親鸞聖人が比叡山延暦寺の修行僧として目指す「さとり」に対する深重な苦悶の末、比叡山から洛中六角堂への百日の参籠を決
行されたのです。聖人29才の折の事でした。六角堂のご本尊救世観世音菩薩は聖徳太子さまとの深い関係が伝えられていますか
ら聖徳太子さまへのお訪ねをお考えのことであったと思われます。九十五日目の朝太子の夢告により東山吉水の法然上人の草庵を
訪ねられたと恵信尼さまのお手紙に述べられています。法然上人の居られる吉水へまた百日の間、雨の降る日も照る日も聴聞に通
い続けられたと同じお手紙に記しておられます。
聖人は比叡山で20年に及んで強固にまとって来られた自力修道の鎧が少しづつ剥がれ落ちて行かれました。その時のことを聖
人は『教行信証』の仮身土文類の巻に「愚禿釋鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」と明記されています。その時から聖
人は比叡山を下られて吉水の法然上人の身元に住されるようになられたのでした。
恵信尼さまのお手紙には「このすすむ人生は善き人にも、悪しき人にも同じように救われて行く道を一貫してお説きになられる
法然聖人のご教示を真剣にお聞きになられた親鸞さまは本願他力のお念仏の道にお心が定まって行かれました。そして上人が行か
れる所には人がどのように云おうとも、たとへそこが悪道(地獄)であろうとも(おともいたします)。もともと迷い続けてきた
私でありましたから、(法然上人の仰せは有難く、本願他力のお念仏のお心は初めてお聞かせに預かることでした。聞かせていた
だくことができたことをこの上ない喜びを感じています)と申されました」(意訳、住職)
画像は親鸞聖人が吉水の法然上人のみもとでお念仏のみ教えの研鑽を積んでおられた頃のノート「観無量寿経註、阿弥陀経註」
の「阿弥陀経註」の最初の部分です。このご真筆の両経の註は昭和18年に本願寺の収蔵庫から発見され、昭和27年に国宝に指
定されされているご真蹟で、聖人の最も若い時代(30代前半の)のご真筆であると云われています。
最初にこの両註の影印本をを拝見した時の衝撃は今も忘れません。料紙の表裏にびっしりと註記がされている様に驚愕しひれ伏
す様な思いでありました。
この両註から『教行信証』などのご執筆まで強い大きな棒のようなものがが貫いているとうかがいます。法然上人もすご
いし、親鸞聖人もすごい精神界の方です。
この椿は「紅侘助」と申します。一子侘助によく似ていますが赤の色が薄い赤色をしています。