学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

Be a good loser.

2005-07-15 | 教育
Be a good loser.
よき敗者であれ。

スポーツマンシップを象徴する言葉だが,
実によい言葉である。

いまの子どもたちに教えなければいけないのは
このことではないか。

Be a good loser.

勝者と同じ数だけ敗者がいる。
成功者と同じ数だけ,いやそれ以上に失敗者がいる。
夢をかなえた人と,夢破れた人,いろいろな人がいる。

それが世の中である。

そして,敗北や失敗や挫折は
自分の努力だけでは避けることはできないことが
多いのである。。

子どもたちに話していないか。

「夢をもちなさい。
 努力しなさい。
 がんばりなさい。
 そうすれば,……。」

実は,夢はかなわないことのほうが多いのである。

夢をもったり,努力したり,がんばったり,
それは,そのことそのものが尊いのであって,
その結果が尊いのではない。

結果はどうあれ,
その結果をにっこり微笑んで
受け入れることのできる人こそ
讃えられるべきなのである。

いつのまにか,
結果がすべてだと思い込んでいないか。
そして,子どもたちにそう教えてはいないか。
そんなやせ細った教育をしてしまってはいないか。

自戒を込めて振り返る。

Be a good loser.

愚かなり

2005-07-15 | 教育
愚かなり

かつて学校は,勉強するところであった。
そして,勉強とは,自分を磨くことそのものであった。

親は,幼い子どもに,
「先生のお言いつけをよく守りなさい」といって,
家から送り出した。

古ぼけた木造校舎は,
それでも幾世代にもわたる子どもたちの手によって,
ピカピカに磨きあげられ,
教室に入ると,居住まいを正さざるを得ないような
一種荘厳な雰囲気があった。

先生はあくまでも丁寧な言葉と物腰で子どもたちに接しつつも,
近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。
なんだかわからないが,偉い人なのだろうと思わせる気品があった。

授業は静かに聴くべきものであったし,
帳面はきちんととるべきものであった。

先生が質問されると,
一斉にまっすぐに挙手をし,
指名されれば,「はい」と大きな声で返事をして,
丁寧な言葉で答えなければならなかった。

授業がわからないのは,子どもの責任であった。
先生の言葉をよく聞いていないからにすぎないのであった。

宿題はやってくるのが当然であった。
忘れたときには,先生に叱られるのを覚悟の上で,
それでも正直に申し出なければならなかった。

職員室は,学校の中の異空間,厳格な大人たちの世界であった。
そこに呼び出されるときには,極度の緊張を余儀なくされた。

まじめであることは純粋に美徳であった。
正直であることは純粋に美徳であった。
成績優秀であることは純粋に美徳であった。
かけっこが速いことは純粋に美徳であった。

学校は,楽しいところではなかったし,
だれも,学校が楽しいところであることなど期待してはいなかった。

子どもたちの世界と大人たちの世界が厳然と分かたれていて,
学校は,一人前の大人になるための厳しい修行の場であったのだ。
だからこそ,先生のふと見せる優しさや人間味が貴重であったのだ。

これが,かつての学校の姿だったのである。

現代に眼を転じてみる。
教育改革で,どこまで子どもに迎合するのか。

愚かなり。

テストを考える

2005-07-15 | 授業の雑談
中間テストや期末テストは、
生徒諸君にとっては、とってもいやなものだろうけれども、
それは、教師にとっても同じである。

一枚しか作らなかったはずの解答用紙が、
テストが終わると、
生徒の人数分押し寄せてきて、
早く採点しろとせまる。

まさに悪夢である。

生徒にとっても教師にとっても、
いやなものであるテストがなくならないのは、
目下最大のなぞである。