毎年、年の瀬には、この季節は苦手だなんのとぼやき通す次第だが、考えてみればクリスマス騒ぎやら、今年もなにごとも成しえずにただ馬齢を重ねるのか、と言った無念の想いなどがこちらを苦しめているのであって、年末自体は、むしろ好きな季節といえるだろう。寒風の中、人も自然も一様に”終末”に向けて否応なく日々運ばれて行く感触は悪くない。むしろ問題は年の瀬が終ると”新年”が来てしまう、その一点にあるのではないか。
せっかく一年かけてすべてのものが暦の終わりで眠りにつく年の瀬へやって来たのではないか。それをなぜまた、頭からすべてをまき戻し、妙に日なた臭くてキラキラしい”新年”などを迎えねばならないのか。たとえ12月が終ろうとも、そのままさらなる年の瀬に向けて進んで行って、何が悪いと言うのだ。
大晦日。紅白歌合戦も終わり、テレビでは”行く年来る年”の放映が始まっている。あちこちの寺では僧侶たちが除夜の鐘を叩きはじめる。人々は晴れ着を着て初詣に向かう。やがてパーティ会場では新年へ向けてのカウント・ダウンが始まり。が。新年は来ないのである。時計の針が”12”を回ると同時にめくられたカレンダー。が、12月31日の次には、その年の13月1日の日付けがあった。
肩透かしを食わされた初詣客たちは、それでもせっかく神社へ来たのだからと賽銭を投げ手を合わせるが、皆、なにかピンと来ない表情である。それはそうだ。大晦日が終ったのに、新年が来なかったのだから。
翌朝、各家庭では、それでも作ってしまったものだからとおせち料理を広げるが、なんとも間の抜けた思いがある。子供たちはお年玉をもらい損ねる。なにしろ、新年はやってこなかったのだから。昨日は確かに12月31日だったのに、今日は正月ではない。単なる13月の最初の日。祝日でさえ、ない。
15月。やって来た春に、人々は冬の上着を脱ぎ捨て、明るく声を掛け合う。
「やあ、どうも今年も押し詰まりまして」
「押し詰まりましたなあ。もう4ヶ月も年末が続いておりますわ」
19月。入道雲は空高く立ち上がり、今日も街は炎熱地獄の年の瀬である。明日からの夏休みを控え教師たちは、年末だからと言って浮かれて海などに遊びに行き、非行化の原因を作るなと生徒たちに説教するが、効き目はない。
22月。紅葉の鮮やかな山道を踏みしめながら行楽の人々は言い交わす。
「いやあ、見事な紅葉で。押し詰まりましたなあ」
「いやもうすっかり今年も押し詰まりまして」
24月。もう1年も年の瀬を続けた人々は、ついに”今年”二度目の紅白歌合戦を見終え、そして時計の針が一日の終わりを示すのを確認する。人々がそっとめくるカレンダー。24月31日が終わりを告げ。その次にあった日付けは。25月1日。新年はまたも訪れる事はなかったのである。
「なんとまあ」
「ああ、これはまたもう一年、今年を続けねばなりませんなあ」
「ともあれ、押し詰まりまして」
「いやもう、気ぜわしいですなあ、年の瀬は」
「まったく」
(音楽ネタでなくて、どうもすみません。飽きっぽい性格なんで、長いこと同じ事をやっていると、つい踏み外したくなりまして・・・)