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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

”ジャニスを聴きながら”を聴きながら

2009-11-24 05:33:44 | 60~70年代音楽

 ”ジャニスを聴きながら”by 荒木一郎

 深夜3時半なんて時間に寝起きだなんてのは私くらいのものか?別に仕事の都合とかじゃない、夜、テレビを見ながら寝転がっていたら、つい、本気で寝込んでしまった結果である。ああ、中途半端な気分だ。起き出すには早すぎるし、寝なおす気分じゃないし、酒を飲むわけにも行かないし。

 所在なし、という状態でつけっ放しになっていたテレビをいじくり回していたら「あしたのジョー」のアニメをやっていた。私もこの辺の世代ではあるんだけど、特にファンでもなかったので、このアニメを見るのははじめてだ。いつ頃作られたのかも知らない。ストーリー全体のどのあたりのエピソードかも分らず。

 画面に終始細かい雨が降っているかのような哀感が感じられたので、もうジョーの物語の終わり近くなのかなと思って見ていた。が、番組終わりの次回予告は”第8回”となっていたので、まだ物語は始まったばかりなのか。これが「ジョー」のタッチなのかも知れない。
 同じ時代の歌手を歌ったもの、という連想なのか荒木一郎の「ジャニスを聴きながら」をふと聴きたくなり、CDを引っ張り出して聴いてみる。

 同じ時代も何も実は、この歌で歌われている”ジャニス”が何者なのか長い事知らずにいた。まあジャニス・ジョプリンのことだろうと見当は付いていたのだが、歌のタッチがあまりにもフォークなので、誰か別の、私の知らないジャニスについて歌っているような気もしていた。

 この歌の歌い出し、”街はコカコーラ”を聴くたび、東京へ出て暮らし始めた年の夏の最初の日、友人たちと渋谷の街に遊びにくり出した思い出が、何枚もの連続写真みたいにストップした場面の連続で蘇ってくる。あの頃はジャズ喫茶に行くのが大好きで、それ一杯で粘り過ぎたおかげで、溶け出した氷にすっかり薄味になってしまったコーラを前に、飽きることなくジャズを聴いていたものだった。

 もっとも、ネットで検索してみるとこの部分、「街はロードレース」ともなっている。何かの事情で書き直されたのかもしれない。どちらがオリジナルか分らないが。当時あった、なにごとかの事件にちなむ歌詞なのだろうか。歌詞の他の部分、墨で消されて売られて行くプレイボーイ、というのは雑誌のグラビアでワイセツ事件でもあったのか?はっきり覚えていないけれども、そういうことがあったりした時代でもあった。オイルで汚れた引き潮、というのも、同じように現実の事件に関わるのか。

 そんなこともあったんだろう。あれもこれも忘れてしまったのだけれども。グダグダしているうちにも、残酷な夜明けは忍び寄っている。朝が来て一日が動き出したらせねばならないつまらない仕事のいくつかが記憶に蘇り、そのうっとうしさに、ふとこのまま死んでやろうかな、などと思う。ほんとに死にはしないけれども。

 ”人生はつかの間のゲームであり、その幻の賭けに負けた時は”と、荒木一郎はCDラジカセから歌いかけてくる。いや、彼は私などに関心はなく、ただ勝手に歌っているだけなんだが。”それだけのことなのさ”と。



蒸気機関車の夜に寄せて

2009-10-17 06:12:00 | 60~70年代音楽

 どうも何もかもが上手く行かない一日。そんな日がこの頃、特に多い気がする。どうでもいい事。どうでもよくない事。どれも物事にすっきり解決が付かず、ただウヤムヤに時が過ぎるのをなすすべもなく見送るだけだったりする。
 なんとも行き所のない気分のまま呆然と、NHK深夜の埋め草番組を見つめて過ごす。本日は”昭和のSL映像館2「東日本・北海道編」”である。遠い昔に作られた映像詩の何度目かの再放送。

 番組制作時点ですでに失われる寸前であったろう蒸気機関車の運行風景を淡々と描写している。いつ頃作られた番組だろう。NHKのサイトを見てもさすが埋め草番組、何の資料も提示されていず、その詳細は何も分らない。ほんのときおり差し挟まれるナレーションの、その声質や内容の古めかしさから、かなり以前の製作ではないかと想像されるのみ。
 画面の隅に昭和30年代の年号が示されるが、映像のバックにシンセなどが使われているのを思えばさすがにその年代の製作ではなく、昔作られたドキュメンタリー番組を後になって再編集したものなのだろう。

 信じられないほど古めかしい作業服を身にまとった乗務員は石炭を釜にくべ、今日よりも深い夜の中を機関車は走り、今日よりも重く降り積もった雪の駅に至る。今日よりも厚苦しいコートを羽織った乗客たちは、今日よりも堅固な沈黙を抱えて座席に沈み込む。
 フィルムのバックで生ギターやピアノがゆったりと和音を奏で、それに乗ってシンセやストリングスが牧歌調と言うのか、ほんのり感傷的なフォークっぽいメロディを奏でて行く。アレンジのセンスの今日との微妙なズレから、映像が再編集されてからもすでにそれなりの時が経過しているのであろう事が分かる。

 昔、旅をしていた頃に見た風景を想起させられる場面もあり、それなりの旅情と懐旧をそそられもする。あの頃はギター一本抱え、よくもあてのない日々を過ごせたものだ。「夢を追って生きられるって凄いよなあ」と呆れ半分に言われたこともあったが、なに、現実から逃げていただけのことだった。
 大学は出たものの仕事も見つからず、やけになって旅に出てしまった。「就職せずに音楽で生きる道を探す」とか言っていたが大嘘だった。ただバイトで食いつなぎ、”将来、何をやって生きて行くのか”なんて命題からはただ目をそらしていただけのこと。

 時間は、そんな人間のちっぽけな都合は考慮せず、ただ過ぎて行く。追い越して行く。画面に映し出される蒸気機関車たちも、おそらくは今日、稼動しているものは一つもないのだろう。
 あの頃の知り合いとの付き合いも、いつかことごとく途切れ、気持ちを打ち明けそびれたままだった惚れていた女はとうに嫁に行ってその土地に根を生やし、そして気の早い友人はもう死んでしまっている。

 旅をしていた頃の、あの時代の匂いがどこかにするフォーク調の番組BGMが永遠に続けば良いと願うものの、しょせん小一時間の時間旅行である。ENDマークはいつか表示される。
 過酷な時との戦い。夜は必ず朝に負けることと定められており、いつか窓の外は明るくなり、目覚めた街の物音は聞こえ始めて、残酷な夜明けは確実にやって来る。



忘れた唄、聴きそこねた唄

2009-09-07 16:10:08 | 60~70年代音楽
 ”南行きハイウェイ”by 加川良

 ネット上の古い知り合いである小川真一さんが、mixiの日記にフォークシンガーの加川良が75~78年頃に出したアルバムが、このたびCD化された話を書いておられた。小川さんはそのライナーを担当されたとか。
 加川良といえば、ここで改めて説明するのも恥ずかしいくらいの広く知られた唄ではある”教訓1”で70年代アタマに颯爽とデビューしたシンガーソングライターであり、私も当時、加川のデビューアルバムは愛聴したものだった。

 だがその後、フォーク系の唄のファンを長く続ける事のなかった私は今回、小川さんが紹介しておられる盤は聴いた事がない。どころか、そのような盤が出ていたこと自体を知らずにいた。
 70年代中頃といえば・・・そうだな、私はヴァン・ダイク・パークスの”ディスカバー・アメリカ”でその魅力を知った古いカリプソの盤が欲しくてあちこちの輸入盤屋を捜し歩くといったワールドミュージック愛好家状態に、すでに突入していた。「フン、いまだにシンガー・ソングライターなんか聴いている奴がいるの?」とかうそぶきつつ。

 いい加減な奴である。ほんの1~2年前までは伝説のロック喫茶”であるブラックホークなんて店に通い、そこで覚えてきたシンガー・ソングライターものの稀少盤を目を血走らせて探し回っていたくせに。
 いやまあ、そういう時代だったのだからお許し願いたい。”栄光の70年代音楽”の伝説の崩壊はすでに始まっていて、音楽の価値も揺れ動いていたのだ。

 先に愛聴したなんて言ったが、加川良のデビューアルバムに”教訓1”以外の、どんな曲が入っていたのかまったく思い出せない。一緒に買った高田渡のキングからの1stなんか全曲覚えているのにね。時の流れというものは過酷なものである。
 ”教訓1”の印象的なリフレイン、「青くなってしり込みなさい逃げなさい隠れなさい」で提示された唄の主張を当時、フォーク評論の世界では「めめしさ」とか言っていた。「めめしさ」こそがこの状況を生き残るためのキイワードだ、とかなんとか言っていたのではなかったか?

 当時、吹けば飛ぶような青二才だった私は、その話が何を意味するのか、実はよく分らなかった。が、やって来たばかりの大都会で馬鹿にされるのも嫌だったので分った振りをしていた。
 いや、実は今でもよく分らない。銃撃の、爆撃の標的にされる、あるいはそのような行為を見ず知らずの異郷の人々相手に行なう事を強要される、そりゃ、青くもなるでしょ、逃げるでしょ隠れるでしょ。女々しい奴でなくともさ。
 まあね、もう30年以上も前の話。時代は今よりずっとずっと”男らしい”潮流の中にいた。”体制側”ばかりでなく、あの頃学生運動をやってた連中だって、今思い出せば旧制高校的男権主義ノリだったでしょ。そして、性と文化の革命を提唱し、男女同権を語る男は居間のちゃぶ台の前にふんぞり返り、そいつの同棲中の彼女は、黙々と台所で夕食の用意をしていたのだった。

 あの頃は逃げたり隠れたりするにも、もっともらしい理論的裏付けなど必要だったのかなあ、などと思ったりする私は、「そういうことじゃない。いまだに何も分かってないなあお前は」と”出来る人”に言われてしまうのかもしれない。
 ふん、言われたって平気だ。”分っている”あなたが時代の中で何ごとも成しえなかったこと、私ははっきり見て来たから。なあ、ご同輩。

 加川良は、そうか、私が興味を失ってからも、このような唄を歌いアルバムをリリースして来たのかとその現実を、なんか小学校の頃しか知らない友人の高校時代の写真を今、オトナになってからはじめて見るみたいな不思議な感覚で受け止めつつ、小川さんの文章を目で追って行く。どんな唄なのかな、これは。それを聴いたら、私はどんな気分になるんだろうな。
 加川良のこれらのアルバムを、これから私は聴く事があるかどうかは分らない。が、ともかくまた否応もなく明日はやって来て、そして我々は何とかそいつを生き延びて行く。
 拝啓。そちらの景気はどうですか。私は何とかやってます。ヨウソロ。





ルミ、ベンチャーズを撃滅!

2009-06-04 04:57:43 | 60~70年代音楽

 ”ベンチャーズ・ヒットを歌う!”by 小山ルミ

 この盤、「いやあ、笑っちゃうぜ!」とか言って終わるはずだったんだけどね。ともかく買うときにはそのつもりでいたんだけれど。それどころじゃなかった。小山ルミを見くびっちゃあいけねえぜ。

 あの小山ルミがベンチャーズの作曲作品ばかりを歌った盤であります。まあそれは”二人の銀座”にはじまり”雨の御堂筋””京都慕情””北国の青い空”などなど一連のベンチャーズもののヒット曲をカバーした1971年度作品というのは、当時の歌手としてはそりゃああっても何の不思議もない企画盤なんだけど、”急がば回れ”とか”10番街の殺人”なんて曲に日本語詞をつけて歌いまくるってのはどういう発想なんだか。
 特に後者なんかは誰かがギャグで歌っていたなあ、「10番街で人が殺された~殺したのは誰だ~♪」なんて風に。あんな素っ頓狂な出来上がりになるよりしょーがねーだろ。

 そんな具合に隠れた奇怪盤をこちらとしては半分期待していたのだった。
 でも、聴いてみると何もゲテモノ盤でもなんでもないんだよね。これもやっぱり早過ぎたロック少女としての小山ルミのソウルフルな傑作アルバムだったのだ。
 いろんな意味で期待した(?)、”急がば回れ”や”10番街の殺人”はインストものでしか成立しない曲なんかではないんだね、普通に60年代のロック曲の解釈の一つとして聴けてしまう仕上がりになっていた。ゲテモノでもなんでもない、カッコ良いロック歌謡なんだ。

 そして、ベンチャーズの日本人歌手への提供曲に顕著な安い日本情緒(あれだけ日本に何度も来ていながらこの底の浅さ。さすがはアメリカ人だと呆れる)も、小山ルミにかかると軽く吹き飛ばされるというか漂白されてしまうところが嬉しい。使われている臭い和風の音階が小山ルミのロックな歌唱にかかるとさっぱり日本情緒をかもし出さない、この痛快さ。ザマミロだ。
 それにしても。実は私、小山ルミってリアルタイムで見ていても不思議はない世代なのにろくに記憶がない。これが残念だ。もっときっちり見ておけばよかった、聴いておけばよかったと大いに反省するのですよ、まったく。

1.二つのギター
2.雨の御堂筋
3.京都慕情
4.霧のめぐり逢い
5.二人の銀座
6.京都の恋
7.さすらいのギター
8.10番街の殺人
9.異国の人
10.急がば廻れ
11.東京ナイト
12.北国の青い空


ラブ・ウインクスの幻を追って

2009-05-20 13:20:46 | 60~70年代音楽

 ”恋のコマンド”by ラブ・ウインクス

 やっぱ俺なんかの青春はさ、キャンディーズのさよならコンサートで終わったからさ。とかなんとかドサクサで言ってみたりする。もしかして年齢的に若干の矛盾が発生しているのかも知れないが、とくに気にしないことにしている。まあ多少の誤差はあれ、話の成り行きはそういうことだからだ。
 そのキャンディーズの人気が全盛だった1977年にラブ・ウインクスはデビューしている。三人組のその真ん中で歌っているコが蘭ちゃんの”そっくりさん”担当であり、ようするにキャンディーズの人気にあやかった、いわゆるバッタもんのグループだった。当時はいました、そんなグループがいくつも。

 目の前にメンバーの名が書かれた資料があるが、誰が誰やらよく分からない。その、真ん中で歌っていた子が平田というのかな?メンバーの名も把握できていない始末だ。資料に載っているジャケ写真を見ても、誰が蘭に似ているというのだ、という・・・
 なにしろ関西を中心に活躍していたグループであって、私も実はラブ・ウインクスの動く姿と言うものはテレビで一回見たことがあるだけなのだった。そして彼女らは、私の知らぬ間に解散してしまっていた。

 ”続・歌謡曲番外地”なるアンソロジーに彼女らの代表的ナンバー、”恋のコマンド”が収められているが、せこいマシンガンの発射音に導かれて、どこぞの刑事ものドラマのテーマ曲みたいなイントロが鳴り渡り、ラブ・ウインクスのコーラスが始まる。その、なんとかキャンデイースの歌声らしく聴かせようとしている苦心の歌唱がなかなか楽しい。結構それらしくて嬉しい。

 そんな楽しみ方でラブ・ウインクスのファンもやっていたのだが、まあ、本気で支持するのは当たり前だが本物のキャンディーズだけで十分と言う事で、ラブ・ウインクスの何枚かリリースされたシングル盤も買わずに来てしまった。
 今聞き返すと相当に楽しいんだがなあ。キャンディーズのB級感覚横溢するパロディともいえる、70年代アイドルポップスのあれこれ。”恋のコマンド”のB面なんか上沼恵美子の作詞だぜえ?関係者、何を考えていたんだか。

 これらの盤をリアルタイムで買うことさえ出来たのに、もったいない事をしたなあ。などといまさらの想いを抱きつつ、ラブ・ウインクスの盤を求めてネット空間を彷徨い、とんでもない高値で取引されていたらしいオークションの跡を見つけて呆れたりする。こちらとしては、貴重なオリジナルのアナログ盤を大枚はたいて手に入れる気もなく、「ラブ・ウインクスのシングル曲を集めればアルバム一枚でっち上げるくらい出来そうなのに、なんでやらないかなあ、レコード会社は」とか思うのみなのだが。

 などと無駄な文章を書きながら、なんとなく甘酸っぱい気分になっている自分が可笑しい。冗談でもなんでもなく、それなりに面白い時代だったよ、あの頃。どうしているのかねえ、ラブ・ウインクスのメンバーたちって。


わが心に歌えば

2009-04-30 02:49:58 | 60~70年代音楽


 ”With a Song in My Heart”by Stevie Wonder

 最後まできちんと聴いた事のない盤について書く。もちろん、現物を持ってもいない。
 ”我が心に歌えば”は、あのスティービー・ワンダーが1963年、まだ13歳の頃に出したアルバムだ。ディズニー・ソングの「星に願いを」をはじめとして、チャップリン作の美しいバラード、「スマイル」などスタンダード・ナンバーを、オーケストラをバックにじっくり歌い上げた作品集だ。

 ストリングスや大編成のコーラスが前面に出ていたり、ジャズっぽいアレンジだったり、大人っぽい音作りの中でスティービーは、それら古き善き時代の思い出たる名曲の数々を丁寧に歌い上げている。
 ジャケの、大きく口をあけてマイクに向う幼いスティービーの屈託ない笑顔が、なにより印象に残る。
 音楽ファン稼業を始めた頃、なんとなくこのアルバムに憧れを持っていた。まずタイトルがいいじゃないか。我が心に歌えば、だ。当時貰っていた小遣いではロックの最新シングルを追うのが精一杯で、とてもR&Bのアルバムなど購入する余裕はなかったのだが。

 当時の私はこのアルバムをよすがに、幼くして視力を失ってしまった少年歌手のスティービーを見守り、その才能を育んでやろうとする彼の周囲の大人たちの愛情溢れる視線と、青春のとばくちに立ち、未知の明日に向い頬を上気させているステービー少年の胸のざわめきなどを空想して、陶然となっていた。
 世の中がそんな奇麗事で出来上がっているなんて事はありえないと、その頃の私はもう、うすうす知っていたのだが。いや、だからこそ、そんな甘ったるい妄想を弄ぶのが快かったのかも知れない。

 このアルバムをスティービーが録音したのと同じくらいの年齢だった私は、オトナになったら子供の頃からの憧れの通りにSF作家になろうか、それともこのところ急激に胸中に育って来ている音楽への情熱に殉じた一生を送ろうか、などと思い巡らせながら、丘の上の中学校へ至る坂道を歩いた。背中に春の日差しを感じながら。
 お笑い種さ、そんな夢を信じたがっている自分は、とてつもない甘ったれだ。学校に行き着く頃には、いつもそのような結論が出る事になっていた。

 歳月は流れ、懐具合にも余裕が出来、が、私はついにこのアルバムを買うことはなかった。 大人の耳で聞けばこのアルバム、変声期ただ中のスティービーの幼い歌声が、なにやら思春期前期の少年の青臭い性の懊悩など連想させ、気色悪くも感ずるようになっていたのだった。
 だから私はレコード店店頭で一度試聴しただけで、もうこのアルバムを忘れてしまう気でいたのだが。ご覧の通りこんな具合に、アルバム”わが心に歌えば”をふと思い出す夜もある次第である。。

裸で何が悪い

2009-04-25 02:53:21 | 60~70年代音楽


 ”Naked, if I want to”by Moby Grape

 ”あなたの街を歩きながら
  裸になっちゃおうかなあ
  7月4日に花火を打ち上げられるだろうか
  アンプを月賦で買うことが出来るだろうか
  文無しだけど 死ぬまでには払えるだろう”

 ”Naked, if I want to”はサンフランシスコのサイケデリック・ロックバンド、Moby Grapeのレパートリーであり、メンバーのJerry Millerのペンになる、とぼけたブルースロック調のその曲は、1968年に発表された彼らのデビューアルバムに収められている。
 と思うんだが、とうの昔にその盤を紛失している当方には、それを確かめるすべがない。彼らの2ndアルバムである”Wow!”はCDで持っているのだけれど、それに収められている同曲の演奏は、一分足らずのオマケ程度のおふざけヴァージョンである。まあ、「どうしても聴きたい!」と渇望するような曲でもないのだが、ご時世なんで、ふと思い出した次第。

 この曲とバンドのことは60年代の終わり頃、植草甚一氏の”ニューロック”に関する文章で知ったのだった。ジャズ評論で人気のあった”不思議な爺さん”である植草氏は当時、”ロックの新しい波”に入れあげておられ、氏が雑誌等に書くロックの最新情報は、その種のものに飢えていたロック小僧の当方にはたまらなく魅力的であり、貪り読んだものだった。

 もっとも当時、最先鋭の盤がソッコーで日本盤発売となるでもなし、輸入盤店が今ほど一般的だった訳でもなく、植草氏が話題としていたレコードそのものを入手出来たのは、その数年後だったりするのだったが。
 そして、手に入れてみるとそれらの盤の多くは、あの植草氏の文章の中にあった”60年代末”という時代の高揚の幻から醒め、なんだか朝の光にさらされてしらっちゃけてしまった昨夜書いたラブレター、みたいな響きを醸し出すばかりだったりもするのだった。

 ・・・しっかし警察も、何を見つけるつもりで家宅捜索までしたんだろうねえ。
 あんなに大々的に報道されちまった”単なる酔っ払い”もいないだろうなあ、なんかかわいそう・・・
 それにしても。あれだけ飲んだら、そりゃあ気持ちが良いだろうなあと、ちょっぴり羨ましいみたいな気持ちにもなった私は、長年の飲み過ぎで医師に飲酒を制限されている。人生は上手く行かない。


 ○草なぎ容疑者宅を捜索=24日送検へ-公然わいせつ容疑で警視庁
 (時事通信社 - 04月23日 17:01)
 東京都港区の公園で全裸になったとして、SMAPのメンバーでタレントの草※(※=弓ヘンに剪)剛容疑者(34)が公然わいせつ容疑で現行犯逮捕された事件で、警視庁赤坂署は23日午後、同区赤坂にある同容疑者の自宅を家宅捜索した。24日に同容疑者を送検する方針も固めた。
 同容疑者は23日午前3時ごろ、同区赤坂の檜町公園で全裸になったとして、逮捕された。
 同署によると、同容疑者は酔いが完全にさめておらず、取り調べが十分にできていないため、行動の全容を解明するため、身柄送検する。
 捜索は動機や背景を裏付けるのが目的で、押収物はなかったという。
 同容疑者は22日夜、同区赤坂の居酒屋で、知人の男女とともに飲酒。23日になっても飲み続けた後、徒歩で女性と帰宅した。
 同容疑者は同日午前2時20分ごろ、同公園に入る階段付近で別れた。知人は著名人ではないという。
 尿検査の結果、薬物反応は出なかった。
 同容疑者は容疑を認め、「ビールと焼酎を飲んだ」と供述している。

G.S.I LOVE YOU

2009-04-21 03:27:47 | 60~70年代音楽


 ”G.S.I LOVE YOU”by 沢田研二

 なんかねえ、今日は酒を飲んで良い日のような気がしてならないんだよ。まあ、飲んで良い日も何もない、医師に「あなたはとっくに、人の一生分の酒を飲んでしまったのだから。もう飲まなくてもいいんじゃないですか」と禁酒令を出されている身、飲んで良い日なんてはじめからありゃしないんだが。
 うん、まあ、それでも最初の三年は真面目に一滴も飲まずにいたな。その後、週に一回だけこっそり飲むようにしたんだけど。ときどきそうやってガス抜きしないとヤバいんだよ。毎日、首吊って死ぬ事ばかり考えるようになってしまったから。それを実行に移すより飲むほうがマシでしょ。
 医師は気が付いているのかどうか。定期検査の結果は良いんだそうで、特に文句は言わない。週一の飲酒なんてのは誤差の範囲内なのかね?知らないけどさ。

 昨日に続いて後ろ向きの話を書いてしまうが、元人気GS・ジャガーズのメンバーだった岡本信が亡くなったというニュースを見たんで、ちょっとGS話を書いてみたくなった。
 とは言うものの、とくに岡本のファンだったわけでもない。ただGS全体に、というか彼らとその時代に思い出、と言うよりは時を経ても消えない執着がある。それだけの話だ。
 ジャガーズのライブを、その全盛時代に東京は新宿の”ACB”という店で見たことがある。そこでも岡本の印象は特にない。ボーカルの彼より、ギタリストがリッケンパッカーの、ジョン・レノンが使っているのと同じモデルを弾いているのが羨ましくてならず、そればかり見ていたのだった。

 自分の還暦記念パーティの日に逝った岡本は肝臓を病んでいたそうな。飲み過ぎだったんだろうな。この間亡くなったゴールデンカップスのデイブ平尾なんかも、いかにも飲み過ぎで命を落としそうなタイプだが、死因はなんだったか。そういえばテンプターズのドラムだった大口広司は何で亡くなったんだっけか?
 それから、自ら命を絶ってしまった元ブルーコメッツの井上忠夫。GS時代には大張り切りのモーレツサラリーマンみたいなキャラで弱ったものだった彼だったが、そんな人物が自死するのなら、これはもうしょうがないじゃないかって気がする。
 そうか、カップスはもう一人、ケネス伊東も、かなり早くに亡くなっていたんだ。それから、ほかに亡くなった奴は。

 などと点鬼簿を指で追っていると、GSのメンバーだったもので幸せになったものなど一人もいないのではないかなどと思えてくる。皆、オノレの定められた寿命が来る前に運命の蝋燭の前に立って自ら炎を吹き消し、力なくこの世から歩み去って行った、そんな風に見える。そうする理由など問うても無駄である。彼ら自身にも分かってはいないのだから。
 ただ、そんな消え去り方が、彼らにはなぜか似合いに見えて仕方がないのだ。GS全盛期に、エレキギターを抱え夜汽車に乗って東京に行き、どこかのGSもぐりこむ、なんて家出の計画を本気で立て、実行に移しかけて親に張り倒された経験を持つ私には、そう見える。

 そんな中で、この間、テレビで見たライブの出来では還暦過ぎても元気だったのが、沢田研二だった。そりゃ、経年劣化というものはあるにしても、ちゃんと声も出ているし、悲惨な部分が見えなかったのはたいしたものだろう。「20歳になったらやめようと決めていたロックなのに、自分は60過ぎてもまだ歌っている」との言葉が心に残った。

 その沢田に、”GSアイラブユー”ってアルバムがあるのだった。1980年度作品。ワイルドワンズの加瀬邦彦がプロデュースを担当し、佐野元春の楽曲などを取り上げている。
 沢田のソロアルバムの中ではひときわロック色の強い作品で、「60年代、タイガースのメンバーとしてデビューした当時は、自分の望むようなロックではなく歌謡曲色の濃いGSソングばかり歌わねばならなかったジュリーが今、若いロック世代のミュージシャンの協力を得て、”あの頃やりたかったロック”を実現してみせたアルバム」との評価がある。

 私もこのアルバム、そのような作品と捉えてきた。が。よく聴けばここで聴かれるのは沢田が青春の日に入れあげて来たローリングストーンズのようなロックの響きはないのだった。周囲を固めたミュージシャンの個性から行って当然と言うべきか、むしろビートルズ寄りの音がしているのだな、このアルバムからは。そうなった理由は。その方が売れるであろうから、という正しい芸能の論理からなのだろうけれど。
 沢田がこのアルバムのテーマと出来上がりとをどのように考えているのか、気に入っているのかいないのか、それについての発言を聞いたことがない。もしかしたらそんな余計な感傷などなにもない、あれは彼が長い芸能生活でこなしてきたたくさんの仕事のうちの単なる一つ、だったのかも知れず。

 ただまあ・・・自由に至る道は遠く、誰にでもたどり着けるものではなく、人はいつか歩きたくもない道を歩み、気が付けば死んでいる、そんなものなのだろうなあと思ったりしたのである。

だいせんじがけだらなよさ

2009-02-14 06:30:34 | 60~70年代音楽


 ”寺山修司とともに生きて”by 田中未知

 田中未知といえば、寺山修司の”天井桟敷”の初期からのスタッフであり、寺山の詩のいくつかに印象的なメロディをつけた作曲家でもあった。そのコンビの最大のヒット作は、あのカルメン・マキの”時には母のないこのように”なのであるが。
 もう大分前の日曜日の朝、朝日新聞の朝刊の書評ページに載っていた、その田中未知の自伝とも寺山論とも言いうる著作に関する文章に目を通し、私はありゃりゃと頭を抱えてしまったのだった。

 なぜって。マヌケな話なんだが、私は著者の田中未知を男性であるとその時まで信じ込んでいたからだ。
 真相は、寺山の公私共にわたる秘書を勤め、彼を支えた女性であり、寺山の死後は、ヨーロッパの片田舎を、まるで自分を埋葬するかのように放浪してまわる生活を選んだ人であった。
 でも。なぜなんだろうなあ、私はこの人を男性と信じ込んでいた。才能溢れる、快活でちょっぴり皮肉屋であり、寺山の傍にあって、時に寺山を鋭い警句でやり込めたりしている、そんな人物であると。

 と言うか、考えてみれば私は田中未知の仕事を詳しく知っているわけではなく、ただ前出のカルメン・マキの出したデビューアルバムを青少年の頃、先輩に聞かせてもらい、田中未知作のメロディに、それなりの感興を抱いた、と言うだけの話だったのだ。

 時は激動の60年代末。聞かせてくれた先輩はすでに大学生であり、今で言うサブカルチャーの支持者であり、その種のことが好きそうな私を、いわばオルグでもするような気で、そのアルバムを聞かせ、寺山の演劇の何たるかを語って聞かせてくれた・・・ようなのだが、その件は何も覚えていない。
 ただ、午後の陽光が差し込む部屋の中に響いていた、田中がカルメン・マキのために書いた牧歌調のメロディだけが印象に残った。「さよならだけが人生だ」そのアンサー・ソングである「さよならだけが人生ならば」などなど。

 そのアルバムに収められていたのはギターをはじめたばかりの私にもコード進行の予想のつくような素朴なメロディばかりだったが、これはおそらく、もっと技巧の凝らした音楽を作ることも可能な人が、寺山の詩のテーマと歌い手のキャラに合わせてあえて演じてみせた素朴さのように感じた。
 これに関しては田中未知がその後、結構メジャーな映画の音楽を担当し、複雑なスコアをものにしていたことから、結構あたっていたのではないかと思う。

 それにしても・・・考えてみればもう何十年も前の話ということになってしまうのに、その時に一度聴いただけの「さよならだけが人生だ」などのメロディをいまだに覚えているってどういうことだろうか。
 でさあ。もう一回言うけど、カルメン・マキの初期、フォーク期のアルバム、現在絶版状態だけどさ、何とか再発出来ませんか、レコード会社の皆さん。廃盤にしておく理由と言うものが分からないんだよね、私には。


もう一人のマキの不在

2009-01-22 05:25:39 | 60~70年代音楽


 ”カルメン・マキ真夜中詩集ーろうそくの消えるまで”

 いつぞや、「浅川マキの過去のレコーディングが今、”ダークネス”なる中途半端な編集盤シリーズがあるだけで、すべて絶版状態にあるのはどういうわけだ?」などと書いたが、同じ時期に活躍したもう一人のマキ、カルメン・マキのデビュー当時のアルバムも絶版状態が続いているのはどういうわけだ?

 いやね、今、ふと彼女のデビュー盤が気になって調べてみようと検索してみたら、”ロック転向後”の、つまり”カルメン・マキ&オズ”の状態になってからの情報ばかりがドカドカ出て来て、それ以前の資料にまるで出会えなくてなんだか妙な気分なってしまったから。
 まるで何者かが彼女のデビュー当時の記録を意識的に隠蔽しようと工作した後の、”処理済み”の情報群をあてがわれた、みたいな感じだ。
 通販サイトに当たってみても、当時の音源は2枚組のベストアルバム、あるいは6曲入りのミニアルバムがあるだけで、オリジナル盤は”絶版物件”としての表示さえされていなかったりする。
 そりゃ、2枚組から曲を拾えばデビュー盤を再構成するのは、実は可能なんだけど、こちらはジャケも含めたオリジナル盤の再発が欲しいのであってね。

 おっかしいなあ。何しろ当時の彼女は”時には母のない子のように”なんてヒット曲をもって紅白歌合戦にさえ出たというのだから、そんな時代の記録がまとめられていず、音源も絶版に近い状態とは、変じゃないか。
 もしかして、”私はロックです”と意固地になっちゃった彼女があんまりロックじゃない自分のデビュー当時を”若き日の失態”と考え、封印しようとしていて、”信者”である彼女のファン連中もその意を汲んで、当時のことには触れないようにしている、なんてことはないか?などと空想するのだが。

 あ、ちなみに、”ロック転向後”のカルメン・マキの歌に私は、まーーーーーったく興味はございません。ロックフェス通いをしていた若い頃、何度も生で聞いたが、ありがちなジャニス・フォロワー、それだけとしか思えなかったし、その評価は今でも変わらない。何で皆があんなに思い入れを持って語るのか、さっぱり分からないね。

 で、デビュー当時のカルメンマキ、ちょっと今、聴きたい気分なんですがねえ、なんとかならないか。
 リアルタイムでは彼女の歌、さほど興味を惹かれはしなかったのだが、この歳になって再検証してみたい気持ちになって来ている、あれはなんだったのか、と。
 そんな私としては、なんともじれったい気分なのであった。

 当時の彼女といえば、ダルい感じでフォーク調の歌を歌う、あの頃流行の”アンングラ女優”というキャラ設定だった。インドっぽいイメージの絞り染めの服など身にまとい、同じく、いかにもヒッピーなヘアバンドで長い髪をまとめ、ベルボトムのジーンズに裸足、なんて風体だったな。
 で、そんな彼女が歌っていたのは主に、寺山修司作詞、田中未知作曲の独特のフォーク調の歌だった。

 寺山の書いた劇の劇中歌などもあったのかな?まあ要するに寺山修司がイメージした”ナウいヒッピーの歌う唄”を実行するのが当時のカルメン・マキの仕事だったわけだ。その作業に倦んだゆえに彼女は、”ロック”の世界に逃走したのかとも想像されるのだけれど。
 まあ、それはおいておいて。
 その辺の唄を聞き直したくなっている私というのは、要するに寺山の想定した60年代風ヒッピー像とそれに仮託した寺山の詩の世界に触れたい欲求の中にあるということなのであろう。

 ”時には・・・”に続くシングル曲が確か”山羊にひかれて”だった。この唄なんかは、当時の彼女のイメージ設定をそのまま唄にしたようなものですな。
 なんとなくインド~中近東のイメージの乾いた砂漠の風景の中に、ヒッピー姿の彼女が山羊にひかれ、歩を進めて行く。周囲には千年も二千年もの昔から変わらぬ、どことも知れぬオアシスにおける人々の暮らしが展開されていて。

 この、どこかシンと静まり返って乾き切った、そしてなにか作りものめいて、実はどこにも行きどころのない、奇妙な漂白と孤独のイメージ。
 それが生ギターの響きが印象的な音数の少ないサウンドと、田中未知の書いたシンプルなメロディに導かれるまま、訥々と織り成されて行く。
 うん、30年以上の歳月の過ぎ去った今こそ、この寺山系内宇宙ともいうべき風景の中に身を置いてみたい。そんな欲求が自分の心の底にある事を改めて確認したのだよ、私は。
 
 で、どうなのさ。何とかならないの?カルメン・マキのデビュー・アルバムをCD再発して世に出すって事に、何か障害はあるのかなあ?聴きたいんだけどね、今。


☆ カルメン・マキ 真夜中詩集ーろうそくの消えるまでー

A 
1.時には母のない子のように 
2.家なき子 
3.二人のことば 
4.戦争は知らない 
5.マキの子守唄 
B 
1.山羊にひかれて 
2.だいせんじがけだらなよさ 
3.さよならだけが人生ならば 
4.ロバと小父さん 
5.かもめ 
6.時には母のない子のように