22日(日)大阪のご門徒のお家のam11時からの法要をお勤めして、京都での所用のため入洛、一足先に京都行っている坊守と落ち合った。
翌朝、折角来たのだから何処かに行って見ようと云うことになり、それではと少し距離があるけれど、栂尾(とがのお)の高山寺にお参りをすることとした。
私は今回で三回目、坊守は初てである。新緑が目に優しく写り、まだ随所に散り残る桜を見ながら周山街道を久しぶりにバスで走った。坊守は北山杉の整然と空に槍先を向けている風景や好きな山躑躅の花に心を奪われている。
高山寺と聞けば明恵上人、明恵上人は鎌倉時代初期の学徳兼備の清僧であられたことで知られている。
この寺に明恵上人の画像「樹上坐禅像」が伝わっていて国宝に指定されている。明恵上人の人格を彷彿とさせる図柄と雰囲気があって惹きつけられる。
明恵上人は法然上人の「専修念仏」に対して痛烈な批判書「摧邪輪」(さいじゃりん)を書かれた。万福寺の前住三智は在りし日に栂尾高山寺に訪ねるに際して「摧邪輪」を読んで訪ねたようである。その時の作歌に高山寺と題した3首が残されている。
高山寺
摧邪輪ついに読み竟えその著者の住みしみ寺に今訪ね来ぬ
法然に強くあたりし論敵の人とも見えず我が心ひく
山気浸々一眸新緑映ゆる中古き聖に接するおもい
これは昭和50年代初期、5月の頃であったようである。その頃、高山寺のご住職は戦後最初に比叡山の千日回峰行を成就された葉上照澄阿闍梨であられた。葉上阿闍梨と前住三智とは天台学の権威であられた学友佐藤哲英教授を介して知己の間柄であった。
お茶室に葉上阿闍梨のお歌の軸が掛かっていた。
母よはは母をまつらむ母の寺摩耶マリヤに伊勢を祀ら舞
明恵上人を思い、葉上阿闍梨を思い、父三智を追想しながら散策した。坊守も望外のよろこびがあったようである。
この寺には何度来ても新たな感動がある。法然上人や親鸞聖人の時代の凛とした厳しさの時代に感覚がタイムスリップする。 住職