学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

カエサルとアウグストゥス

2005-07-18 | 授業の雑談
7月はローマのJulius Caesar の月でJuly,
8月はAugustus の月でAugust,
ローマの支配者は暦まで自由にできる力があったらしい。

いい迷惑なのは,ずらされてしまったSeptember 以降の月である。

October なんか,せっかく”たこ”(Octopus)の親戚で8を主張しているのに,
10月にされてしまっている。

実にかわいそうである。

教えるということと学校の価値

2005-07-17 | 教育
教師というものは、自分が教えたことが生徒に伝わっていると思いがちである。
だから授業時間を増やせば生徒の力が伸びるとか、
丁寧に教えれば生徒の成績が上がるとか思いがちである。

残念ながら、これは間違いである。

教師が教えなくとも,生徒は学び,
教師が教えても,生徒は学ばない。

教師が教えたものと生徒が学び取ったものには、
必ず質的にも量的にもずれがある。

自分の学生時代を振り返ってみれば,すぐにわかるはずである。

結局,教師には自分が思っているほどには、生徒を教える力はない。
そのことを自覚している教師こそ,真の教師である。

これまた残念ながら,
真の教師は,誰にも知られることなく細々と生きている。

新しい学習のメソッドや教育課程が,一時はもてはやされても,
その評判が長続きしないのは,際立った効果が本当は見られないからである。

どんなメソッドや教育課程も,
一部の生徒には効果的だが,他の大部分の生徒には効果がないのである。
さらに,誰に対して効果があるかは,誰にもわからないのである。

教師は,自分にはさほど教育力がないことを自覚すべきであり,
また,教師以外の大人も,
教師ほどには教育力があるわけではないことを自覚すべきである。

究極のところ,
学校には,教師と生徒のつくる共同体としての価値以外の
価値を見い出すことができないのである。

それゆえ,人材育成や学力養成や進学実績を
表看板に掲げる学校は,
必ず論理矛盾を内包している。

共同体そのものの価値を校是として掲げる学校をこそ
信頼すべきであろう。
そのような学校もどんどん減ってきてしまっているが。

走るべからず

2005-07-16 | 授業の雑談
よく学校で,廊下は走らないようにと注意される。

ところが,廊下を走らないためには,実は,強い意志がいるのである。

動物はもともと,自分の蓄えているエネルギーをなるべく消費しないように行動するよう
プログラムされているそうである。

一定のスピードを超えると、早歩きをするよりも小走りに走る方がエネルギー消費が少ない。
そのため、急いでいると本能的に走ってしまうのだ。

それでも走らないようにするには,意識して,早歩きをする必要がある。

そう考えると,「廊下を走らない」ということには
深い意味があるのである。

すなわち,本能を理性で抑えよということなのである!

常に理性的であれ!
これこそ,「廊下を走らない」ことの本質なのである。

なんちゃって。

Be a good loser.

2005-07-15 | 教育
Be a good loser.
よき敗者であれ。

スポーツマンシップを象徴する言葉だが,
実によい言葉である。

いまの子どもたちに教えなければいけないのは
このことではないか。

Be a good loser.

勝者と同じ数だけ敗者がいる。
成功者と同じ数だけ,いやそれ以上に失敗者がいる。
夢をかなえた人と,夢破れた人,いろいろな人がいる。

それが世の中である。

そして,敗北や失敗や挫折は
自分の努力だけでは避けることはできないことが
多いのである。。

子どもたちに話していないか。

「夢をもちなさい。
 努力しなさい。
 がんばりなさい。
 そうすれば,……。」

実は,夢はかなわないことのほうが多いのである。

夢をもったり,努力したり,がんばったり,
それは,そのことそのものが尊いのであって,
その結果が尊いのではない。

結果はどうあれ,
その結果をにっこり微笑んで
受け入れることのできる人こそ
讃えられるべきなのである。

いつのまにか,
結果がすべてだと思い込んでいないか。
そして,子どもたちにそう教えてはいないか。
そんなやせ細った教育をしてしまってはいないか。

自戒を込めて振り返る。

Be a good loser.

愚かなり

2005-07-15 | 教育
愚かなり

かつて学校は,勉強するところであった。
そして,勉強とは,自分を磨くことそのものであった。

親は,幼い子どもに,
「先生のお言いつけをよく守りなさい」といって,
家から送り出した。

古ぼけた木造校舎は,
それでも幾世代にもわたる子どもたちの手によって,
ピカピカに磨きあげられ,
教室に入ると,居住まいを正さざるを得ないような
一種荘厳な雰囲気があった。

先生はあくまでも丁寧な言葉と物腰で子どもたちに接しつつも,
近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。
なんだかわからないが,偉い人なのだろうと思わせる気品があった。

授業は静かに聴くべきものであったし,
帳面はきちんととるべきものであった。

先生が質問されると,
一斉にまっすぐに挙手をし,
指名されれば,「はい」と大きな声で返事をして,
丁寧な言葉で答えなければならなかった。

授業がわからないのは,子どもの責任であった。
先生の言葉をよく聞いていないからにすぎないのであった。

宿題はやってくるのが当然であった。
忘れたときには,先生に叱られるのを覚悟の上で,
それでも正直に申し出なければならなかった。

職員室は,学校の中の異空間,厳格な大人たちの世界であった。
そこに呼び出されるときには,極度の緊張を余儀なくされた。

まじめであることは純粋に美徳であった。
正直であることは純粋に美徳であった。
成績優秀であることは純粋に美徳であった。
かけっこが速いことは純粋に美徳であった。

学校は,楽しいところではなかったし,
だれも,学校が楽しいところであることなど期待してはいなかった。

子どもたちの世界と大人たちの世界が厳然と分かたれていて,
学校は,一人前の大人になるための厳しい修行の場であったのだ。
だからこそ,先生のふと見せる優しさや人間味が貴重であったのだ。

これが,かつての学校の姿だったのである。

現代に眼を転じてみる。
教育改革で,どこまで子どもに迎合するのか。

愚かなり。

テストを考える

2005-07-15 | 授業の雑談
中間テストや期末テストは、
生徒諸君にとっては、とってもいやなものだろうけれども、
それは、教師にとっても同じである。

一枚しか作らなかったはずの解答用紙が、
テストが終わると、
生徒の人数分押し寄せてきて、
早く採点しろとせまる。

まさに悪夢である。

生徒にとっても教師にとっても、
いやなものであるテストがなくならないのは、
目下最大のなぞである。

ことばが通じない

2005-07-14 | 教育
最近、生徒との間で、会話が成り立たなくなっている。

たとえば、授業中に団子を食べている生徒がいたとする。
教師が、「何を食べているんだ!」と叱る。すると、その生徒が、「だんご」と答える。
教師、さらに怒る。
生徒、なんで教師がさらに怒るのかわからない。

このような情景がコミュニケーション不全のひとつの症状である。

蛇足ながら解説すると、最初の教師の言葉、「何を食べているんだ!」には、「授業中にものを食べてはいけないことはわかっているはずだろう!なんてことをしているのだ!」という叱責が込められているのである。

ゆえに、生徒の正しい対応は、上記の言外の意味を読み取って、「ごめんなさい」あるいは「すみません」という謝罪の言葉をまず口にすべきなのである。

謝罪の言葉なく、ただ「だんご」と答えるのは、教師の言葉を文字通り受け取って答えているにもかかわらず、教師にとってみれば、おちょくられているように感じるのである。

そして、教師はさらに怒るのである。

ところが、生徒のほうとしては、言外の意味を汲み取れていないので、「教師が質問したから、正直に答えたのになんでさらに叱られるの??」という思いで、はてなマークがいっぱいになっているのである。

かくして、教師と生徒のコミュニケーションは不全に陥るのである。

現代の教師は、なぜ叱っているのかをきちんと生徒にことばで説明しなければ、生徒は、言外の意味など汲み取ってはくれないのである。

したがって、上記の教師は、次のように言わなければならない。

「○○君、君はいま口をもぐもぐさせていて、何かを食べているように推察されます。授業中にものを食べてはいけないことはすでに理解しているはずです。もし、何かを食べているのなら、いますぐそれを口から出し、謝罪の上、何を食べていたかを申告しなさい。もし、何も食べていないのなら、先生の事実誤認ですから、先生が謝ります。その場合は、何も食べていなかったということをきちんと証明してください。以上」

あー、しんど。

ハイヒールをめぐる文化摩擦

2005-07-13 | 授業の雑談
我が国の人々がかかとの高いハイヒールをはくとき,その問題は生じる。

そもそもハイヒールは西洋のはきものだから,西洋人にふさわしい。
かれらは,どちらかというと足を後ろにけって重心を前へ前へと移動させながら歩くので,
後ろになった足に重心が残らず,ハイヒールをはいてもひざがまがらず歩ける。

しかし,我が国の人々は,わが国固有の和服の伝統を未だ有しているせいでもあろう,
現在でも歩くときに重心を後ろにしっかりと残して,足を前に出しながら歩く人が多い。
いわゆるすり足のような形。

この我が国の美しい歩き方を身につけた人が,
かかとの高いハイヒールを履くと,
ここに由々しき文化摩擦が生じるのである。

重心を後ろに残して,しかもかかとが上がっているということは極めて不安定な体勢である。
安定を維持するため,ひざを少し曲げて歩かなければならない。
それでも不安定なので,腰を少し曲げて歩かなければならない。

我が国の伝統的な美しき歩き方は,
まさしくその美しさのせいで,
極めてネアンデルタール人に近い歩き方になってしまうのである!

人類は,長い年月をかけて直立二足歩行を身につけたというのに,
この文化摩擦によって,進化の過程を逆行していくのである。

いまやレッサーパンダが直立したことを,
喜んでばかりはいられない危機なのである。

授業中居眠りをするときの注意事項

2005-07-12 | 授業の雑談
授業中、居眠りをするときは、
筆記用具は必ず机の上に置いてからにしましょう。

時々、シャープペンシルを手に持ったままで、
こくりこくりやっている人がいます。
時々、そのシャープペンシルの先が上に向いていることがあります。
ささりますよ!

学習指導要領と「学力」

2005-07-12 | 教育
現行の小学校・中学校・高等学校いずれの学習指導要領においても,「学力」ということばは一度も使われていない。

これは,とりもなおさず日本の学校が「学力」の向上を目的としていないことを端的に示している。

実際には,学習指導要領が出されてから学力低下の議論が起こってきたため,文部科学省は「生きる力」の構成要素としての「確かな学力」という考え方を提出してきたのである。

学校教育の目標に,学力が設定されることによって,学校の目的の矮小化が起こってくることを忘れてはならない。

教育の目的とは?

2005-07-12 | 教育
現在の教育改革の議論のなかで、教育の目的は何かということが置き去りにされてはいないだろうか。
「学力低下」論議がかまびすしいが、「学力」はいつから教育の目的になったのだろうか。

教育基本法を見直してみよう。教育基本法では、第1条で教育の目的を規定している。

「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家および社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」

ここには、「学力」という言葉はでてこないのである。
もう一度、教育基本法を読み直す必要があるのではないだろうか。