木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

新緑の連休に

2012-04-30 18:19:04 | インポート
 ゴールデンウイークで世間は大型連休である。私も故郷の広島
県に帰省して実家でゆっくり過ごしている。久しぶりに帰省すると
市街地を取り囲むような山々の新緑が美しく、萌えるような緑に
新鮮な気持ちにさせられる。
 道路事情や交通網が以前よりも随分と整備されて、今や大阪圏
から故郷の広島県まで高速道路を走れば3時間少々で帰る事が
できる。好みの曲をかけながらハンドルを握っているうちにあっと
いう間に大阪と広島県を移動する。今や大阪で暮らしていて故郷
から遠く離れているという感覚ではなく、すぐに移動できる距離と
いう感覚で、従って望郷の念のような感覚は以前に比べて失われ
てしまった。
 
 私が大学生の頃はまだ山陽自動車道も姫路までしか開通してい
なかったので当時に暮らしていた京都府内との往来は随分と時間
がかかったものだ。加えて大学生の頃だから懐事情も厳しく、高速
料金を使うのがもったいないので普通の国道を車で走って帰省し
たりした為にゆうに10時間以上はかかった。そういう時分は故郷は
遠いな、という体感であり、時に望郷の念もしみじみと湧く事もあった。
 今や故郷の実家は私にとって別荘のようなものである。
 美しい山々に囲まれ、美しい瀬戸内海に面し、情緒ある江戸時代
の町並みが残っており、銘酒もある。実家はごく普通の家屋ではあ
るが幼少の頃からの思い出も詰まっており、素晴らしいロケーション
にあるので帰省した折はのんびりと豊かな時間を過ごせる。
 従ってまるで別荘のようでもある。
 両親とも久しぶりに談笑する。

 外を歩いていると近所の方が「あら、久しぶりね。」と話しかけてく
る。私が幼少の頃に見覚えていたその方はいくばくかの年輪を刻ん
でいる。「大阪はどうですか?」と聞いてくるので賑やかなところで
すよと答えた。
 思えば縁もゆかりも全くない東大阪市に暮らし始めて9年が経過
する。何故、東大阪市に暮らしているのと皆が不思議がるのだが人
生にはひょんな事からどこかの地に行くきっかけが出来る事もあり
会社勤めでも全く縁もゆかりも無かった地に単身赴任することがあ
るように私もそういうひょんな事から東大阪市に暮らすようになった
のだが、今では東大阪市の市民の方々や経済人、経営者の方々に
支えられて政治活動を行っている。
 数年前、私の後輩で現在は広島市議会議員をしている方から、
「木村さん、どうして広島を捨てたのですか!?」
と寂しそうな表情で詰問されたが、私は別に広島県を嫌になって飛び
出したのではない。そうか君は私が広島県を捨てたと受け止めていた
のか、とそういう驚きの気持ちで説明した。
 少年が成長するにつれて故郷の街から大学へ進学するに際して故
郷を離れる。その時の気持ちは故郷や親元を離れるという寂しさより
もこれから始まる新しい学生生活に希望を燃やしたものだった。後輩
の広島市議会議員はそのまま故郷に戻って政治の道を歩き始めたよ
うだが、私は関西に残った。人生には色々な交差点と道のりがあるも
のである。

 瀬戸内海沿いの美しい海沿いを車で走る。そうしてやや小高い丘に
上がれば瀬戸内の美しい眺めと沖合いに浮かぶ島々の壮大な風景に
心を洗われる。雨に煙る日もあれば夕刻に黄金色に海が染まる日もあ
り、また季節によっては紅に染まる時もある。
 波が寄せては返していく。寄せては返すその波音を聞きながら人生
もまた然りと思った。そして絶え間ない潮騒が私の中を通り抜けていく。
 時折、帰省して少年の頃に見た景色や少年時代を過ごした様々な記
憶の原風景をなぞる事は大切である。時折立ち止まり、二度とは戻れ
ない過ぎし時間を回顧する事で今を生きる確固とした芯ができていく。
人は常に過去・現在・未来という3つの時間と向き合う中で自我や意思
が育まれていくものだ。
 少年時代から陸上競技をしてきた。大学でも途中まで陸上競技をして
きた。広島県で走っていた頃の選手がオリンピック選手になった。そし
て大学の陸上部でお世話になった先輩が2名、オリンピック選手になっ
た。自分が直接接してきた範囲の中から3名もオリンピック選手が出た
という事は人生の縁の何たるかを感じる。意識して狙ってもそのような
確率に見舞われる事はなかなか有り得ない。
 帰省して読んだ新聞紙でその元オリンピック選手が広島県内の大学
の指導者になるという記事があった。また別の欄では大学時代の女性
の先輩ランナーが今度のロンドンオリンピックに向けて臨んだレースで
優勝している事を伝えていた。

 瀬戸内海の眺めを見つめながら流れていく時間を感じている。
 流れていく時間の中に詰まった幾つもの場面や物語、記憶や思いを
味わう時、時間が流れていくという事はこういう事なのだなと感じる時
であり、また時間が流れるという事はまた良いことだなと思うのである。

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休耕田で戯れる猿の群れ

2012-04-27 23:38:01 | インポート
 先日、気晴らしにロングドライブに出た。奈良県と三
重県との県境辺りの新緑の多いコースを駆けた。休耕田
の中に猿の群れがグループで草木を噛んでいる光景を目
にした。ニホンザルであろうか真っ赤な顔をしている。
 車を停めてしばらく猿の仕草を眺めた。
 
 猿から類人猿へ、そして人になったとされているが果
たして本当だろうか、と私の脳裏に素朴な疑問が浮かぶ。
 猿と人は似ているようで似ていない。
 全く別物ではないのか。進化論では猿から人へ進化し
たことになっているがしかし猿は猿である。猿から決し
て人にはなれないと素朴に感じた。
 もし猿から人に進化していたのなら何らかの共通性が
あるだろうし猿のままに留まっている猿類と猿から人へ
と進化した類との違いが分からない。
 固定観念を捨てて見ると人はいつから人になったのか
という素朴な疑問が湧いてきて面白い。もしも猿から人
へ進化した事が本当であるなら、私の祖先の遠い祖先は
猿だったという事になり、受け入れがたいし信じ難い。
 猿はこうして猿のまま生きている。
 では私の祖先もいつかは物事の始まりに辿りつく筈だ
がどこまで遡れば始まりに至るのだろうかと想像を膨ら
ませてみた。

 宇宙人と聞いて何を想像するだろうか。宇宙人の存在
の是非が問われる事もしばしばある。宇宙人を論じるだ
けでふざけるなと思う人もいるだろう。しかしそれでは
発想が乏しいし、視野が狭いと言えまいか。発想を柔軟
にしてみる。
 宇宙人、それは私達でもある。私達も宇宙人である。
 どういう事かと言えば私達は地球に生きている。では
その地球はどこにあるのか。宇宙の太陽系の中にある。
更に太陽系は銀河系の中にある。
 つまり私達は宇宙の銀河系にある太陽系の中にある地
球に生きているのだから広義の意味で私達も宇宙人であ
る。地球しか見なければ私達は地球人であるが宇宙から
見ると私達は宇宙にある銀河系の中の太陽系の地球に生
きるのだから宇宙人である。
 地球外生命体がいるのかどうかはまた別の問題である。
 地球人類ともしかしたら宇宙人類がいても不思議では
ない。どちらも人類になる。生きている場所が地球なの
か地球外なのかの違いはあってもどちらも人類である。

 光はまさに神が創ったものである。この世で最も速度
の早い存在は光の光速である。私達の生きている地球が
位置する銀河系は実に広大で広い。銀河系の直径は光の
速さで移動しても10万年かかる距離だと判明している。
10万光年の距離である。
 これほどに広大な空間の中に太陽系が含まれ更にその
中に地球がある。分からない事だらけである。従って今
日までの定説や常識が明日になれば新発見により覆る事
はいくらでも生じて不思議ではない。人間の科学ですら
宇宙空間を前にすれば微々たるものである。人間の全知
を結集して科学の限りを尽くしても現在、宇宙全体の僅
かしか分かっていない。全体の97~99%は科学でも
理解できないのである。
 で、あるならば今日まで私達が知ってきた事、知った
つもりになっている事はほんの一握りであり今後、何が
起こっても不思議ではないという事になる。

 地球の内部の構造も分からない事が多い。人間は明日
の天気すら完全には予想できない。ましてや宇宙空間は
今も尚、膨張を重ねている。太陽の活動も変動している。
 端から端までの距離が10万光年という銀河系の中に
私達は生きているのだが、その銀河系が宇宙空間には更
に幾つもある。銀河系の外の空間の方が遥かに広い。
 さてNASAは銀河系の端に広大な光が噴出している
姿を発見したようである。また様々な天体軌道の周期の
関連で今年は地球に何かの惑星が急接近するようであり
これはまだ報道等はされていない。
 もし地球に急接近する惑星の影響で引力が変化し、惑
星の放つ磁力の影響が地球に及べば天変地異に近い現象
が生じる可能性が大きくなる。
 このような視点から見ればやはり2012年は何かが
生じる事になっているのかもしれない。

 休耕田で戯れる猿の群れを後に車を走らせた。
 猿を見て、人類は猿から派生したとは思えない。
 定説は色々ある。しかし定説を鵜呑みにしてもしっく
りこない事がある。
 空を見た。まだまだ未知な空間が多い。
 それだから面白いのかもしれない。
 その未知で広大な空間と幾つもの銀河系と更に無数の
天体には軌道や法則がある・・・それは何かの意思のよ
うにも思える。
 無限な広大な空間に何かの意思が働いているとしたら、
人はそれを神と呼ぶ。全知全能の神である。
 宇宙そのものに意思があるのか、何かの意思が宇宙を
構成し更に広げているのだろうか。
 神が宇宙を創造したのか、宇宙が神を生じせしめたの
か。宇宙全体が神なのか。それとも宇宙を更に眺めてい
る全能の目があるのだろうか。
 何れにしても人の営み、地球の営みを遥かに超越して
いる事だけは間違いない。休耕田で戯れる無邪気な猿の
群れの姿がけなげであった。

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2012年ゆえに何かをしでかそうとするのか

2012-04-24 13:16:29 | インポート
 何とかして騒擾を起こそうとしている人達がいるよう
だ。北朝鮮のことである。
 先日のミサイルもどきのロケット発射が予想通りに空
中爆発し失敗に終わった事で、今度は韓国に武力行動を
起こすという趣旨の事をアナウンスしている。
 朝鮮半島という場所は東アジアにおいて常に戦争が生
じる要因を含んでいる。
 つまり何が何でも東アジア、ひいては極東で騒乱を生
じさせたいと画策している人達がいるのだろう。

 今年は2012年である。
 2012年はマヤ暦では人類が滅亡すると推測される
事もあり、何かが生じる年であるとされている。しかし
誰もが何もしなければ何も生じないものを2012年は
何かが起こると信じ切った人達が何かをしでかす、その
事で現象として本当に何かが生じてしまう危険性がある。
私はそちらを危惧している。まさに2012年に何かが
起こる、だから何かをしでかさないではいられないとい
う信仰がそれを信仰する人々を何かの行動に走らせてし
まうのである。

 北朝鮮のメディアが世界に向けて発表したところでは
「韓国に対する武力の特別行動が間もなく開始される」
とのことである。武力と明確に宣言している事がきな臭
い。軍による人海戦術を行うつもりなのだろうか。
 更に北朝鮮のメディアによれば、
「我が革命武力の特別行動は開始されれば3分から4分
の短い時間にかつてない特異な手段と方法で閃光の如く
焦土化することになる」
と述べている。
 数分間の短い時間で焦土化するという事は核兵器の使
用をほのめかしているのだろうか。
 考えられる事は
1)先日のミサイル発射の失敗により失墜した金正恩氏
  の威信を高めるために韓国を敵視させて軍事力行使
  を匂わせ北朝鮮内の結束を図ろうとしている
2)北朝鮮内が極めて厳しい状況にあり、対外的に敵を
  見出し、それに向けて軍事力という形で発露する事
  で北朝鮮内の不満を外に向かわせようとしている
3)韓国が実は北朝鮮を水面下で挑発してきた

という事である。
ここで(3)は考えにくいが、しかし現実の世界は分か
らない。もし(3)の事があるようであれば事態は複雑
になる。
 とどのつまり暴発が生じても何も生産的な事は生じな
い。徒に混乱が生じるだけである。
 この2012年が何事もなく平穏に過ぎていく事を願
うのみである。世界のどこかで2012年信仰を信じる
がゆえの暴発が生じないように各々が努力していく事が
大切である。

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私の宗教観(2)

2012-04-22 19:05:38 | インポート
 もう少し私なりに宗教というものを考えてみたい。
 私の中では宗教は俗な存在である。
 人々は何故、宗教に入るのだろうか。入ろうとする
のだろうか。また何かの宗教に入った者が入らない者
や脱会しようとする者に圧力をかけたり時に危害を加
える事をするのだろうか。
 極めて俗な行為である。
 天上界から見れば人間界は俗である。人間界の俗世
間に生きる人々は俗である宗教に入るのだろう。つま
り俗という共通の感覚で入信するのだろう。

 人間の営みを超越した畏れ多い存在は確かに存在する。
 例えばそれが神仏であったりする。
 神仏を敬う事は大切であり、ならば宗教に入らずとも
真摯に神仏を敬えば良いのではないか。宗教を通じてし
か或いは宗教に入る事によってしか神仏の御加護を受け
られないと説く宗教の教義は偽りではないか。
 真摯に神仏を敬い真摯に生きている人々の前に神仏は
時にその姿を現す事もある。
 それでも信仰や信教の自由ではある。
 人が何を信じようと、それは人々の自由ではあるがし
かし現実の人々と宗教との関係を見ていると本当に神仏
に向かい合っているという姿とは程遠い。
 中には本当に真摯に宗教を通じてその教義を本気で信
じて神仏の御加護にあやかろうという人もいる。しかし
宗教を利用して別の思惑を持っている人達や宗教を信じ
るという人々の心に付け込んで何かを企んでいる人も存
在する事も事実である。

 過日、私はある名刹にお参りをした。
 真摯に本尊と向き合おうと本殿の前に立ち、手を合わ
せ祈ろうとしたところ、ガヤガヤと雑音が聞こえてきた。
よく見ると賽銭箱の横に番小屋のような部屋がありその
中で社務に携わっている人々が雑談をしているではない
か。聞くまいとしても自然と聞こえてくるその雑音は極
めて俗な会話であった。町内会がどうのこうの、あの人
がああだこうだ、誰それがいつ何をした、そういう会話
だった。私は一気に興が冷めて腹立ちを覚えた。あなた
達は神前に仕えながら何というたるんだ姿を晒している
のか。日々ルーチン業務として社務所に詰めているうち
に緊張感も失い、こうして参拝している私のような参拝
者の姿も見えず、或いは見えていてもその前で平気で俗
な会話をガヤガヤとしている。何と言う堕落した姿か。
あなた達のような存在を「偽坊主」というのだ。私から
見れば偽者だ。きっとこの社務所に詰めている人達は檀
家の所へ行ってはもっともらしい教義を講釈しているの
だろう。
 またある日の事。
 私はある山中の名刹にお参りした。
 参拝を終えて境内にある社務所に尋ねたい事があった
ので向かうと、何と詰めている坊主が椅子にどかっとも
たれたまま、口をあんぐり開けていびきをかいて寝てい
るではないか。私が窓口に立った事にも気付かず椅子に
もたれたまま大きく口を開けて顔が天井を向いたまま見
苦しい姿を晒している。見よ、この面を。
 私は腹立ちを覚えたのと同時に阿呆臭くなって尋ねる
事をやめた。惰性で日々の社務に従事しているだけの偽
者ではないか。神仏を敬うという姿のかけらも感じられ
ない。
 こういう偽者の姿を何度か見るにつけ私は神仏を敬う
という事と俗世間の人間が従事している宗教とは全く別
の存在だと認識するようになった。

 教義によれば「人は誰でも救われる」と教えている宗
教がある。「お経を唱えさへすればどのような人も皆等
しく救われる」と説いている教義もある。
 しかしやってはならない事をやった者、人の道に反す
る事をした者はそれ相応の報いを受けると私は思う。人
の人生を破壊しておきながらお経を唱えれば自分は救済
されるという事は有り得るだろうか。
 それを逆手に取って無茶苦茶をして他人に迷惑をかけ
てきた人間が「救われたい」「許されたい」と何かの教
義を唱える。或いはすがろうとする。その姿は間違って
いるのではないだろうか。

 新興宗教は人々の弱みに付け込んで信者を増殖してい
る。大きな病気をした家族がいる家庭に、事故に遭った
人に、何かの弱みを握っては入信したら救われると説い
て勧誘をしている姿を時に見るが、偽りである。
 しかし俗世間に生きる人間は俗という存在の宗教に何
か親近感を覚えるのだろう、そこで入信していく人々が
少なくない。

 私の実家は浄土宗である。しかし浄土宗であると言っ
ても何か宗教活動をしている訳ではない。私の先祖のど
こかの段階で先祖が浄土宗に入ったのだ。だから現在の
私の実家は浄土宗という事になっている。
 江戸時代は各地の寺は現在の役場のような存在だった。
 その寺の管轄下の地域は強制的に自動的にその寺の宗
派にされたとも聞く。信じる信じないとは別にその地域
でその宗派に入らなければその土地にいられなかったよ
うである。それは徳川幕府の人々の管理の手法の一つで
もあった。寺を役場にして厳しい権限を与えて人々を管
理していたのである。
 さてそれはさておき、私は実家が浄土宗であるという
事に不服を申しているのではない。ただ私は浄土宗の教
義に没頭しているのでもなく、ただ素直に御先祖様に手
を合わせ、御先祖様を敬っているのである。
 浄土宗であるという事は結果に過ぎない。

 何れにしても教義よりも真摯に生きるという事が肝要
であり、神仏を敬い先祖を敬うという事が本質である。

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私の宗教観

2012-04-19 13:50:57 | インポート
 宗教という事を私なりに考えた。
 両親を敬う、私の中ではこれは宗教ではない。自ずと
備わっている感覚である。
 先祖を敬い大切に思う、これも私の中では宗教ではな
い。誰に教えられた訳でもなく自ずと備わっている感覚
であり本能のようなものである。
 朝、太陽が昇れば気持ちが良いと感じる。月を見れば
心が落ち着く。またたく星を見れば綺麗だと思い神秘的
だとも感じる。総じて人間の営みを遥かに超越した太陽
や月、星、大自然に畏敬の念を抱くこと、これも私の中
では宗教ではない。
 わが国は八百神の風土である。
 深い谷や巨岩、雄々しい山岳の光景に何かが宿ってい
ると感じ人間界の存在を超越した大きな何かの力を感じ
これを敬うこと、これも私の中では宗教ではない。

 神社にお参りをする。
 お寺に参る。
 つまり神仏を敬うことは私には自然で当然の感覚だが
しかし私の中では神仏を敬う事は宗教ではない。
 では私の中で宗教とは一体何なのか。
 宗教とは人間界の人間が様々な教義を述べて理屈を設
け様々なしきたりや解釈を述べているその姿である。
 従って私は神仏を敬うが宗教は信じない。
 中には僧侶がうんちくを並べ立ててその人の人生を判
断するかのような言動を取っている姿を見る事があるが
それはもはやその僧侶その人の考え、意見、解釈であっ
てただそれだけである。例えば釈迦がその僧侶のうんちく
を聞いたとしたら何と言うだろうか。きっと私はそのよう
な教えをしていないぞと怒るかもしれない。
 宗教では人間同士がその教義の解釈を巡って対立し争い
袂を分かって同じ宗教の中に幾つもの宗派ができていく。
そしてその宗派同士でまた争っている。もはやエゴである。
何かの宗派は宗教に入っていない人に対して何かを購入す
る事を強要したり、何かの儀式を強要し何かを排除する事
まで強要している場合がある。私の中ではつまり宗教とは
極めて俗な存在であり、神仏の存在とは全く遠ざかった所
で人間同士が解釈や教義を巡って争っている人間同士の姿
に過ぎない。
 そして人々は宗教に入る事、入らない事を巡って苦しん
でいる。極めて神仏とはかけ離れた見苦しい姿である。

 新興宗教の中には集金目的で活動しているようにしか見
えない団体もある。教義とは別に金儲けに執着し金にまみ
れている。これも神仏の存在とは無縁の人間同士が試みて
いる俗の行いである。
 また両親を大切にしましょう、先祖を敬いましょうとい
う事が教義にされて信者がそれを唱えている新興宗教も見
た事があるが、それは宗教にせずとも本来において人が備
えていなければならない本能、感覚であって宗教ではない
と私は思うのである。
 
 人は懐が満たされなくても耐えられるが、心が満たされ
ないと苦しむ。更には魂が満たされないと耐えがたき苦し
みに見舞われる。
 空を見上げる。深呼吸をする。海の水平線を眺める。星
を眺め太陽や月の光に癒される。美しい自然に感謝し人間
の営みを遥かに超越した大きな力の存在を畏怖し敬う。
 そこに神仏の姿がある。
 私はそのような感覚である。
 従って私は神仏を敬うが宗教は信じないのである。
 更に言うならば、もっと大きな天という存在があって天
の下に生きたいと願い、天を敬っている。

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