まあ、毎度毎度のお話といいますか、私の文章の書き出しには「ネットをやりながら傍らのつけっぱなしのテレビでろくでもないものを見てしまった」なんてのが多いわけですが、そんなことばかりあるならいっそテレビなんか消してしまって、CDでも聴きながらネットしてれば良さそうなものと思うでしょ?私もそう思うもの。
でもまあ、夜中のテレビの、さっぱり面白くない番組をボケッと見つつ、無為に時間が過ぎて行くのを感じるってのも、退廃のうちに腐れ果ててゆく快感みたいなものがあってやめられなかったりするんですな。
それにしても以前、そんな深夜のテレビを例の如く、見るともなしに見ていたら、新人ロック歌手専門のプロモーション・ビデオ番組が始まり、「本音で力いっぱい生きられた、それが僕らの小学校。今日でさよなら小学校」なんて歌を歌ってる女の子のシンガーソングライターのビデオ作品が流された時には頭を抱えたなあ。
とうの昔にハタチは超えたろうにと思われる、いかにも生真面目そうな女性だった。ともかくなあ。その歳になって、「本音で生きられた」とか、小学校の話をされてもなあ。
しかもそのビデオ、ディランの”サブタレニアン・ホームシックブルース”のパクリなの。つまり、歌われる歌詞が画面に歌手自身が持ったテロップで示される、というパターン。まあ、いいけどね。それに関する言い訳は、とうの昔に用意済みなんだろうからね、言ってみたってしょうがないんだろうけどね。でもねえ。小学校の話をされても。
で、今日も今日とて、見てしまいましたよ、頭痛物件。彼らの悪口は以前、ここにも書いたような気がするなあ。クロマニオンズって言う、あれは日本のパンクロック界の大御所、見たいな存在なんでしょ?例のブルーハーツの流れを汲むんじゃなかったっけ?
その連中が新曲を歌っていたんだけど。その曲がなんとも情けない代物でねえ。「紙飛行機がス~イスイっと彼女の窓辺へ♪」とかいう、まあ、うろ覚えですけどね、あんまり覚えたくもないし。ともかくそんなたわいもない歌ですよ。こいつらも小学校の頃を懐かしがっているのかなあ、なんて思わされる仕組みの。
それでも彼らのファンのコなんかはあの歌を聴いて、「あんな歌をあの歳になっても歌っている、そんな少年のようなピュアな心が美しいのよっ!」とか、目をハート型にしてるんでしょうかね。
曲調は、もう型にはまっりきった、30年くらい前から変化してません、みたいな類型的なパンク曲。もちろん、日本独特のふやけたフォーク調は加味してありますよ。それがなけりゃ、この国で商売はして行けません。
そいつを、「ボクら、見事に頭の中、空っぽで~す」みたいなケレンともいえないような空疎なポーズをとりつつ歌い演奏するわけですね。そんなポーズはもうとっくに破産を宣告されて久しい”形骸化したロック”の典型的姿でしかない。わざわざ”振り”をしなくとも、頭の悪いのは歌を一節聴いただけで十分、分かったし。
しかも歌われる歌詞が「それが僕らの小学校~♪」みたいな代物ではねえ。幼稚園でこころ行くまでお遊戯をしなかったから、まだその世界に未練があるんじゃないの?と失礼ながら疑ってみたくなるのですよ、私などは。
何で”日本のロック”って、こんなことになってしまったんでしょ?多かれ少なかれ、我が国で”ロック”と称されている音楽って、このレベルかと認識されるんだけど。
私見では、あの”RCサクセション”が童謡路線といいますか、”ロックとはすなわちガキの遊びである”との路線を提示し、そいつを固定化したのがブルーハーツである。そのあたりで流れが決まった、と想像しているんだが、おおかた、そんなものなんでしょ?
栄光の70年代過ぎて後の日本のロックなんてまるで聴いてない私なんで、見えていない部分は相当にあるだろう。私の言い分に疑問を感じた方、議論を挑んでも、その論を理解する知識がそもそも当方にはありませんので、ご承知おきください。
いや、外国のロックだって、相当なものだと思いますよ。きっと多くの歌が、くっだらねー事を歌い上げていると思うんだ。こちらが相手の言葉を理解できないから、恥ずかしくなったりうんざりしたりせずに洋楽ファンをやっていられる、なんて側面もきっとあるに違いない。
でもねえ、あんな具合の幼児性の臆面もない賛歌ってのは、どうなんでしょうね?ひょっとして日本固有のものじゃないかなんて、時に疑ってみるんですが?
ともかく若い連中は、そんな方向へ流れてゆく自らを疑いもせず、そしてまた一方には、先にNHKのオヤジロック・コンテスト評で書きました、生暖かい人情話の海に飲み込まれんとするオヤジ・ロックの世界がある。こりゃ難儀な話だと思いますねえ。