学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

頭上注意

2005-07-28 | 授業の雑談
「大きな栗の木の下で」という歌がある。

でも、この歌、よく考えると危険である。

大きな栗の木の下であなたとわたしが仲良くあそぶのは結構だが,
いつ,頭の上にいがが落ちてくるかわからない
極めてスリリングな状況なのではないだろうか。

シラクサの独裁者ディオニュシオス1世が,
王の幸せを味わいたいといったダモクレスを
山海の珍味の並ぶ贅沢な玉座に導いたが,
その頭上には馬のたてがみ1本で剣がつるしてあり,
おそれをなしたダモクレスに対して
ディオニュシオス1世が,
「王の幸せとはこのようなものだ」といったというお話の
あの「ダモクレスの剣」のような深~い意味があったりして。

なにげない日常にひそむ危機を表した意味深長な歌だったりしたら
こわいですよね。

「大きな栗の木の下で」を聞くたび,
このような勝手な事実無根の想像をしてしまうのであった。

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2種類の学校

2005-07-28 | 教育
学校には、2種類ある。
ひとつは、人間教育を志向する学校であり、もうひとつは、成果主義を志向する学校である。

人間教育学校は共同体である。人間教育学校においては、学習は、将来生きていくために必要な学びの姿勢の育成に重点が置かれ、成績においては、個々の生徒の成長のプロセスを重視する。学習内容よりも態度やスキル形成を重視するのである。したがって、いわゆる受験学力には直結しない。長い人生を生き抜く力として学力をみる立場である。学力が将来にわたって生きた力となるためには何が必要かを考えてカリキュラム構成するため、必ずしも短期的な成果は得られない。将来的に教育効果が現れることを期待しているのであるが、その効果があらわれるかどうかは未知数である。

成果主義学校は工場である。成果主義学校においては、学習は、なによりも成果を出す手段と考えられる。つまり雑駁に言えば,受験学力こそがこの学校における学力である。学校における学習が、受験における客観的な成果として現れることを何よりも喜ぶ。しかし,生徒が成果を挙げたことを生徒のために喜ぶのではなく,学校の教育の成果があがったように見えることを学校のために喜ぶのである。学習方法としては、成果を出すのに最も効果的な方法がとられることになる。そこでは,効率が最優先であり,非効率な学習活動や効果の望めない諸活動は避けられる。しかし、このような学校で身につけた学力が将来において活用可能な学力であるかどうかは未知数である。

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