万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

12月の法語

2014年11月30日 | Weblog

              

 

 今年も師走を迎える頃となりました。光陰矢のごとし、アッという間に一年が過ぎて行きます。この法語カレンダーの所感文の記述も、もう少し読みやすく味わい深かくと、思いながら最終月となってしまい、悔恨の念がしきりにおこって来ます。申し訳ありません。

 今回のご法語は板東性純(ばんどうしょうじゅん)先生の

   永遠の拠り処(よりどころ)を 与えてくださるのが                          

      南無阿弥陀仏の

   生活である   板東性純

 

 今年最後の12月のご法語は板東性純先生のお言葉から選ばれています。板東先生のお生まれになられた、そしてご住職をつとめられたご寺院は東京の板東報恩寺と呼ばれている古寺名刹です。このように称されているのはこの御寺の開基は親鸞聖人の高弟24輩(にじゅうしはい)の第1番の性信房によって下総横曽根に開かれています。この寺に親鸞聖人のお直筆の「教行信証」(国宝、現在は東本願寺蔵)が近世まで伝蔵されていたのです。                 

 その報恩寺の板東性純先生の法語、「永遠の拠り処」とは私たちの日々の日暮で当てにしているものは案外数年の働きであったり、壊れてしまったり、色あせてしまったりするものに心がいつも向いているようです。ですからいつもこれらによって憂悲苦悩を引き起こされていると云えましょう。「永遠の拠り処」とは過去・現在・未来にわたって変わること無く値打ちの変わらないもの、それは「お念仏を申す日暮」しかないことを申して下さってあるのです。

 親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界はよろずのことみなもて空ごとたわごとまことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにおはします」(歎異抄)

 この歎異抄の聖人の究極ととも云えるお言葉と板東性純先生のご法語を、合わせて味読してみて下さい。

 板東性純先生は私(住職)が小学校5、6年生の頃の夏休みのある日、東京大学のインド哲学科の学生3人がインド仏跡を16ミリフイルムに撮影して寺々を巡回されたことがありました。そのメンバーのお一人が板東性純先生であられたのです。昭和28、9年頃にインド仏跡を探訪することはほとんど冒険的な旅行であったことでしょうが、16ミリ撮影機を持参して記録されたのでした。昭和56年6月の仏婦法座にお越し下さいました花山勝友先生もその時のメンバーのお一人であられました。今、60年前からのご因縁の浅からんことを回想し、お念仏申させていただいております。    

 これで、本年の法語カレンダーの感話を終えることにいたします。また、来年の法語について味わう処をお話させていただくことにいたします。

 

 

 

  

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伊予国府周辺の寺社探訪

2014年11月25日 | Weblog

 伊予国(愛媛県)の国府は越智郡に置かれていたことは、越智郡桜井地区に国分寺や国分尼寺が置かれていた遺跡があることからも確かなことでしょうが、その国府庁の設置場所については今も確定していません。上徳や出作、町谷、中寺、八町などがさまざまに推定されているのですがまだ判然とはしていませんが、現在の町谷から蔵敷にかけて営まれている諸社寺を巡拝して見ますと、かつての国庁周辺に平安時代の頃から営まれていた社寺であることを彷彿として感じるものがあります。千年を越える年代の間に激しい戦乱や有力檀那が没落したりの栄枯盛衰の嵐に晒されて、かつての様相、規模ではないかも知れないけれども、歩いて見ると千年を越えた息吹と鼓動が感じられるように思えます。

 

    

 倉稲三島神社

 

        

樟本神社

 長保2年(1000)9月15日に文章博士大江以言(おおえのもちとき)らが樟本道場に於いて勧学会(かんがくえ)が開催されたことを以言が記述(本朝文粋)し遺しています。勧学会とは都の文章生ら20名が比叡山若い学僧20名を叡山の麓の寺院に迎えて仏教講会を春秋2回催していた講会で第1期勧学会は慶滋保胤が中心となり20年も続けられていましたが、長保の頃には慶滋保胤が比叡山に出家(寂心)したこともあって中断していた頃になります。その勧学会が遠く伊予の国府近くの樟本道場に於いて開催されていることは注目に値します。樟本道場が樟本神社であるとは云えませんが、その付近に存在していたものと考えられます。この樟本道場での勧学会以後に都では勧学会が復興し第2期勧学会となっているようですから意味深いものがあります。 

 平安時代の中期頃からの御所に文章学(もんじょ)で勤める有志ある青年達の真摯な仏教求道活動、勧学会が宮廷の女流文学や平安浄土教興隆に与えた影響は大なるものがあると考えております。

 そしてまた、海を隔てた伊予の国府近辺にも少なからず影響を与えていると考えられます。

     

 常明寺(真言宗醍醐派)          浄土宗長明寺

  

  来島山附属寺

    

  東禅寺

     

  鴨部神社       越智益躬の墓塔

実は、伊予国府近くで行われた「勧学会」の興行の機縁はこの地が慶滋保胤(よししげのやすだね)が撰述した『日本往生極楽記』の在家男子往生人4人の中に伊予国の「越智益躬」(おちのますみ)が収録されていることにあったと考えられるのです。その「越智益躬」の墓塔が蔵敷町の鴨部神社境内に建っていることには大変な驚きでした。越智益躬の出自は鴨部(現玉川町)であるようで、釈迦ヶ嶽にあった宝蔵寺とも因縁の厚い人であったことが諸記録から覗えます。

 八町、蔵敷辺の寺社を巡拝して感じることは、どこにも楠の大樹が境内に植わっていることです。大三島宮浦の大山祇神社にあるような2千年、3千年と云うような樹ではありませんが、大切にされていることが共通しているようです。これは「越智益躬」を「樹下大神」などと呼ばれていたことと何らか関係があるように感じながら、近い内にゆっくりと探訪しようと思ったことです。

 

 

 

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台湾、国立宣蘭高級中学校生来訪

2014年11月19日 | Weblog

           

 

 11月28日(火)夕方、相原幸彦さんが4人の女子高校生を連れて来訪されました。幸彦さんの紹介ではこの女子高校生は台湾の宣蘭国立高級中学校の生徒達で今日本へ修学旅行に来ていて4人のグループづつで大三島、伯方島、大島に民泊するのだとのこと、幸彦さんも奥さんの由香さんとお世話されているとのことでした。中国語、英語、日本語を交えての会話でいろいろとお話をしたことです。

 本堂に案内し、ご本尊にお参りされました。みなさん仏教徒のようでお線香に火を点けて一本ずつ渡すと中国の作法でお供えし、お参りされていました。心打たれるものがあります。襖絵の桜にも、お内陣の荘厳さにも感動されたようでした。

 若院が唯南を連れて出て来ると「かわいい!」、「かわいい!」と抱いてくれました。

これから、関西方面への旅行して関空から帰国するとのこと、可愛い台湾からの珍客に嬉しい一時でした。

 

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唯南(ゆいな)ちゃん着初め

2014年11月12日 | Weblog

     

2月20日に誕生した内孫の唯南(ゆいな)ちゃん、お母さん(往子)の実家から初着が贈られていましたが、先日やっと身にまとって写真を撮りました。スタジオに行ってプロの写真におさまったのですが、本堂でも家族で撮っておきました。

 

       

   襖絵の前で          現在阿弥陀さまと家族5人

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深まる秋色

2014年11月12日 | Weblog

            沙羅(夏椿)が黄葉しています      

                 

              桜もみじ             

                                                     

枝垂れ紅葉

 

                    

                     雲南大しぼり椿が咲いていました

 

 あれこれと少し多忙な数日送っていて、久しぶりに庭に出て見ますと秋真っ盛り、木々の葉は紅葉、黄葉し散り急いでいます。時雨か露にしっとり濡れてわびわびしい限りです。そうした荒涼とした中に一輪咲いていた椿「雲南大しぼり」の咲き姿は神々しさそのものでした。

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ビナードさんが紙芝居を!

2014年11月08日 | Weblog

                

 11月6日付けの朝日新聞に広島に在住されて詩作と精力的に反核運動をしておられる米国の詩人アサー・ビナードさんが丸木位里、俊夫妻が描いた「原爆の図」を紙芝居にして原爆の恐ろしさを訴えようとする計画が紹介されています。ビナードさんの反核講演会は今治でも、松山でも、尾道でも、各地で開催されています。紙芝居と云う視覚を使っての活動は一層に共感を生むことでしょう。

 ビナードさんは私の被爆死した兄綜智の遺品、被爆軍手を見られて一篇の詩を創られました。それは「さがしています」というタイトルで13篇の詩、写真とともに収載されました。そのようなことから先年拙寺へも立ち寄られて親しくお話を伺ったことです。このことは平成12年11月頃のブログで紹介いたしました。それとは別に本年7月に毎日新聞の備後のペイジに兄綜智の手袋の写真が紹介された記事がありますのでアップしておきます。

   

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鹿児島へ

2014年11月04日 | Weblog

          

               鹿児島加治木性応寺(しょうおうじ)山門

                 

             性応寺本堂         門信徒会館など     お内陣

 11月2、3日の両日にわたって鹿児島加治木性応寺において万福寺坊守の従兄妹会が行われました。坊守慧子の母の生まれ育った寺がこの性応寺なのです。もう坊守の伯父、叔母たちは全て亡くなっています。昨年よりいとこ会が催され始め、昨年は京都を会場に行われ私(住職)も坊守に同伴し今回も同行することにしていたのですが、相次いでご門徒の葬儀があり坊守のみが参加することになったのです。出立する坊守にカメラを渡して撮影を頼んでおきました。このページの写真は全て坊守の撮影によるものです。

 大正7、8年の頃でしょうか、早世した私の祖父慈朗がこの加治木の性応寺へ布教に行っている言い伝えや、その折り求めたと云う絵薩摩の抹茶茶碗 が遺されたりしていて、私自身是非とも性応寺さんへお参りしたいと思っていたのですが、行けなくなり残念でした。またの機会にいたします。

 この性応寺は明治期になるまでは和歌山にあって南北朝頃に開創された寺で蓮如上人の時代よりご本山本願寺と共に歩んで来たと云っても過言でない密接な関係を持っている寺でした。本願寺が大坂の石山(現大阪城内堀内)に営まれていた頃、天下人を目指す織田信長との間に11年もの間対立抗争状態に陥った時、最初から最後まで石山本願寺を護ったのが和歌山の雑賀衆でした。その雑賀衆の帰依する中心の寺が性応寺だったのです。 天正8年(1580)に本願寺と信長は講和し、石山の地を退去することとなったのですが、その折も本願寺の退去地として受け入れ本願寺を護り通したのが性応寺を中心とする和歌山の門徒衆だったのです。

 薩摩藩(鹿児島)は諸理由があって徳川300年間浄土真宗は禁教されていたのです。明治維新とともに薩摩藩が廃藩となり信教は解放されました。何と全県の60パーセント越える人々が地下活動を続けて浄土真宗の教えを伝えていたのでした。明治初期に全国から厚い志を持つ寺院や僧侶が開教のために鹿児島に入りました。その時もその布教開拓の中心となった寺院が和歌山の性応寺でした。性応寺は鹿児島開教のために寺地を鹿児島に移したのです。巨大な本堂や山門、鐘楼などを和船でもって海路を鹿児島へ移したと伝えられていますから、その壮大な大事業たるや想像を絶することです。今も本願寺鹿児島別院の大梵鐘は性応寺の和歌山時代の梵鐘が使われています。

           

  与謝野鉄幹・晶子歌碑   幼少の寛が植えたタブの木

 それから、この性応寺の境内の片隅に与謝野鉄幹、晶子夫妻の歌碑が建てられています。これは明治の薩摩開教の頃、鉄幹(寛)の父与謝野礼厳も薩摩開教に従事し加治木の教場に住んでいたことがあり、幼少時の鉄幹もそこに居てたわむれに「タブの木」の苗木を植えたことがあったのだそうです。昭和7年鉄幹夫妻は鹿児島に赴いた時その「タブの木」はどうなっているだろうかと懐かしみ加治木性応寺を訪ねて大きく成長した「タブの木」に再会できた感動を歌に遺したたのでした。晶子の歌は初めて見る噴煙を上げる桜島の景観を歌ったものです。(2葉の写真は性応寺さま提供)

  老いの身の相見て嬉しをさなくて 加治木の寺ニ植ゑしたぶの木   寛

  すそ山にさくら嶋をば加へたる 遠くに見えて雲ながれゆく       晶子           

 

       

   黒酢醸造所          桜島遠望

 3日の日は桜島を中心に皆さんと観光をし20時頃帰山して来ました。中でも黒酢の醸造所の話は興味深いものでした。

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11月のカレンダー法語

2014年11月01日 | Weblog

               

 

   衆生(しゅじょう)にかけられた大悲は 無倦(むけん)である。   広瀬 杲(ひろせたかし)                                                                     

 無常迅速、今年ももう11月、余すところ2ヶ月となりました。深く考えるいとまも無く時だけが足早に駆けて行きます。

 昨朝、T.Aさんが亡くなられたお知らせを受け、悄然。つい先だってのご法座にも聴聞に来られていたのに・・・・、思い巡らせながら11月のカレンダーをめくると、広瀬杲(ひろせたかし)先生のこのお言葉に遇いました。

お正信偈に親鸞聖人が恵心僧都(源信)のお言葉を引かれて 煩悩障眼雖不見(ぼんのうにまなこさえられて見えざるといえども)大悲無倦常照我(大悲はうむことなく我を照らしたもう)を深く味わわれて「(如来さまが)衆生にかけられた大悲は無倦である」と申して下さっています。私には持続力も、集中力も極めて僅少、皆無と云えます。如来さまの私を抱き思う大悲のはたらきは休むことも途絶えることもありません。私が若いときも年老いた今も、健康な時も病で失念の時も、生に躍動し慢心の時も、臨終の折も「無倦」のお心(大悲)の中にあることをお知らせ下さってあります。阿々、南無阿弥陀仏

   

 この扁額は宗方の花条旧大内朝義さん宅の仏間にあげられていたもので、「無倦」と書かれています。揮毫は三原市本郷町寂静寺の豊水楽勝(号清漣)和上。多分昭和10年前後にご来講の折りに揮毫されたものと考えられます。現在は修理して万福寺の庫裏に掛けられています。

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