4月の法語は京都府立大学教授であられた西元宗助(にしもとそうすけ)先生のお言葉です。
念仏もうすところに
立ち上がっていく力が
あたえられる
西元先生のお生まれは鹿児島、薩摩藩が徳川300年の間念仏を禁制とした中でお念仏の教えを明治9年の解禁まで密かに伝え
続けられた念仏者のお家にお生まれでその訓育があられました。しかし、真剣に聞法生活に入られたのは京都大学在学中に仏教青
年会主催の講演会で自照社の足利淨円先生の講話を聞かれてからだとお話になっておられました。
その後先生は教育学の権威として京都府立大の教授を勤められ後進を導かれましたが、何よりも自照舎同人として自信教人信の
道に身を挺して行かれたことは有難く、感謝しきれません。その頃の自照舎には足利淨円先生を中心に白井成允、井上善右ヱ門、
佐々木徹真、甲斐和里子、小林信子、今田彰夫先生など。また金子大栄、玉置康四郎、福島政雄、花田正夫、池山栄吉、榊原徳草
先生など俊哲で篤信な諸先生が集うておられたのが昭和20年~50年頃の自照舎でした。
拙寺の仏教婦人会にも昭和56年、57年と2度ご出講いただいておりますが、その折り、10代で自死されたご長男澄(すむ
る)さんのことをお話になられました。2月の法語の史明(コウサミヨン)さんも12才のご長男を自死で失われましたが、西
元先生がお話になられた中に、ある講演会の折、(コウ)さんと二人で講師をつとめたことがあられたそうです。その夜の宿舎
で(コウ)さんと東の空が白むまで語り明かしたことがありますと、お話になられました。・・・・父親として同じ悲しみと辛
さを持つ者同士・・・同じお念仏を思念する者同士、、、、涙、涙と称名の一夜であられたに違いありません。
先生のご著書『宿業の大地に立ちて』に亡くなられた愛児澄(すむる)さんのことを次のように記しておられます。
このたびほど、人さまの情けの身にしみたことはございません。そして、わが身の宿業を想わしめられたこともありません。
それにつけても、いよいよ「そくばくの業をもちける身にてありけるを」の感が切実であります。
ある先生は仰せでありました。澄くんは捨身菩薩であったのではないないかと。私ども夫婦は、このお言葉に深くうなずきま す。
また、あるとこで澄の晩年を最もよく知り給う先生は、雪山童子(せっせんどうじ)のごとくにあったと。
ともかく、澄は仏となって、南無阿弥陀仏となって生きております。皆さま、まことにありがとうございました。わたしはお 陰で、南無阿弥陀仏と生きていくと、あらたに念じていることであります。なにもかもが、初心にかえっての出発、ーーー根源 にかえっての発心であることが思わしめられております。(五たい夜の夕)
このお言葉に4月のカレンダー法語の西元先生の申される内容、意味するところであると思います。
これは西元先生が拙寺へご出講頂いた時、講師録にご記帳下さったものです。東大阪の在野の宗教詩人榎本榮一さんの「ぞうきん」の詩の一節をお書き下さっています。
この西元先生の法語をまとめながら、もう10数年も前にご往生になられた先生のことを懐かしく懐かしみ思わず涙を禁じ得ません。先生から頂いたご著書や雑誌「自照」、「慈光」など書庫より取り出しパラパラと拝読しております。