
ゆとりがあるとは,余裕があることである。
余裕がある教育は,ふたつの面から考え得る。
ひとつは,時間的な余裕であり,もうひとつは量的な余裕である。
時間的に余裕がある教育とは,
学習量に比べて,学習時間が十分に確保されているということであり,
量的に余裕がある教育とは,
学習時間に比べて,学習量が少ない教育である。
このことから,必然的に導き出される結論は,
「ゆとり教育は,学習時間を長くし,
学習量を減らすことによって
可能になる。」
ということになる。
学校週5日制などで学習時間を減らし,
学習内容の精選で学習量も減らしたのでは,
ゆとりのある教育は不可能である。
さらに,学習量を減らせば,
知識の量が減るのは必然である。
知識の量にかわって思考力や判断力が伸びるかというと,
思考力や判断力の育成には,
じっくり考える時間を確保してやる必要がある。
十分な学習時間なくして思考力が伸びることはない。
したがって,
学習時間も学習量も共に減らすことと,
従来のいわゆる学力を保持しようとすることとは,
論理的に矛盾する。
学習に対する価値観を変換し,
さらに学力の定義も変換し,
教育のパラダイムを変えることなしには,
時間・量共に減らすことに正当性はなく,
ゆとり教育とは,
学習をさせない教育と同義となる。
しかし,教育のパラダイムを変換する具体的な方向性は
まだ誰にもはっきりとは見えていないし,
それを提唱したとしても,それを理解する人は少数であろう。
かくして,教育は迷走する。
教育はどこへいくのか?
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学習量を減らすことによって
可能になる。」
ということになる。
学校週5日制などで学習時間を減らし,
学習内容の精選で学習量も減らしたのでは,
ゆとりのある教育は不可能である。
さらに,学習量を減らせば,
知識の量が減るのは必然である。
知識の量にかわって思考力や判断力が伸びるかというと,
思考力や判断力の育成には,
じっくり考える時間を確保してやる必要がある。
十分な学習時間なくして思考力が伸びることはない。
したがって,
学習時間も学習量も共に減らすことと,
従来のいわゆる学力を保持しようとすることとは,
論理的に矛盾する。
学習に対する価値観を変換し,
さらに学力の定義も変換し,
教育のパラダイムを変えることなしには,
時間・量共に減らすことに正当性はなく,
ゆとり教育とは,
学習をさせない教育と同義となる。
しかし,教育のパラダイムを変換する具体的な方向性は
まだ誰にもはっきりとは見えていないし,
それを提唱したとしても,それを理解する人は少数であろう。
かくして,教育は迷走する。
教育はどこへいくのか?

量と時間を減らすと
「学習負担」は減るが、「子どもたちの学力差」は拡大していきます。
時間をかけることが出来る子、
学校のほかに学習環境を持つことが出来る家庭が
得をする状況になっています。
これは大きな問題だと思っています。