画像は20代の頃に作った木版(打板)です。
分厚い赤松の切れ端があったので作ってみたので
したが叩いてみるとわりかしいい音がしますので
後門に吊して使用していました。
ある時、何か法語を書いておきたいと思い、筆で
「如燈風中」と善導大師さまの日没礼讃の無常偈の
お言葉を墨書して一人悦に入っていました。
これを見た亡父(先代三智)が「これは遺憾!滅
難期を書かなければ意味が通じない。小さくてもい
いから書き添えておくように」と云われたのには驚く
とともに恥ずかしい思いにグッシャリなった懐かしい
思い出がある「木版」なのです。この度、新たに雲版
が出来ましたが手作り自書したこの木版は捨て得ずい
ます。
善導大師さまの無常偈は
人間怱々(そうそう)として衆務を営みて、年命の
日夜に去ることを覚えず、
燈の風中に滅っせんとして期しがたきがごとし、
忙々として六道に趣き定まることなく、
未だ解脱して苦海を出づることを得ず、云何ぞ安然
として驚懼(きょうく)せざらんや、
分厚い赤松の切れ端があったので作ってみたので
したが叩いてみるとわりかしいい音がしますので
後門に吊して使用していました。
ある時、何か法語を書いておきたいと思い、筆で
「如燈風中」と善導大師さまの日没礼讃の無常偈の
お言葉を墨書して一人悦に入っていました。
これを見た亡父(先代三智)が「これは遺憾!滅
難期を書かなければ意味が通じない。小さくてもい
いから書き添えておくように」と云われたのには驚く
とともに恥ずかしい思いにグッシャリなった懐かしい
思い出がある「木版」なのです。この度、新たに雲版
が出来ましたが手作り自書したこの木版は捨て得ずい
ます。
善導大師さまの無常偈は
人間怱々(そうそう)として衆務を営みて、年命の
日夜に去ることを覚えず、
燈の風中に滅っせんとして期しがたきがごとし、
忙々として六道に趣き定まることなく、
未だ解脱して苦海を出づることを得ず、云何ぞ安然
として驚懼(きょうく)せざらんや、