万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

椿の実

2008年08月30日 | Weblog
 境内の椿に実が沢山付いて雨に濡れていました。間もなく熟れて弾け割れて種を落とすことでしょう。この種からどんな椿の花が咲くのでしょうか、楽しみなことです。椿の種は必ずしも親木と同じ花を咲かすとは限らないのです。ですから椿の種類は夥しく多く変わり種が多いのです。それを媒介しているのが椿の花や蜜を食す野鳥なのです。
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昨夜来豪雨

2008年08月30日 | Weblog
 8/24来日本列島の各地で未曾有の豪雨に見舞われ浸水家屋が広範囲に出ています。被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。
 大三島はこの豪雨の蚊帳の外かと思っておりましたら昨夜は凄い雷雨、驚きました。しかし、被害はなかったようで、むしろ恵の雨となったようです。
 画像は8月終わりになって再び凌霄花が咲いています。蔦葛の中に咲いています。
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丸山真男手帳の会Ⅱ

2008年08月27日 | Weblog
 東大の丸山真男先生も藤田省三先生も自由な考え方を大切にされたかたであったとうかがいます。権力や無意味な因習などにとらわれない思惟を大切にされていかれた方々であられたと思います。’60年、’70年の政治情勢を考える時丸山真男教授その愛弟子藤田省三先生の強い理念なしでは行動はなかったに違いとない思えます。
 今日も拙寺でいろんな分野についてのお話をお聞きし、藤田家墓所へご案内させていただいたことです。
 時にアカデミックな世界にひたることもいいことだと感じました。
 手帳の会の方々のご無事な旅を念ずる次第。またお越し下さい。
○藤田省三先生の尊父は戦後の岡山村村長に選任され現職中に病没されました。祖父は藤田友助さん、明治33年前の万福寺本堂建設の棟梁に当たられた方でした。省三先生のご母堂静代様の納骨法要の折り、親鸞聖人について熱っぽく語られたことが思い起こされます。
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丸山真男手帳の会 Ⅰ

2008年08月27日 | Weblog
 8/27、午後2時30分頃、東京より「丸山真男手帳の会」のメンバー11名がバスで来山されました。
 昨秋、会のメンバーで丸山真男先生のお弟子で先輩の藤田省三先生を慕って法政大の教授となられた飯田泰三教授(今春より島根県立大教授)が偶然に来山されてお話をもし、藤田省三先生の墓所にご案内したことがご縁で本日「丸山真男手帳の会」のメンバー11名(飯田教授を含む)が来山され、藤田家墓所へお参りになられました。
 福山市鞆の浦を出発点にして因島の水軍遺跡、大三島大山祇神社、拙寺、藤田家墓所参拝、大島村上水軍資料館等々と過密スケジュールで防州大島の村上水軍遺跡、厳島神社まで回られる旅程とのこと、一週間もの研修旅行、そのタフさに驚きました。 
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古道回想

2008年08月26日 | Weblog
宝厳院の五百羅漢の並ぶ門前の庭の前に「湯豆腐嵯峨野」と染め抜かれたのれんが下がったお店があります。その横の壁一面に大八車の車輪が取り付けられていて面白いものです。
 務めをはるか昔に終えたこれらの車輪を見ていると都の周辺地域からそれぞれの街道を引かれて都への口を通って都に入る物流の状況がフーッと想い起こされました。丹波口、周山街道(長坂口)、鞍馬口、大原口、粟田口、伏見口、鳥羽口などなど、その口はそれぞれ地方へ向かう街道が続く。各地の物産が運び込まれたことでしょう。車輪がキシンでガタガタと、
 今年もいろんなことを想念する時に恵まれてよかったです。この嵐山から嵯峨野、西京地域は日本浄土教を考える上で看過できない所であることも踏まえておかなければと再確認いたしました。
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五百羅漢

2008年08月26日 | Weblog
宿舎、「らんざん」の前が「時雨殿」(百人一首博物館)その隣が天龍寺塔頭「宝厳院」、その門前に五百羅漢の石造群が置かれる前庭となっています。羅漢さんに寄り添うように木槿が咲いていました。
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荼毘所高札

2008年08月26日 | Weblog
 荼毘所の右に宮内庁の高札が立てられていて、後嵯峨、亀山、後伏見の三天皇さまがここで荼毘に付されたことが知れます。天皇様の荼毘は厚い仏教信仰が背景に考えられますが、このことについてはもう少し資料に当たらなければ何とも云えません。
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天皇荼毘所

2008年08月26日 | Weblog
亀山公園を散策していて天皇様の荼毘所跡が現れたのには驚きました。このような洛外の地で天皇様の荼毘が行われていたのです。この亀山から北へさほど遠くない所に化野がありますから、この辺り一帯が都人の葬送の地であって天皇家も例外ではなかったのでしょう。化野(あだしの)、鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)が平安時代からの都人の火葬、土葬、風葬の地でありました。
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小倉百人一首公園

2008年08月26日 | Weblog
亀山公園の遊歩道に沿って点々と百人一首が自然石に彫り込まれています。百基据えられているのでしょうが一部しか見てはいませんが、いずれも現代の第一級の假名字の能書家によって書かれたものでしょう素晴らしいものばかりです。この亀山公園の下に時雨殿(百人一首博物館)が建てられていますからこれらの歌碑はそれと関連しているのでしょう。博物館は残念ながら見れませんでした。
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角倉了以像

2008年08月26日 | Weblog
 嵐山の大井堰を築造したのが江戸初期に活躍した角倉了以であると知りました。
保津狭の天龍寺側の小高い丘、亀山全体が散策できる公園になっていてその中に
角倉了以の銅像が建てられています。角倉了以は江戸初期(慶長年間)に幕府が朱印した外国貿易により莫大な富を得て、その富で画期的な水利土木を行い悉く成功をおさめると云う有為な人物であったことが知られます。京都の高瀬川も彼によるものであることはよく知られています。
 川や運河の利用は大量の物資が流通して経済的効果は計り知れないものがあったに違いありません。
 そのような恩恵を感じて近世になって彼の銅像が建立されたものでしょう。
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