木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

聖書を全て通読する歩み 申命記に来ました

2024-05-19 08:11:06 | 随想
私の聖書全ての通読の歩みは2ヶ月近くが
経過した今、申命記に差し掛かりました。
まだまだ先は長いです。
まるで西遊記の玄奘のように、読み進めるに
つれて視界が変わっていきます。

音楽を聞いた後の余韻、小説を読んだ後の感覚、
映画を見た後の残照、旅路を終えた後の視野の
ように日に日に読み終えた段階での私の読後感と
胸中に去来する想いを大切にしたいと思います。

モーセが生きた時代は紀元前13世紀とされます。
今から3300年程前ですね。
しかしモーセによる説教が記された申命記は
紀元前7世紀に様々なレビ人により記されたもの
とされます。
つまりモーセがいなくなってから600年以上の
歳月が経過した後に、後世の人が記したものです。

何事もそうですが、ここが難しい所です。
本当に本人がそのように言ったのかは人を介して
伝わるうちに内容が変わっていきます。
世に宗教と言われるものも例えばイエス・キリスト
や釈迦が話した内容を直接聞いた弟子はまだ良い
として、イエス・キリストや釈迦がいなくなると
イエス・キリストや釈迦に接した弟子の言葉を
次の世代が聞くようになります。
更に時代が下ればイエス・キリストや釈迦に接した
弟子すらいなくなります。
するとイエス・キリストや釈迦が残した言葉を
巡り解釈が分かれ、その解釈を巡って後世の人々
は争うようになります。

解釈の違いを巡り幾つか宗派が分かれます。
そして宗派が互いに相容れず対立や殺し合いを
するようになりました。
まさに宗教戦争、宗教による堕落ですね。

そもそも宗教は権力者が作り出したものであり
人々を支配するためのヒエラルキーになって
いきました。
宗教は教会の見解とは違う見解を許さず、仮に
真実や真理を述べた者がいても異端とされ宗教裁判
にかけられ中世の欧州では夥しい数の人々が
火炙りや磔により公開処刑されていきました。
今日的に言う霊的な能力の高い女性は魔女とされ
魔女狩りが行われ多数の欧州女性が火炙りや磔など
による公開処刑をされ散っていきました。

まだ聖書全体の8分の1程しか読み進んでいませんが
聖書を読めば読む程に日本人には無い感覚の世界が
そこには記され、結果として日本人である事の
自我を確認できるという展開になってきました。
私は魂と肉体との関係により天と地とを敬い
神仏を敬い人として今を生きるという本質に
立ちます。
私の視野は宗教には依存しません。
また私は宗教ではなく天を敬うという感覚です。

宗教はやがてそれぞれの宗派の教条に縛られて
それぞれが奉戴する信仰を巡って争い殺し合い
まで行い、その繰り返しを重ねてきました。
結果として人々は宗教により分断され支配階級は
宗教を巧みに操り世の中を支配統治してきました。

いつしかバチカンが悪魔崇拝の総本山と化し、
悪魔崇拝儀式やそれに必要な生贄を求めて世界中
で人身売買や人に反する行為、小児性愛などを
重ねてきた事が明るみにされました。
人が成長の過程で恋に恋する事があるように、
人は宗教に依存する事で宗教に入る事が目的と化し
何かを見失うようになるのでしょう。

日本のクリスチャンは純粋だと感じます。
しかし時々、牧師さんが教会に来て聖書を学びなさい
とか牧師から聖書を学びなさいと言っている事を
聞くと違和感を覚えます。
教会に来て聖書を学ぶのではなく自分が聖書そのもの
を読めば良いではないかと。
牧師から聖書を学ぶのではなく自分で聖書を読めば
良いではないかと。
またクリスチャンになる事が全てではなく、また
クリスチャンになる事が目的ではないでしょう。

牧師や僧侶の方々の中にコロナワクチンを何回も
打っている方々がいます。
果たして本当に天上界や高次元界と繋がっている
方々なのでしょうか?
私には疑問です。
疑問だけではなく不信感すら覚えます。
聖書には悪魔の刻印が押される事が警鐘として
記されているではありませんか。
にもかかわらず牧師の方々でコロナワクチンを
打っている方々は聖書を理解していない事に
なりますね。

聖書を知らずとも、感性の高い方々はコロナワクチン
は打ってはいけないという事を感性として理解して
います。
聖書を知らずとも天上界や高次元界と繋がる
方々だと言えますね。

更には支配階級の傘下にあるメディアが垂れ流す
ままに牧師や僧侶の方々でワクチンを何回も打ち
ロシアが悪魔だと言い、プーチン大統領やトランプ
大統領は酷い人だと言っている方々は偽者では
ありませんか。

またギリシャ神話で登場する絶対神であるゼウス
は聖書には登場しないでしょう。
地球には様々な系統があり聖書もその系統の1つ
だという視野で良いかと私は思います。

いずれにしても聖書を全て読み通す通読はまるで
旅路の視野のようでもあり、私は知的好奇心に
よります。
様々な世界や風景がある事を知りながら視野を
開けていければ良いなと思います。

聖書を全て読み通す事を始めたおかげで日本人
としての自我が更に強まり、また日本は西洋でも
東洋でもない日本は日本として四方を海に囲まれて
護られて存在してきた事を改めて感じました。

申命記も読み終える事が楽しみです。


コメント (2)
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