・・、余りに大きな間違いのショックに
この大間違いは何故起こったのかと考えてみますと、居間近くの柱に「法語カレンダー」を掛けていますが、過去5、6年のカ
レンダーを重ねて掛けているのです。24年のカレンダーを法話などで使う為にはずしてそのまま12月を迎え、表面に出ている
平成23年12月の法語を考えもせずにスキャーンしてしまったのだと思うのです。それにしても昨年、この法語については解説
をしてアップしていますのにその記憶が飛んでしまっているとは・・・・、なんともお恥ずかしい次第です。お許しくださいます
ように、
12月ももう中半ですが、間が抜けていますが、平成24年12月の法語について書いて置かなければ25年を迎えられません
ので勇気を絞って書いて置くことにいたします。
いよいよ大悲大願はたのもしく 往生は決定(けつじょう)と存じ候へ
このお言葉は『歎異抄』第9章にあるお言葉です。第9章は比較的長い文章になっていますが、1節々々が重要な意味を持つ文
節が詰まっている一章なのです。
若い真摯な求道者「唯円房」の問いから始まります。
「お念仏申させていただいておりますが、躍り上がるような喜びもなく、また急いでお浄土に参りたいと云う心も起こってきま
せんが、このようなことでいいのでしょうか」と、唯円房は80数才の親鸞聖人に問いお尋ねしたのです。
すると聖人は「唯円房もそのような思いを持っていましたか、親鸞も同じ不審を持っております・・・・、このことをよくよく
考えてみますと、天に踊り地に踊るべきことを喜ばないのはいよいよお浄土に往生させていただくことは間違いなく定まっている
ことだと味あわせていただいております。」
このようなお二人の意味深重な対話から聖人の語りが展開して行くという一章となっています。
12月の法語のお言葉の前にはこのような聖人のお言葉に続いているのです。
「なごりおしい人間境涯ですが、この世(娑婆)との縁が尽きて、私の体力も脳力も気力も全ての力が尽き果てて、人としての
命が終わる時に、かの土(お浄土)に生まれさせていただくのです。急いで往生したいと云う心のない者を殊にあわれみ抱き続け
呼び続けて下さってあるのです。
このような如来さまのお心を思い味わいます時、いよいよ大悲大願はたのもしく、お浄土に往生させていただきますことは間違
いのないことであります。このように心得させていただきましょう。」
この『歎異抄』7章の唯円房の問いに吐露されるお言葉は殊に重要だと思います。どうか何度も何度も繰り返し拝読させていた
だきましょう。
13日夕、久方振りに家族全員で食事をしました。様々な初体験の話が出る中で、北海道の会所でアイフォンを使って万福寺の
ブログを見ていて「驚いた!12月の法語が昨年の法語になっていますよ!」と云うのです。そんな馬鹿な、と私は云うのです
が、「あれは昨年のですよ、画像も今年のは絵ですが、写真になっていますよ!」と云うのでカレンダーを持って来て見ると、正
しく昨年平成23年版カレンダーの法語なのです。「なぜ!なぜ!、????」・・・・・・、余りに大きな間違いのショックに
この大間違いは何故起こったのかと考えてみますと、居間近くの柱に「法語カレンダー」を掛けていますが、過去5、6年のカ
レンダーを重ねて掛けているのです。24年のカレンダーを法話などで使う為にはずしてそのまま12月を迎え、表面に出ている
平成23年12月の法語を考えもせずにスキャーンしてしまったのだと思うのです。それにしても昨年、この法語については解説
をしてアップしていますのにその記憶が飛んでしまっているとは・・・・、なんともお恥ずかしい次第です。お許しくださいます
ように、
12月ももう中半ですが、間が抜けていますが、平成24年12月の法語について書いて置かなければ25年を迎えられません
ので勇気を絞って書いて置くことにいたします。
いよいよ大悲大願はたのもしく 往生は決定(けつじょう)と存じ候へ
このお言葉は『歎異抄』第9章にあるお言葉です。第9章は比較的長い文章になっていますが、1節々々が重要な意味を持つ文
節が詰まっている一章なのです。
若い真摯な求道者「唯円房」の問いから始まります。
「お念仏申させていただいておりますが、躍り上がるような喜びもなく、また急いでお浄土に参りたいと云う心も起こってきま
せんが、このようなことでいいのでしょうか」と、唯円房は80数才の親鸞聖人に問いお尋ねしたのです。
すると聖人は「唯円房もそのような思いを持っていましたか、親鸞も同じ不審を持っております・・・・、このことをよくよく
考えてみますと、天に踊り地に踊るべきことを喜ばないのはいよいよお浄土に往生させていただくことは間違いなく定まっている
ことだと味あわせていただいております。」
このようなお二人の意味深重な対話から聖人の語りが展開して行くという一章となっています。
12月の法語のお言葉の前にはこのような聖人のお言葉に続いているのです。
「なごりおしい人間境涯ですが、この世(娑婆)との縁が尽きて、私の体力も脳力も気力も全ての力が尽き果てて、人としての
命が終わる時に、かの土(お浄土)に生まれさせていただくのです。急いで往生したいと云う心のない者を殊にあわれみ抱き続け
呼び続けて下さってあるのです。
このような如来さまのお心を思い味わいます時、いよいよ大悲大願はたのもしく、お浄土に往生させていただきますことは間違
いのないことであります。このように心得させていただきましょう。」
この『歎異抄』7章の唯円房の問いに吐露されるお言葉は殊に重要だと思います。どうか何度も何度も繰り返し拝読させていた
だきましょう。