”タクラマカン”by 佐井好子
佐井好子、である。
彼女のアルバムは以前、この場でも取り上げたことがある。70年代、おそらく正当な評価も得られることもないままに一人、奇怪な幻想歌を歌い続けた、ユニーク過ぎるシンガー・ソングライターだ。
大学時代、病を得て療養生活を余儀なくされた際に慰めにむさぼり読んだという夢野久作、小栗虫太郎、久米十蘭などの作家たちによる幻想小説に表現上の影響を受けた、という話を読んだことがある。
なるほど、そんな感じの、不思議な懐かしさをはらんだほの暗い悪夢の一刻をその歌のうちに描き出していた、ユニークな歌い手だった。後年になって彼女の世界に注目する者たちが現れ、吹き込まれた数枚のアルバムもCD再発がなされた。
そしてこの盤は、なんと30年ぶり、2008年に吹き込まれた、佐井好子の新録、復活盤である。戦前のブルースマン風に言うなら、”再発見後の吹き込み”ということになろうか。このレコーディングが可能になった経緯は知らない。そういうことは知らないほうが楽しめるんではないのか。
一聴、昔と変わらぬ、あの佐井好子の世界である。子供の頃、熱に浮かされてみた悪夢の中で遠く聴こえていた、あのメロディに乗せて、煙の出ない煙突に登りハト撃つオヤジやこぼれた大豆を数えて暮らす髭男や青いケシの花が咲く山を歌う。川をたゆとう釣り船には死んだ父さん乗っている、と。以前のままの歌声が響いている。
ひゃあ、昔と同じ歌だよ、よく変わらないでいてくれたものだ。がっかりさせられることも多いものね、この種の復活盤というものは。
しかし・・・なんだか聴き進むうち、”昔と変わらぬ佐井好子”を喜んでもいられない、みたいな気分にもだんだんなってきた私なのだが。
何を言っているのかって?彼女は実は、自身の生み出した幻想世界に封じ込められ、出てくることが出来なくなっている閉塞状態なのではないか。だってほら、タイトル曲で彼女もこう歌っている。
”そばにいても 姿はここじゃ 見えない
まるで一人 この世に生きているみたい”
と。
子供の頃見たアメリカのSF映画に時間の狭間に閉じ込められて出られなくなった男の話があったが、佐井好子のこの盤も同様に、そんな彼女の悲鳴ではないのか、なんて私は危惧するのだ。いや、ほんとにそうかどうかなんて分かりませんよ、私には。そうじゃないといいけどね。表現の世界って恐ろしいね。という話である。
そして再度聴き返す、心象風景としてのタクラマカン砂漠の荒涼。錯綜する思念の中に凍り付いて、夜闇の向こうにどこまでも広がっている。