万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

6月の法語

2012年05月31日 | Weblog
                               

6月に入りました。依然として朝は冷気を感じます。日中は汗ばむのですが・・・、

 6月の法語

 ただ如来に
  まかせまいらせ
     おわしますべく候う  (ただ如来さまにおまかせすべきです)

 このお言葉は親鸞聖人のお手紙集「末燈鈔」(まっとうしょう)9通目のお手紙の末尾にご教諭くださってあるお言葉です。
このお手紙は「教名房」(きょうみょうぼう)と云う常陸国辺のお弟子からのお訊ねに対してのご返事のお手紙です。
 教名房からのお訊ねは、お聞かせにあずかっている法文の中に「誓願不思議」「名号不思議」とありますがどのような違いのある不思議なのでしょうか?それぞれどのように信じたらいいのでしょうか、と云うようなお訊ねであったのでしょう。聖人は次のように認めておられます。

 御文くわしくうけたまわり候いぬ。さては、その御不審しかるべしともおぼえず候う。そのゆえは、誓願・名号と申してかわりたること候わず。誓願をはなれたる名号も候わず候うなり。名号をはなれたる誓願も候わず候う。かく申し候うも、はからいにて候うなり。 (中略)
 ・・・・往生の業には、わたくしのはからいはあるまじく候うなり。あなかしこ、あなかしこ。
 ただ如来にまかせまいらせおわしますべく候う。あなかしこ、あなかしこ。

    五月五日
                                                    親鸞
  教名御房

  (端書にいわく)
 この文をもって、ひとびとにもみせまいらせたもうべく候う。
 他力には義なきを義とすとは申し候うなり。



 今から50数年前、親鸞聖人700回大遠忌を記念して東京の普通社と云う出版社が親鸞聖人を讃仰する当時の小説家と宗学、真宗史学の権威者による「しんらん全集」10巻が編集出版されました。今読み返して見てもいい企画で新鮮さがあふれています。
 「末燈鈔」の教名房へのご返事のお手紙は作家辻亮一氏が現代語訳されています。今日の紹介部分をあげておきます。

 お手紙によるおたづねの趣、よく分かりました。けれども、この誓願と名号についての貴方の御質問は、今更と思われ、ごもっとものこととは思われません。すべての人を救うとの仏さまの誓願と、仏さまに信順して称念する名号は二位一体であります。誓願の中に名号がこめられ、名号のなかに誓願がこめられています。このように私が申しますのも、このことを分かって頂くための方便に過ぎません。仏さまの誓願を信じきり、名号にこめられた救いの誓いを固く信じ、称念すればよろしいのです。
 (中略)
私達は仏さまの慈悲により救われるのであって、私達の努力とか修行が救われる原因ではありません。たゞ仏さまにおまかせすべきです。
    (五月五日)
                                               (親鸞)
   (教名御房)
 この手紙を他の人々にもお見せ下さい。他力は人間の理論から超越しています。理論はない、というのが他力の理論であります。



 この「教名房」については親鸞聖人のお弟子を記している各種「門侶交名帳」に「教名」なる名が見られないことから「稲田九郎頼重」の法名「教養」の誤写されたものではないかと云う見方もあります。   
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エンディング、ノート

2012年05月28日 | Weblog
                              

先日の降誕会法座のご講師、牧野 仁(悠水)先生からいただきました。エンデイングノート「私の想い」伝えたい、如来さま

の願い〉をパラパラと見ています。このお世話になったこの家族、この境涯を去るに当たって家族が途方に暮れないように、そし

て大切なものを受け継いでもらうべきことをしっかりと書き残しておくエンデイングノート、これは大切なことだと思います。後

の世が少しでも安心して生きて行けるように・・・・。

 私も少しづつでも書くべきことは書いておかなけらばと思いました。そして整理出来ることは整理し、断捨離も必要なことでし

ょう。

 牧野先生は38才と云うお歳でこのようなエンデイングノートの立案と編集と発行、感服致します。大いにご啓蒙いただきたい

と存じます。有難うございました。


このエンデイングノートを座右に置いて書いておきたいとお思いの方はお申し出下さい。お取り次ぎをいたします。価600円です。
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宗祖降誕会法座(しゅうそごうたんえほうざ)

2012年05月26日 | Weblog
 朝は肌寒いような冷気が感じられましたが、開座の頃には程よい気温となりいい日を恵まれました。
9時頃には仏婦役員など集まって来られ賑やかな笑い声が聞こえ始めました。ご講師の先生の車も三木からご到着、準備が整いました。

始めの勤行は親鸞聖人750回大遠忌法要に制定されました「音楽法要」でお参りいたしました。若坊守がエレクトーン伴奏、
若院が経切り太鼓を叩き、住職は礼盤上で導師を勤めました。3月頃から各地区例会で少し練習したこともあって皆さん大きな声でお参り出来たと思います。
                         
 続いてご講師牧野悠水先生のご講話。「三不三信」(さんぷさんしん)を主題とされ、殊に「三不心」を主にお解き下さり「三信」に導いて行かれました。有難くご聴聞させていただきました 

 会食後にお楽しみ会。最初に住職がオカリナを吹き坊守が伴奏して「旅行く親鸞」を皆さんで歌いました。

 そして仏婦有志、若坊守も加わり11人が「清のソウラン節」に合わせて奇妙なぬいぐるみを着、巨大な花笠を被って滑稽に踊り回りました。実に、見る人も踊る人も楽しそうでした。

                      

                                          

           

 昨年より「大三島 童謡を歌う会」と云うコーラスグループが結成されて活躍されています。その演奏をお願いいたしましたところ快く28名の会員の方々が来て下さり、懐かしい童謡を歌い、みんなで一緒に歌いアッと云う間に時が過ぎて行きました。
 今回歌われた童謡は、花、森の小人、春の歌、めだかの学校、みかんの花咲く丘、浜辺の歌、月の沙漠、赤とんぼ、ふるさと
などでした。

           

                               
                            指揮をされる菅孝子先生、ピアノは川上先生
         
コメント (2)
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降誕会法座(ごうたんえほうざ)の準備

2012年05月26日 | Weblog
5月25日、26日開催の親鸞聖人降誕会法座の準備を寺内全員で行いました。本堂の仏花がどうにか出来上がり、講師間や庫裏広間のお花を何にしようかと境内や庭を回ると紫陽花や京鹿の子がもう咲き初めていましたので使ってみることにしました。

         
         拙寺で一番早く咲く紫陽花「黒姫」と云う額紫陽花を挿しました。
         花器ははもう20数年前に亡父が頂いた李朝青磁の薄造りの器を使ってみました。
         初めての使用です。         


                                           
                                           紫陽花に京鹿の子の蕾
                                           矢筈茅の新葉
                                           掛け花入れは信楽(水軍窯)

   
   鉢植えのジャスミンが可愛く咲いていましたので玄関横に置いてみました。
   以前に浦戸の久子先生から頂いた鉢です。
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親鸞聖人降誕会(しんらんしょうにんごうたんえ)

2012年05月23日 | Weblog


 恒例の親鸞聖人降誕会法座は今年は若院が仙台から群馬方面への布教の約束があったりして5月26日に開催することになりました。すでに島内ご門徒のお家にはご案内状が届いていると思います。
 26日午前10時より開座いたします。
  ご講師は兵庫県三木市より牧野悠水先生が出講して下さいます。先生は龍谷大学でも講義を担当されている新鋭のご講師さんです。お誘い合わせてお参り下さい。
 12時からお祝いの会食、続いてお楽しみ会となります。今年は御堂ミニコンサートとして、「おおみしまの童謡の会」が出演下さり皆さんとご一緒に懐かしい童謡を歌って下さいます。私(住職)はオカリナを吹いてみようと思っています。20才の頃に吹いていたのですが、それ以来のことで指が動きますかどうか・・・・、
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日食のドラマ

2012年05月21日 | Weblog
 5/21AM7:00 本堂の縁に日食を撮影の三脚を立てカメラをセットしました。しかし空は雲が厚くてお日さまは全く見えません。残念至極です。

 一昨日広島からの帰りにカメラショップに寄り、日食撮影用のフイルターを準備しておこうと思ったのですが、注文でお取り寄せですとのことで間に合いません。仕方ないので観察用の眼がねだけを求めました。それももう2ヶしか残っていませんでした。


                   
                   7:25分頃の大三島の空、黒雲に覆われています。

 7:20 本堂縁に出てみましたが、矢張り黒い雲、あちこちから日食を見ようと外に出ている人達の残念がる話声が聞こえて来ます。ですがお日さまは見えませんが、金環になったであろう頃には随分と暗くなり、急に冷たい風が吹き始めたのには矢張り日食なのだなァ、と感じました。

 居室に帰ってテレビを見ると、東京や長野、群馬辺りは綺麗に観測出来る状態のようです。若院は今仙台から東京に1日逗留して明日群馬に入るとのこと、弥子の夫秀峰さんも富山から今東京とのこと、二人とも金環日食を見ていることでしょう。
 
 7:40 出てみると少し雲が切れて太陽の輝きが見えて来ましたので、急いでシャッターを押しました。雲は少しかかっていますが部分日食はどうにか記録できました。

 同じ時間に一つのお日さまを何千万と云う人が見上げたことでしょう。

                   
                   7:40分頃の大三島からの部分日食

 幼い頃、日食を見た思い出がありますが、それを今皆既日食の記録から探してみますと昭和23年5月9日(1948)のことであったようです。
 父や母らがローソクで煤を着けたガラス片で覗いたり、私や姉や近所の子供達にも覗かせてくれました。(今では危険極まりないこと、禁止事項なのですが)また、バケツに水を入れて水に映った日食するお日さまを眺めたりもした思い出があります。
 「暗くなる!」「暗くなる!」と近所の姉の友達らとはしゃいでいた思い出があります。それからすると今の子供達は全員「天文学者」のように感じられます。私の6才の時のことです。
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鉄線(てっせん)が咲いています

2012年05月20日 | Weblog

鉄線(クレマチス)

 鉄線は品格の高い蔓花です。寛文年間(1661~1673)に支那より園芸用として到来したようです。文人好みの花として大切に、愛されて来た花の一つでしょう。この一鉢は数年前の母の日に贈られて来た鉄線なのですが、今年も勢いよく沢山の花を咲かせてくれています。
坊守の紋付きは「八つ鉄線紋」ですがその由来詳細はわかりません。本願寺の式務部(法務、声明の専門部)のお袈裟の紋は「八つ鉄線紋」が織られています。このことも由来は私にはよく分かりません。どなたか教えてくださいませんか、



                中国名は鉄線蓮と呼ばれています
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栄光のカープ

2012年05月20日 | Weblog
 5月17日、広島のT.Fさんのご長女ルリ子さんより電話で妹葉子さんが死去したとのご通知をいただき、出来たらお参りに来ていただきたいとのことでした。
 18日夕通夜、18日午前11時より葬儀とのことで18日通夜から出向きました。
葉子さんは3姉妹の3番目で活発な明るい方で沢山の知人友人そして姪御、甥御から愛されそして一杯愛した人であったことをお姉さんやご両親から聞かせていただきました。家族葬と云うことでしたが、通夜も葬儀もホールが一杯になるほどの葉子さんの友人やその家族が会葬されていました。
 
 18日の夜は施主T.Fさんがご用意くださった広島市内のホテルに休ませていただきました。翌朝ホテルのロビーに「広島カープ」隆盛期の選手のユニホームや野球道具が展示されていました。私も曽ては大フアンの頃がありましたから興味深く、懐かしく見て回りました。10時頃葬儀会館に行きご両親らにカープの展示品についてお話しますと、葉子さんもカープのスター選手と記念写真を撮るなどフアンであられたとのことでした。展示されていたユニフォームの中に脳腫瘍で早世した津田投手のがあったことをお話したことです。

 葉子さん37才の頃乳がんが発見されて以来10年にわたっての闘病生活を余儀なくされました。銀行員としての定職は本年の4月1日まで加療を受けながら勤められたとのことです。そして4月からお姉さん宅のリビングにベットを置いてお姉さん家族と常に一緒の在宅看護が行われたのでした。
 葉子さんの最後は仲の良かった二人のお姉さんに抱かれた中で静かに息を引き取って行かれたと私にお伝えくださいました。明るい愛をみんなに施し続けて葉子さんは満47才の人生を終わって逝かれたのです。
 
 葬儀は両親のご先祖のお寺でお願いしてほしいと云う葉子さんの思いをどうにか果たすことができて今、ほっとしております。ご縁を頂いて大きなものを教えられたことです。


                    
                    ロビーホールの展示品

                                             
                                             左は山本浩二選手の
                                             真ん中が津田投手のユニフォーム 


                   
                   ロビーのホールにクラシックなピアノが1台置いてありました。ドイツ製ということですとフロントマンが教えてくれました。
                   音無きピアノの音色に耳を澄ませてみました。
                 
 
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紫陽花の蕾

2012年05月15日 | Weblog
                       

 今日も朝から雨模様です。もう梅雨の季節に入ったように雨が繁く降っています。
 雨の中にふと紫陽花を見ると緑の蕾の集叢の端々にもう1輪2輪と咲いているのが見られ、しばらく見入っておりました。
 一斉に咲くと紫紺となるのですが、緑の若々しい紫陽花も味わい深いものがあります。                       

                       

今の季節は若葉の季節。種田山頭火(たねださんとうか)の句に  わけ入ってもわけ入っても青 と云うのがありますが、今の季節の発句なのでしょう。今は青の季節なのです。

 その一面青の中に一輪、一輪の深紅の薔薇が咲いていました。


                                                    
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母の日に想う

2012年05月13日 | Weblog
                          
                          花籠に添えられているカードに
                          HAPPY Mother's day Because I want to see your face with a smile
                          と書かれていました。

 今年も長男、次男のお嫁さんたちから坊守へ「母の日」のプレゼントが届けられました。有難いことです。

 私の母は平成13年の1月に89才で他界しました。坊守の実母は一昨年6月24日に亡くなりました。ですから二人とも母と呼べる人は居なくなった分けです。

 今、母のことを想い起こしてみますと、日頃は明るい性格でしたが、その明るい顔が悲しそうに曇る時が一様にありました。そのことについては他の姉弟たちも云うことです。
 母が悲しそうな顔になる時は、春、夏、冬の長い休暇が終わって子供たちが島から寄留地へと出立する時の母の顔はいつも曇っていました。それは出立を躊躇う思いが心に起こるほどでした。
 そのことは何故だったのだろうと後年に思い考えてみて気づいたのですが、それは昭和20年8月7日に広島で原爆によって旧制中学1年で亡くなって行った綜智兄のことが母の心に過ぎっていたのであろうと思うのです。
 
 兄綜智は広島への原爆投下一週間前の日曜日に広島から帰省して来ました。4月に郷里を離れて初めての帰省でした。しかし、その帰省は我が家に一泊もせずに学徒動員の仕事があると広島へ向かい、一週間後には被爆死して行きました。母にしてみればそのことは悔恨しても悔やみ切れないことだったと思うのです。

 私たち姉弟4人、中学を出るとそれぞれ島を離れて行きました。我が家に帰って来たのは寺の後継者となった私だけが10年後に帰郷しましたが、他の3人はそのまま他家のお世話になりました。

 このようなことを今思い巡らせて見ますと時に、母は折々にわき出る悲しみに耐えていたように思えます。しかし、晩年に認知症状態に入ってからの母からはあの悲しみに顔が曇ると云う表情は消えて行きました。それはそれは天真爛漫な菩薩さまのような母になったのでした。           多謝、深謝


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