学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

個性を伸ばす学校?

2005-07-30 | 教育
最近,「個に応じた教育」とか「個性を大切に」というようなことが
よく言われるようになった。

これはこれで結構なことではあるが,
学校教育にこれを要求するのはいささか無理がある。

そもそも学校とは,歴史的にみれば,
かつて個々ばらばらに教育されていた子どもたちを
一箇所にあつめて能率的に教育するように
つくられた機関である。

したがって,その構造上,集団教育をほどこすことになっている。
学校とはすなわち,集団教育をほどこすところなのである。

集団にとって最も効果があがるように教育をほどこすのが,
学校の本来の役割である。

したがって,本来的には
集団のなかのできるだけ多数の者に対して
できるだけ一定レベルの教育効果をあげることが
求められている。

あくまでも,できるだけ多数の者に対してであって,
すべての者に対して一定の教育効果をあげることは事実上不可能である。

集団の標準から逸脱する少数の者,
いわゆる個性的な資質をもった者が,
個性を発揮すればするほど,
教育効果が望めないのが,学校という組織の特質である。

集団の基準の重視と,集団の秩序の重視,
すなわちルールの厳守と例外の排除が,
学校の教育力を成立させている重要な要素である。

そのため,学校に対して,個に応じた教育や個性重視を求めることは,
そもそも構造上不可能なことを求めているわけであるから,
個々の教師にかかる負担が膨大なものになり,
学校全体としての集団に対する教育力が低下することになる。

学校が,それに対応しようとすると,
集団に対する効率性を重視する本来的な性質から,
能力別にクラスを分けるというようなことをしがちである。

この能力別クラス編成は,
一見合理的なように見えるが,
能力の,ある一面だけをみて選別しているにすぎず,
必ずしも個性に対応していることにはならない。
学習効果についても,
集団の成員の多様性から生じる教育効果を減衰させている点で,
疑問が残る。

結局のところ,学校は,個性を伸ばすための機関ではないので,
個に応じた教育は,優れた家庭教師やコーチに頼むしかないのである。

個に応じた教育を標榜している学校も増えてきたが,
どういう意味で個に応じるのか,そこに論理矛盾がないかどうか
よ~く見極めることが大切である。

に<br>
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4 Comments

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はじめまして (wack)
2005-07-30 08:12:42
はじめまして

僕は現在大学院で教育学を学んでいるwackと申します

人気ブログランキングでこのブログに目がとまり

拝見させていただきました



僕も「個」や「個性」ということについてよく考えます

僕個人の意見としましては、

学校教育において「個」や「個性」を強調されている現状には疑問を感じます



その理由は簡単に言ってしまえば、

madographosさんがおっしゃっているように

「学校は個性を伸ばすための機関ではない」

からです



昨今の教育改革などを見聞きしていると、

学校の本来的な機能や

現場の実情(これに関しては僕は生徒としての立場から見えるものしかわかりませんが)

とは乖離したものが多いような気がします



勝手ではありますが、

もう少し自分なりに考えてみたいと思いますので

この記事をトラックバックさせてください



初めて訪問したばかりなのに恐縮ですが、

今後もよろしくお願いいたします





返信する
Unknown (madographos)
2005-07-30 08:34:54
>wack様。御丁寧なコメントありがとうございます。ちょっと,過激だったかもしれませんが,「個」と「学校」との関係は,世の中でよく言われているように,教育改革ですっきり解決するような問題ではないので,ひとこと所感を書いてみました。どうぞ,ご自由にトラックバックしてください。今後ともよろしくお願いします。
返信する
Unknown (Unknown)
2011-02-02 12:13:46
学校は個性を伸ばすところではない。
うーん。
伸ばすところではなくても、潰すところでも無いと思います。
集団で統率し易い教育。
まさにそれは、教論が楽にコントロールし易い子供たち。
上の者が下の者を操り易い教育を施すための場です。
日本での多くがそのような教育を長年つづけているので
日本人は組織で上の人間に「ゴウニナラエバゴウニシタガエ」で動くのが得意な人間に育っていても
人の上に立って皆を統率する人になることが苦手な人種です。
先生に都合よく、黙り自分の意見は余り申さず、静かに作業をこなす。
集中力として机に向うことと、その個を消して皆一律同じくにさせられることとは全く違います。

本当は先生が中心ではなくて、生徒が中心であるべきです。
もちろん、先生は上、生徒は下という態勢は、その後社会に巣立って行く者たちを作るべく、教える立場の者、教えられる立場の者としては大事で崩すべきポイントではありません。
ただ「個性を伸ばす」ではなくても「個性を潰さない」「個性を尊重する」ことで、人は皆ちがい、人は皆各々特殊な才能を持ってることに目覚める。それはとても大切なことなのだと思います。

自分は集団の中に入り、あまり目立たず作業の流れをこなし静かに人に仕えたい。と、思う人間と
自分には、こうしたいこと、そうしたいことが沢山あり、流れにそってこなしていくことは苦手で、
その才能を生かしたい!
もしくは、それらの資質と向き不向きを見た親の勘や想いに沿って、それも各々の学校の特徴として選び
これからの社会、国を作る子供たちが育つ場所を選べばいいのだと思います。
どちらがあってる、間違っているでは無く。。

自由がさわがれるのは、そういった個性を大切にする学校教育を持つ場があきらかに日本は無いからです。
人に仕え、個性を殺し、静かに組織に埋まることが美徳として育てられた人間がまた更に上に立ち、年功序列で上にの仕上げられた者たちが(年功序列ということは、その人に資質があるか無いかを認められて上にあがることではなく、真面目に与えられたことと金属年数などで上がるということですね)また今度は下の者に同じくことを強い望む。その繰り返しです。

人間はロボットともクローンとも違います。
野に咲く花でも、たくさんの種類があり、たくさんの生き方育ち方があります。

その国独特の美徳を持つことがその国の文化や特色として美しいことですが、「これはこうでなくてはいけない」という固定観念に囚われない、本来その人の持つ、その人独自のものは、尊重し合える。
そんな社会をわたしは願います。
返信する
Unknown (madographos)
2011-02-02 22:14:15
>Unknown様。ハンドルネームは,今後,Unknown以外でお願いします。名前の未記入か,ハンドルネームかが判別できないからです。
 コメントの論旨がエントリーの主旨と若干違っていますので,ご返事しにくいのですが,このエントリーの主旨は,学校は個性を伸ばすように作られた機関ではないということを述べています。学校が個性を潰すところだとは述べていません。学校の集団規律ごときで潰れるようなものは個性ではありません。組織に潰されるようなものは個性の名に値しません。それは,組織に潰されたのではなく,もともと個性ではなかったのです。それを個性だから認めよというのは,甘えに過ぎないと思います。
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