「ラーメンを食う!只し
サイドメニューを省みずに!
その先に現れる未だ表現された事のない形容詞‼️」
(レジェンド麺活222食するーー参考)
あの麺活レジェンドの彼は昨年、麺を222テイクされた。その画像集は「麺曼陀羅」とでも言えそうな宇宙が存在している。
そこで僕は気づいたんだ!その「麺曼陀羅」には
サイドメニューの画像がない事を?
レジェンドも若い時は、餃子、唐揚げ、おにぎり、エトセトラをいわしていたはずだがと想像するし、僕も実際この目で見ていた。
そうかぁ!サイドは邪道と言う事なのか?
でも餃子や唐揚げやいなり寿司などは、麺食においてその使命感と責任を確実に広く果たしてる。
それが邪道とはなんぼなんでも言い過ぎではと思う。
ではレジェンドは何故サイドメニューをそこに置かないのか?
その行き着くところの答えは「集中」ではないだろうか?
麺と向き合うと湧き上がる挑戦や不安 戸惑いや嫉妬 やり足りなさや無力感などがごちゃ混ぜになって複雑な気持ちがその場に生成される。
この入り混ざった気持ちをテコにして集中が出来上がるのです〜
でもその集中は自力で起こした集中では無いのです。
何かわからないけど集中をさされるのです〜
もっと深く言えば「集中さされた状態の集中」であり主役は自分では無く、集中さされてしまったので、麺を食べ終わる迄はラーメンに委ねるしか手が無いのです〜
そして今度はその集中さされた集中を誰かにパスする事を約束してしまうのです〜
これがサイドメニューを省み麺を啜る構造なんです。
という事で、麺活レジェンドは麺類に集中したのでは無いのです。
麺を前にした時に、麺に集中さされたのです
そして集中さされて食した麺の美味さを表す形容詞を手に入れたのです〜そしてそれをずーっとパスし続けているのです。
このスタイルは多分若い世代では未だ辿り着けない領域で、ましてそのスタイルを押し付ける事もしません。
それは海山谷を越えて来た大人だけが辿りつけるものなのだと確信するからです。
と言って若い諸君は焦らなくてもいいのです。熟成したらわかって来るのだと麺活レジェンド222は多分そう言う事を言っているのだろうとあの麺曼陀羅が語っています。
そんなこんなで神座のラーメンを、餃子、唐揚げ、おにぎりも外して、僕はラーメンに集中する、いやラーメンに集中さされるのです〜
そして美味いが高まる。あのポピュラーな美味を感じ「これがそうなんか!」を漏らして、その後にじゅわと「ぶぁまい」が立ち上がる。
ラーメンに集中さされた状況での美味いラーメンを表現する形容詞
それが「ぶぁまい‼️」なのです〜
麺に先手を取られひたすら麺に向き合いたいと言う気持ちの高まりが、「ぶぁまい」なのです〜
未だこの世界で表現された事のない、ラーメンに集中をさされた人だけが洩らす形容詞それが「ぶぁまい」なのです〜
この「ぶぁまい」は誰かにパスをする宿命も持ち合わせているのです。
あの麺曼陀羅を織り上げたレジェンドは、かなり前から、「ぶぁまい」を語っていたし、多くの「ぶぁまい」パスを目立たぬ様に贈っていたのです〜
僕は「ぶぁまい」を横の作業着のおじやんに、コッソリとパスをしておきます。