万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

群馬県へ

2011年11月29日 | Weblog
                  
     西蓮寺仏婦製作の布絵本「しんらんさま」

                                     
                    法然と親鸞展のリーフレット(藤原さんより)


去る11/18、19の二日間若院は群馬県富岡市の蓮照寺さんからお招きがあり報恩講法座へ出講させていただきました。明治初年に設立された日本近代史の第1歩とでも云える「富岡製糸工場」の隣に寺があるのだそうです。
 熱心にお聴聞下さったとのことです。そのご参詣の中に宗方ご出身の藤原有三さんご夫妻が来て下さり法座後に少しお話をうかがったとのことでした。
 東京国立博物館で今展覧中の「法然と親鸞ゆかりの名宝展」を拝観に行かれたとのことでリーフレットなどいただいて帰りました。
 藤原有三さんは富岡市の隣の藤岡市にお住まいで藤岡市にある西蓮寺さんの壮年会で、又奥さんは仏教婦人会で聞法にいそしんでおられます。いつだったか宗方でのご法事の折に仏婦で製作した布絵本「しんらんさま」の写真冊子をいただきました。いろいろと活動されておられることに有難く思います。
 藤原有三さんの御尊父は藤原 操さんです。操さんはまだご記憶の方も多いと思いますが、帰郷されるまでは建築家としてご活躍でした。帰郷後は万福寺の総代としてお世話になりました。万福寺報には毎回ご執筆くださり、お念仏のお味わいを人生体験の上から語り続けられた尊い方でした。
 今、藤原有三さんは故郷から遠く離れた群馬の藤岡市に居を定められて聞法のご縁を持たれておられることを嬉しく思います。このようなご縁から来年は藤岡市の西蓮寺さんへ出講のご依頼を受けたと若院が話してくれました。多謝、


                                 
                 
                                  
 
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笑楽会(しょうらくかい)

2011年11月27日 | Weblog
                  
                  笑楽会のみなさん

 11/26(土)終日走り回る日となりました。午前9時30分に参詣の連絡を受けていました大三島甘崎地区の老人クラブ「笑楽会」の皆様16名がご参詣になられました。上浦町の老人クラブ連合で大三島島内の50カ所の巡拝マップが作成されそれを何日かかけて巡拝するのだと云うことでお越しになられたのです。
 甘崎地区は万福寺がある地区から云いますと真反対側にある地区であまり交流がないと思っていましたが、知己の方が何人もおられて懐かしいことでした。
 本堂の改築工事の経緯や中島画伯の襖絵や今治市指定文化財などについて若院と二人で説明させていただきました。皆さんが大変喜んで下さって嬉しく思います。

                   
                   余間で若院がお内陣の説明
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海の見える小さなミュージアム

2011年11月27日 | Weblog
                 
                   ミュージアムの下のみかん園

 浦戸から宗方へ行く道は岡の上を七曲がりして行く道で海と島々、それに空が刻々変化する景色で心がなごみます。その場所に数年前に小さな美術館、ところミュージアムが建てられました。そしてまた本年春に新しいミュージアムが併設されました。
 一昨日、カメラを持って立ち寄って見ました。何とあの大原美術館のある倉敷市の市役所からライトバスで視察に来られていました。・・・・それだけ珍しい美術館として話題になっているのでしょうか、
 今、丁度ミュージアムの周りのみかん園にはみかんがたわわに色づいています。その下に海が静かに展望されるのです。日焼け帽子を被っているので誰だかよく分かりませんがチョキチョキみかんを収穫中でした。みかんの木の枝に掛けた携帯ラジオが大きな音でジャズを奏でていて思わずたたずんでしまいました。

      
      伊藤豊雄建築ミュージアム

                    
                    ミュージアム全景

   
                                 
                                   別棟のゼミナールハウス内からの展望 

 今から10年前に編集して出版した『木村誠一さんの生涯と「真楽記」』 の中に今ミュージアムが建てられている辺りからの夕日がきれいであることを書いたことがあります。今そのヶ所を読み返してみます。ご笑覧ください。

 宗方小学校へ通っておられる頃のことであろうが、誠一さんの自宅から宗方までは約一里程あり、その間七曲がりしたつづら折りの、海が展望される小高い道を通るのである。その道の秋の夕日は素晴らしい。いつ見ても感動を覚える風光である。関前灘の大小の島や岬の連なった西方へ空も海も茜色に染まって落日していく風景は夕日の美しい名勝地といえる。誠一さんは学校の勤務を終えて帰る道すがら、その場所に立ち止まってその夕日に合掌し暫し拝んでいたという。落日に向かって無心に合掌するその姿を道下の畑でみかん摘みをしていたある若い婦人が、その美しさ、神々しさに胸を打たれたことを語ってくれた。「私が浄土真宗のご法義を聞かせていただくようになったのは、あの誠一さんの夕日を拝む姿に感動したからなのです」と。

 文中の光景を思い浮かべていただければ幸甚に存じます。
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再び四田観水先生のこと

2011年11月24日 | Weblog

 先日、今治桜井の菅千恵さんから頂いた「四田観水」先生筆の名月と題された色紙に画かれた月の絵を紹介いたしました。明治末年から東京帝大に学び東京で教職にあり、趣味として日本画を習っていた大叔父(私の祖父の弟、鷹谷俊之)から拙寺にいつの時にか下された一冊の画帳に「観水」と署名された2葉の山水画をも紹介いたしました。名月と2葉の山水画は余りにも画風が違いますので同一人物とは一寸思えない面がありますが、サインの筆跡は同一人物であると思います。山水画は観水先生の大正初期、20数才と云う画業修習の頃のもので非凡な模写力が窺い知れるものであると思っています。
 ネットで「四田観水」を検索しておりましたら、次のような記事が「21世紀情報産業」のブログに紹介されていましたのでコピーしておきます。これによりますとお年とともに、はからいのない自由な表現を旨とされていた様に伺えます。

 「四国の南條先生の実家のアトリエには、ブタの絵が飾ってある。画家を志した時に書いた絵。彼の描く「寒山拾得」はこれまで、禅僧や日本画家たちがたくさん描いてきたそれとは違い、どこか肩肘がはっていなくて、にこやかにさせるものがある。その 「ブタ」たちの表情を紙に描く時に、きっと彼の中にある神がそうさせるのだと思う。同郷の画家で横山大観の流れをくむ「四田観水」に師事。その師が東京から「お いしい魚が食べたい」と愛媛に里帰りする時だけ、風光明媚な四国をいっしょにスケッチなどしたらしい。「ぜったいにわしを、まねるなよ。みんなついで(同じで・ ・という伊予弁)、修・破・離。」というのが口癖だったらしい。「師と弟子」の関 係というのは、弟子が「師をみつける」というのが原点。魚の食べ方、筍の料理方法、スケッチする所作・・・なにげない日常の中に「学び」を見つけていくものなの だろう。「ハウツウもの」で溢れかえった本など、クソの役にもたたないものが洪水 のように溢れている。」


                 
    白侘助(しろわびすけ) 知らぬ間に咲いていました。何輪も一斉に咲いていました。

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晩秋と云うべきか初冬と云うべきか

2011年11月22日 | Weblog
                
               黄葉した沙羅
               赤い幹が冬枯れの庭を暖ったかくしてくれます


AM5:50に境内の鐘楼に上がりますが毛糸の帽子に手袋を着けています。しかし、日中はポカポカ陽気になりますから体の調子が狂います。
 雨もよく降りますからみかんの状態も少し狂っていることを耳にします。
 矢張り季節が変わって来たのでしょうか、4,50年前頃には11月下旬には紅葉は全て落葉していたように思うのですが・・・・、紅葉はこれからです。
 ですが、沙羅の木の黄葉は早いようでもう落葉が進んでいます。落葉しつくした沙羅の木の赤い裸木は何とも云えないいい風情を庭に呈します。年中楽しみを与えてくれる樹です。
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四田観水(よつだかんすい)さんのこと

2011年11月21日 | Weblog
                  
                  菅千恵さんにいただいた四田観水筆
                   「名 月」
 過日今治桜井の菅公孝(菅自動車)さん宅の報恩講にお参りにうかがいました。お参りの後、いろいろお話をうかがっている中にお床のお軸についてのお話になりました。そのお軸は草原に2匹の黒牛とその上にくつろいでいる数人の牧童が描かれている牧歌的な雰囲気が漂うている珍しい絵でした。画かれたのは四田観水と云う方で公孝さんの妻千恵さんの大伯父に当たる人であるとのこと。今治の近見のご出身で若き時画業を志して上京し横山大観らに師事し日本画を学ばれた方であるとのことでした。色紙も何枚か画いてもらっていますので、・・・とて見せて下さり、その中の「名月」と題された色紙を是非貰ってくださいと云われ頂戴することにしました。その色紙を手に取ってしげしげと見せていただきましたがどうしても横山大観画伯との画風が違うので「????」、しかし落款の「観水」には見覚えがあります。拙寺に一冊の伝来の画帳がありましてその中に山水画が数点画かれていてその中に「観水」のサインがあるのと同じ筆跡に見てとれましたので、そのことを伝え、よく確認してお知らせすることにいたしました。

 寺に帰って早速に頂いた「名月」の色紙と画帳の山水画を照合して見ました。画帳には観水筆のものが2点ありました。その1点には「大正甲寅」の年号が記されていますから大正3年に当たり観水20代前半頃のものと考えられます。もう一点もしっかりした筆致で山水が画かれています。落款の署名には年齢の隔たりはあるにしても同一人物であることは疑う余地はありません。画帳の2点の山水画(小さいながらも)は横山大観の画風を彷彿とさせるものがあります。
 しかし、この「名月」や菅公孝さん宅の床の絵との画風の違いはどう理解すべきなのか・・・・、観水さん晩年の90才前後の絵であるとしても余りに画風が相違しているのは何故なのだろう、???。

 全く手がかりもありませんので、ネットで調べることにしました。「今治おもしろ百科」のHPなどで四田観水の記述を拾い読む中に、同じ郷里の出身で横山大観の弟子大智勝観によって大観の弟子となり日本画の研鑽を積み大正8年に院展に「高原の夕」が初入選以来郷里の風景をモチーフとして作品を画いていたようですが、昭和初期にアメリカに渡りアメリカで創作活動をしていたことが知られました。いつの頃帰国されたのかは知り得ませんが、菅公孝、千恵さん宅で見た軸「草原の牛」の絵や頂いた色紙の「名月」の絵はどうもアメリカで学ばれた画風のような思いがいたします。アメリカの心象を画かれたものと解すべきでしょう。「名月」もアメリカの月、コロラドの月の心象かも知れません。

 今治城の展示ホールや松山の県立美術館に観水さんの作品が収蔵されているそうです。

         
        観水さんの大正初期の作品
        (万福寺所蔵)

                              
                              同じく山水画
 
 (画像をクリックして大きくしてご覧ください)
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越智益躬(おちのますみ)のこと

2011年11月18日 | Weblog
                 
                  この山茶花は万福寺で一番古い山茶花です。
                  百数十年前に植えられたと考えられます。

慶滋保胤(よししげのやすだね)が寛和年中頃(985)書きまとめた『日本往生極楽記』の中の在家の男子往生者4名の中に伊予の国の住人「越智益躬」(おちのますみ)の往生の事が収載されています。他の3名は何れも都の公卿、高階真人(たかしなのまびと)、藤原義孝(ふじわらのよしたか)、源憩(みなもとのいこう)ですが越智益躬のみが地方人で収録されているのです。このことは重要な意味を持っていることだと考えております。随分後世に編述されている数種の越智氏系図や河野氏系図の記述とは全く違う人物像であることに十分留意せねばならないことです。
 往生記の越智益躬(おちのますみ)の記述を紹介しておきます。

 (36)伊予国越智郡の土人(住民)越智益躬は、当州の主簿(しゅぼ、国庁に使える4等官)たり。少(わか)きときより老にいたるまで、勤王して倦(う)まず。法に帰することいよいよ劇(いそがわ)し。朝(あした)に法花を読み、昼は国務に従い、夜は弥陀を念じて、もて恒(つね)のこととなせり。いまだ鬢髪(びんぱつ)剃らずして、早く十戒を受けて、法名を定真(じょうしん)といえり。臨終に身苦痛なく、心迷乱(めいらん)せず、定印(じょういん)を結び西に向いて、念仏して気止みぬ。時に村里の人、音楽あるを聞きて、歎美せずということなし。

 原文は漢文で述べられています。延べ書きは『日本思想体系』(岩波書店刊)を参考にいたしました。
 この越智益躬の厚い仏教信仰の記述はそれより後に編集されている『法華験記』や『今昔物語』などにも見られます。これらは越智系図の益躬の記述とは全く違っています。


          
           赤いさざんか


                               
                                白いさざんか
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慶滋保胤(よししげのやすだね)

2011年11月11日 | Weblog
                    
                     寒蘭 紅娥               

 慶滋保胤(よししげのやすだね)と云う人について知っている人は一般的にはほとんど居ないかと思います。この人は平安期の承平(934頃)の頃、京都賀茂神社の賀茂忠行の次男として誕生しています。儒学の道を歩み御所の大学寮の文章生として菅原文時に師事して詩文の道を究め多くの佳文を残しました。仏教への志向は中国の白楽天や平安中期に市井に念仏を勧化した空也聖の影響を多分に受けたようです。
 大学寮の同志を募って始めた「勧学会」(かんがくえ)と名付けられた仏教求道会は仏教史上特筆すべきことでしょう。
 彼が収録し上梓した『日本往生極楽記』は次代、次々代へと編纂が受け継がれて行くのです。
伊予国越智郡と云う郷土の事から考えましても、この往生記に収録されている伊予国の住民「越智益躬」のことは愛媛県史上においても注目すべきことでしょう。何故ならばこの「越智益躬」の記述のある文献は保胤の往生記が初見だからです。
 このように慶滋保胤とその関連する人達の活動が平安中期以降の仏教、文化に新たな興隆となっていることは看過できません。
 そう云った意味からしても幸田露伴の絶筆となった『連環記』はすごさがあります。 多謝 


            
             秀麗


                                  
                                    青花                 
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連還記(れんかんき)を読む

2011年11月09日 | Weblog
                    
                     更紗木瓜(さらさぼけ)

 幸田露伴の著作『連環記』を読み始めました。平安時代中期に文才豊かな文官としてまた仏道を真摯に求める士としても業績を今日に伝えらえている「慶滋保胤」(よししげのやすだね、賀茂保胤)を中心に、その生涯とその周囲の影響を与えた人や感化を受けた群像を描いている作品です。
 幸田露伴は明治、大正の文壇でこれ程に漢籍学に通じている人は居ないと云われた人だけにこの作品も読むには難渋するヶ所が次々と出てきます。しかし格調の高い文体に読んでいてヅッシリと来る充実感がある名著です。
 50才頃にして右京に狭いながらも池水庭のある家を設けたことを述べている文章「池亭記」は一般につとに有名です。その中に、

  池の西に小堂を置えて弥陀を安き、池の東に小閣を開きて書籍を納め 

 の言葉は保胤の生きる姿勢、バックボーンを自らが吐露している言葉であると知られます。ですが『日本往生極楽記』仏教関係の著作や活動も顕著で、「伊予国の越智益躬(おちのますみ)の往生のこと」として往生記に収録されていますことは伊予国人として看過できないことでもあります。

 いよいよ来年は70代に突入です。70代の前半期までに「慶滋保胤」の人物とその周辺についてまとめて置きたいと思っています。そんな事を思っていて幸田露伴著「連環記」を知り得て読んでいるのですが、幸田露伴が「慶滋保胤」に光を当ててこの著をまとめられた慧眼に唯々驚き敬服いたします。多くの示唆を与えてくださっています。  

                     
                      初嵐開花 
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セージ

2011年11月05日 | Weblog
                   

 ハーブを数種植えている花壇にセージの一種、パイナップルセージの花が赤い花を咲かせて枝垂れ揺れています。
 先日、福山のらんこさんが画像を送って下さった「見返り草」も「しそ科」の植物ですがこのセージも「しそ科」に属す多年草です。しそ科の植物は大方が人々に清しい芳香と云う食彩を恵んでくれていますが花もまた、それぞれに個性があって随分と楽しませてくれます。

 数日前よりボツボツと今治地区の報恩講をお参りに行っております。今日は朝も夕方もしまなみ海道は時雨にけむっていました。
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